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緋娜さん@Hina_Kishigataとの議論まとめ

「◯◯なんだから△△しろ」(緋娜さんの元記事)
緋娜さんの記事『◯◯なんだから△△しろ』を読みました~叩けと言われたので叩いてみるテスト~
緋娜さんの記事『◯◯なんだから△△しろ』を読みました~叩けと言われたので叩いてみるテスト②~

 ずいぶん長らく置いていました。緋娜さんから再々反論が寄せられたので、それに答えつつ、全体を総括したいと思います。

緋娜さんの再々反論について

 私は「ある属性A関する理想的な在り方として、行為αが含まれているのならば、『Aだからαせよ』という命令文は正当なものとして存在できる」と返したことについて、緋娜さんは次のように反撃している。

※補足説明:たとえば「キリスト教徒」という属性には、理想的な在り方として「聖書の十戒を守ること」が含まれている。現実に守られているかどうかとは独立に「キリスト教徒なら十戒を守れ」と命令するのは正当であるということ。私はこれと紐付けて、「高校生ならば勉強をしろ」という命令文の正当性も保証できるとした。

要はどのような形であれ、反論ができれば良いのだ。
そこで、こちらもベクトルを変えて『命令文の正当性が守られていても「自分は例外である」ことを示せば良い』ことを主張する。
「~べきとは限らない」のではなく「マナー同様、した方が良いとされるがしなくてもよい」という論理で自分はするよりしない方が良いのだ、ということを示せれば良い。
結論から述べると『ある命令文の正当性が守られていても、その幾段上の正当性をもつもので対抗する』のだ。
(中略)
『「高校生」とは、やはり高等な学問を学ぶべき存在である。ここに私は「高校生なら勉強しろ」という命令文は正しい』
というボルボラさんの主張に対し、確かに命令文に一定の正当性はあるが「高等な学問を学ぶ」ために高校生になったとして「なぜ高等な学問を学ぶ必要があるのか」の前提を考え、例えばそれが「将来金持ちになるための布石」だとすればその高校生が金持ちになるためのアプローチを勉強から他のものに切り変えた瞬間に高校生という枠組みには入っているが勉強はしなくても良くなるのではないか。つまり目的(金持ちになること)の為の手段(勉強すること)が変更された場合等は本文で述べたように前提を崩しての反論が可能であると主張する。

 ここで為されている主張は非常に正しく素晴らしいけれども、議論としては「譲歩させられた」「相手の意見は崩せなかった」という評価になる。緋娜さんの記述に従えば、親と子の会話は次のようになるだろう。

親「高校生なんだから、勉強しなさい」
子「その命令は正当だけど、勉強するのはあくまでお金持ちになるためだ。僕は他のアプローチでお金持ちになる予定だから高校の勉強はしない」
親「なるほど。いったん勉強=金持ちになるための手段という点には同意しよう。でも、高校生なら勉強しなきゃいけないとは認めるわけだね。その上で、自分は特例だと」
子「その通り」
親「わかった。勉強しなくていい」

 これは結果的に勉強しなくていいことにはなっているが、明らかに親の意見は崩せていない。というのも、親側とっては「高校生は勉強するべきだ」という基本的信念を変更する必要は些かも生じていないからである。親はもしかすると、お金持ちになるための方法論に深く納得し、「じゃあ特別に勉強しなくていいよ」と言ってくれるかもしれないが、それはあくまで「違反だが見逃す」という程度の許容に過ぎない。これを「前提を崩す方法を有効に使えた」=「反論ができた」と考えるかは少し微妙なところである。

 たとえば「急な怪我や病気に備え、生命保険には加入するべきだ」という主張に反論する場合を考えてみる。ここで「私はすでに大金持ちだから、急な怪我や病気があっても出費に耐えられる」と「特例」的に返そうというのが、今回、緋娜さんが採った作戦である。
 たしかに生命保険はそれ自体で価値があるわけではない。あくまで急な怪我や病気、あるいは死亡後の遺族補償のための手段である。前提として「大金持ち」であればこのあたりは崩れる。

 しかし、ある種の『交渉』(negotiation)として結果がうまくいこうが、それでもなお、第三者である聴衆には「有効な反論」とは評価されないだろう。相手の主張の核となる部分が破壊できていないからだ。根本的な「べき論」には対抗するどころか同意してしまっているのである。実際問題、「その命令文は正当でない」と言うことはできなかった。あるいは「別の正当な何か」を並置することが限界だった。したがって『議論』(discussion)として勝敗を評価した場合、私には限りなく敗北に近いように思われる。


正当な議論とはそもそも何か?

