樹妖記

樹妖記あるいはサクセスの秘密【おそらく聞いたことがない話】

法相宗の僧、円儀が遣唐使として倭国から唐へと向かったのは、斎明五年のことである。しかし、その当時の航行とはまさに風任せのものであり、運に見放された円儀はついに唐へと渡ること叶わなかった。船は当初の航路から大幅に南へと流され、現在でいう、ヴェトナムへと漂着したのであった。

円儀は自身の不幸を呪ったものの、仕方がないので、この地に自分がたどり着いたのは、御仏の導きである、と考えることにした。自分には、この地にて為すべき使命が存在しているのだ、と考えることにした。元来楽天的で前向きな性格の持ち主なのだ。

円儀とその従者たちは、船を降り、ジャングルの中に足を踏み入れた。長期間の航海によって、水不足は深刻な問題となっていて、何にも代えて水源の捜索を第一の目的としたのだった。鬱蒼と繁った椰子の木が陽光を遮っていて、森には常闇が領していた。空気はじとじとと湿気を帯び、執拗に肌にまとわりつく。草をわけて進めば進むほど、先刻とは裏腹に、円儀は、自分が何故こんなところを歩いているのか、さっぱり分からなくなってくる。円儀は熱しやすく冷めやすい性格の持ち主である。

疲労が限界を迎え、引き返そうと誰もが考えたとき、急に視界が開け、円形の広場が現れた。荒々しい南国の草木が不自然に広場を迂回していて、そこに近寄ってはならないという暗黙の了解が存在しているかのようだ。中央には、毒々しい紫色のキノコが円を描くように規則的に並んでいた。従者が不審の表情を浮かべるなか、円儀は、はたと膝をうって言う。

「これは噂に聞くフェアリーサークルというものだ。妖精たちが宴をかわしたのちには、このような場所が現われるのだ。それにしても珍しいものを見た、俺がここに流されたのは、いよいよ御仏の思し召しに違いないぞ」

円儀はひとり、並々ならぬ感慨に耽る。しかし、従者たちにとってはフェアリーサークルなど、どうでもいいことだった。従者たちが歓声をあげたのは、広場の中心に生えるキノコから、じわじわと水が染み出していることを見て取ったからである。疲労はいつのまにか消え去っていた。従者たちは我先にと駆け出して、キノコから湧き出す水を夢中で舐めはじめた。水は清澄でかすかな甘さを湛え、この世のものとは思えない快楽を従者たちに与えた。

自身の崇高な使命の存在に酔いしれていた円儀もまた、当面の乾きには抗えず、後を追って駆け出した。しかし、その途中でにわかに立ち止まる。自身に先んじて水を飲む従者たちの異変を認めたのだ。彼らの体は彼らが群がるキノコのように紫に変色していた。驚いた円儀は、キノコから離れるように命じたのだが、すでに円儀の言葉など聞こえなくなっているようであった。彼らの体はやがて、どろどろとその人間としての形状を失ってゆき、すっかり紫のキノコへと変わってしまった。先に生えていたキノコは水分を排出し、かさかさに縮み果て、樹木の間隙から吹き込んだ一陣の風が通り過ぎた後、その姿は跡形もなく消え去っていた。

立ち尽くす円儀の前に残されたのは、自分の従者たちの変わり果てた姿のみであった。円儀は孤独に暗澹たる恐怖を感じた。だが、このような奇怪な事態に直面しながら生き延びた自分は、なんてラッキーなんだと考えた。まさに御仏が自分を選んだのだと、歓喜の涙を流した。

この日を境に、円儀は吹っ切れた。ジャングルで三ヶ月のサバイバル生活を送り、食料強奪のため、チャンパ王国に二十三回のゲリラ戦を挑んだものの捕縛され、八年間の牢獄生活を送ったのち、持ち前のポジティブ思考を最大限に活用して、ついにはチャンパ王国の都督にまで登りつめ、侵攻する唐の軍隊と激しい戦いを繰りひろげ、数々の華々しい戦果を残した。とくに夜霧に紛れての電撃戦の手管は芸術的とされ、唐の兵士たちから大いに恐れられたという。


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