みぎわの記憶

〈超短編〉汀の記憶【おそらく聞いたことがない話】

寝起きのけだるさに身をまかせ、自分の部屋の天井の、白く泡立つコンクリートの模様を、ただぼんやりと眺めていると、耳からもぞもぞと、虹色の糸くずを胴に巻きつけたヤドカリが這い出してくる。
長い夢を見ていた。
でも、どんな夢だったのかは思い出せない。
私の記憶が、ヤドカリによって持ち出されてしまったのだ。
起き上がってヤドカリを捕まえようとしたけど、すでにどこかへ隠れてしまっていた。 

海、という言葉が思い浮かぶ。
最後に海に行ったのは、ついこの間のことのようにも、また、ずいぶん昔のことのようにも思える。靴下を脱いで、みずぎわに佇んでいる。凪の日の波は息も絶え絶えに私の足元へとたどりつき、指先に細かい泡を残して消える。
泡と泡のあいだに、ヤドカリはいた。
まだとても幼く、そのうえ裸だった。観察しようとすくいあげ、顔のそばまで近づけると、ひゅっと、私の耳のなかに入りこんだ。 

それ以来、ヤドカリは私の耳のなかで、私の記憶を自分の胴にまきつけて生きていたのだと思う。
今朝、ひさしぶりに身体から現れたヤドカリは、すっかり大きくなっていて、どうやら耳のなかが手狭になってしまったのだろうと感じられた。
だから出て行ったのだ、私の記憶を身体に巻きつけたまま。 

自分の部屋から出て、階段をおりる。一階のダイニングでは、つけっぱなしのTVが朝のニュースを流している。ちょうど天気予報をやっていたので、今日の日づけが分かった。
9月1日、晴れ。関東地方はおおむね晴れ。両親の姿はない。
どこかに行く用事を私に伝えていたのかも知れないが、ヤドカリが出て行ったせいで思い出せない。
しかたがないので、自分で朝食をつくろうと思う。
キッチンに入ると、床にケチャップのべったりとついたシャツが落ちている。オムライスでも作ろうとして失敗したのかな。
戸棚に食パンが入っていたので、サンドイッチを作ろうと思う。
おあつらえむきに、冷蔵庫のなかにはハムとレタスもあった。でも、包丁が見つからなかったので、仕方なく手でちぎって食パンに挟みこんだ。
さて、どうしよう。
食事を終えて、私は思う。よく思い出せないが、日づけから言って、今日は学校に行くべきなのかな。たぶん、長い夏休みが終わったのだ。
だから今朝はこんなに気だるい気分なんだろう。 

部屋には制服と生徒手帳があり、自分の通っている高校を見つけ出すことができた。
夏の気配をまだ色濃く残した陽光が、肌にまとわりつき、登校の道すがら、うっすらと汗がにじんでくる。途中、同じ制服を着たふたりの生徒に呼び止められる。
「A子! 久しぶりだね」
彼女たちは私のことを知っている。
私は彼女たちのことを思い出せない。
でも多分、クラスメートなのだろう。必死で話しを合わせながら、そのふたりについていく。彼女たちについていけば、学校の構内でも迷うことはないだろうから。
夏休みを終えた彼女たちは、海にでも行っていたのだろうか、少し日に焼けた横顔で楽しそうに笑う。
私の青白い肌とは対照的だ。

教室は、絶え間ない喧騒につつまれて、誰も彼もが久しぶりに顔を合わせるクラスメートたちとの会話に興じている。でもやはり、私は彼らの誰一人として思い出すことができずにいる。
なるべく誰にも話しかけられないように、机に座って節目がちに本を読んでいると、周囲もそんな私の様子をすこし不思議に思っているのか、時おり視線を感じる。
居心地の悪さが限界に達しようとしたとき、チャイムが鳴って、担任の先生らしき人の姿が見えた。
教室の喧騒が少しずつ和らいでゆく。それはまた、にぎやかな夏が過ぎ去ってゆくことの縮図のようにも感じられる。
でも私は。
私は果たして彼らと同じ夏を過ごしたのだろうか。
私がうちに秘めた懐疑を見透かすように、先生が低い声で私の名前を呼んだ。
そして私は、ひとり教室を後にする。

私は、今朝自分の部屋で目覚めたときのように、ただぼんやりと、白い天井を眺めている。冷たい壁に四方を覆われた、小さな部屋の中央におかれた無機質なパイプ椅子に座っている。
目の前には、味気ないスーツを着たふたりの大人が立ち、私を見下ろしている。
彼らは、刑事だと名乗った。
彼らは私に、両親はどこに行ったのか、と尋ねる。そして、今朝、私の家に入り、私の脱ぎ捨てた服を見つけた、と告げた。
ケチャップで真っ赤に染まったシャツのことだろうか。答えずにいると、なにごとかをとても事務的に、淡々と話しはじめた。

抑揚のない彼らの声を聞きながら、あの、凪の日に砂浜に寄せるさざなみのことを思った。
彼らから発せられた言葉が、波打ちぎわに残された小さな泡となって、私の身体をだんだんと覆ってゆく。
あの海を訪れたのは、夏のことだったのか。少なくとも、私のクラスメートたちが過ごした夏のなかには、あのような海は存在しなかっただろう。
ふと気づくと、取調室の片隅に、虹色の糸くずを胴に巻きつけたヤドカリの姿があった。ヤドカリは、遠出して疲労困憊した、といわんばかりにのろのろと私の足元へとやってきて、私の身体をよじのぼり、耳のなかに戻った。

そして私はすべてを思い出した。

write by 鰯崎 友

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