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0317 ほぼほぼ近くまで
昨日、クレイマー・クレイマーを観た(途中までだけど)。
その中で、奥さんに出ていかれたお父さんが息子に事情を説明するシーンがあった。あくまでもお父さんが“理想のお母さん“を押し付けすぎたせいで、お前のせいじゃないよ、って語るシーン。この時お父さんは懸命に自分のやってきたことと向き合って、なんとかそれを解釈しようと試みるけど職場の上司の前じゃあ、友達に変なことを吹き込まれたんだ、って吹聴していて、その態度から納得のいってなさがあぶり出されてた。
家族や友達、恋人に大して、自分の理想を押しつけて多くを求めすぎてしまうのはよくあること。よくあることだけど、これに大しての特効薬的なものはまだ見つかっていないらしい。こういう症状は歳を重ねるにつれてマシになっている気がする。とはいえ、まだどこかにしこりのような形で残っている存在感もちゃんとある。父親はこういう人間だから言っても無駄、この友達はアドバイスとか聞く耳持たないから話は聞くだけ、とか、どこかでわかりやすい折り合いをつけて、ある種の諦めをもって接することができるように心がけてからは、少しずつ楽になっているような気がしてる。
これは人に期待しない、みたいな冷たい話ではなくて、必要以上の期待をもって接しないこと。希望があるから絶望するんだ、って言葉をどこかで読んだけど、その絶望に立ってこそ見えてくるうすい希望のようなものがあるんじゃないか、とよく思う。
誰かと自分の徹底的な芯までわかり合うことは出来なくても、俺はこの人の芯まで知ることは出来ないんだって実感するだけで、すり合わせのためには幾多の会話が必要な事に気づける。途方も無い作業だけど、そうして丁寧にすり合わせを続けていけば、まったく同じところには行き着けないとしても、ほぼ近く、同じような場所までは歩いていけるのかもしれない。こういうことはどこかで誰かが教えてくれてもよかったんじゃないか。
全然そんなテンションじゃないのに鬱屈した内容になってしまった。これも全部コロナのせいやな。