 総括に入る。議論によって「~すべきだ」という言明に関する正当性を争うには、単にロジックだけではなく、社会権力の問題を考える必要がある。

 ある「~すべきだ」が『正しい』と認定されるかどうかは、社会権力からの支援を取り付けられるかどうかにかかっている。

①「人間ならキリスト教を信じるべきだ」
②「高校生なら勉強するべきだ」

 属性と行為を紐付けて語る点において①と②は同じだが、現代日本で暮らしている限り、真偽というより強弱の問題として、①は正しくないが②は正しい。正当性というパワーゲームでこの言説を取り扱うと負けるのである。

 私からの初手の反論では、あくまでもロジックだけで抵抗を示した(ヴィーガン論法)。これについては緋娜さんは同じくロジックで壊すことに成功した。しかし、『べき論』の社会的正当性から擁護した二度目の反論には、大幅な譲歩を迫られた。「確かにそうだが、でも……」という形式に押し込められたのである。相手(私)からすれば、「確かにそう」と言わせた時点で終わりである。


どのように対抗するべきだったのか?

 ここで私なりの反論を提示しなければ不誠実だろう。自分で出した反論にさらに反論をし、それで本件は終了としたい。

 しかしながら、命令文としての正当性に関しては「勝てない」ものがあるのは事実だ。「ベクトルを変える」という緋娜さんの判断は正しい。しかしながら、もっと変えるべきだったように思う。

 私であれば、「高校生なんだから勉強をしろ」については、正当性ではなく有効性で争う。すなわち、正当性は認めてやるが、それは有効性という観点から無価値であると論じて破壊しににかかる作戦である。

 いったんゼロベースで考えてみてもらいたいのだが、「高校生なんだから勉強をしろ」は、まずもって何を考えて為された発言なのかが謎である。「我が子は、自分が高校生だということを忘れてしまっているのかもしれない!」と思い、そこであらためて「あなたは高校生ですよ」と指摘してあげれば、「ああ、勉強しなきゃな」と前非を悔いさせることが出来ると考えたのだろうか。それはちょっとありそうにない話ではないか。

 ある言説の「正当性」が最大まで認められようが、何らかの強制力を伴わなければ絵に描いたモチである。「あなたは私を殴るべきではない」ことをいかに論理的に示そうが、「殴る」と決意した相手には無効である。同様に「高校生なんだから勉強しろ」も、「正しいが、嫌だ」の一言で終わりである。この場合、承認した「正当性」にどれほどの価値があるのだろう? なんのために「立証」めいたことにやっきになったのか、分からないではないか。

 さて。ところで私は労働をしている。そして「賃金を支払われている以上、勤務時間中はちゃんと働くべきだ」という言説が正当性のあるものだと認めている。しかし私はよくサボる。ここで「サボること」を何らかのロジックによって正当化しようとは思わない。なぜなら「サボる」にあたって、言論による正当化操作など一切必要ないからだ。必要ないものは相手に譲っていい。この時、私は「正当性」をあからさまに「どうでもいいもの」としてゴミ扱いしている。

 もしかすると「正当性を認めているのに、それをしないなんて、矛盾しているのではないか?」と思われるかもしれない。まったく矛盾していない。それこそロジカルに考えればよく、「正当性を認めたら、その行為をしなければならない」なんて前提は、「いくらでも逆らえる」点で現実的に存在しえない。

 これはロジックにこだわる人がしばしば見落としてしまうところでもある。「正しい議論のルール」みたいなものに相手も乗ってくれるはずだという前提をつい自明のものとして置いてしまう。尊敬する香西秀信の言葉を借りれば、「我々がロジカルであるのは、ロジカルであることが我々にとって得になるときだけでいい」のである。

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