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2023.2 岡田さん

 「こんにちは、岡田です」
 「あー久しぶり」
 夕方に掛かってきた電話の相手は数ヵ月前に退職した岡田さんだった。いまは旦那さんと一緒に住み込みでマンションの管理人をしているはずだ。在職中は「掃除のおばさん」として社員から親しまれていた。
 「いま入院しているの」
 「えっ、どうして。大丈夫なの」
 そう応答して壁の時計を見る。もう宅配のドライバーが集荷に来る時間だ。荷造りはまだ手をつけてない。受話器を持ってない手はガムテープを握ってうずうずしている。
「ごめん。これから荷物を造らなきゃならない。もうすぐ取りに来るんだ」
 岡田さんはなにも答えない。
 「また電話くれる。待ってるから」
 焦る気持ちで一方的に電話を切った。

 そのあと電話は掛かってこなかった。「入院中」と話していたけど大丈夫かなと気にしていたが、だんだんと記憶が薄れていく。しばらくして、亡くなったと聞いた。がんだった。
 恐らく自分の死期を悟り、昔の仕事仲間にお別れの電話をくれたのだろう。ちゃんと受け止めてあげられなくて、切なくてやりきれなかった。
 2回目を掛けてこなかったのは、相手の仕事中に、自分の都合で何度も電話するのは気が引けたのだろう。ただ、一度は掛けてきたのだから、心残りはあっただろうと思う。

 仮に2回目の電話を受けたとしたら、どんな受け答えができただろう。なんとなく懐かしさで連絡を寄こしたのなら「今度遊びにおいでよ」と誘ってみてもいい。ところが相手に「今度」があるかどうかわからなければ、うかつなことは言えない。「いままでありがとう」なんて電話で口にするには軽すぎる。「忘れないから」と伝えてあげたら少しは喜んでくれただろうか。いずれにしても岡田さんはもういない。


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