ゾウ汁【おそらく聞いたことがない話】
かつてゾウ汁はこの辺りの名物料理だったが、最近では、一般家庭でゾウ汁をつくることは稀になったという。今はキリン汁がポピュラーなのだと、当地の原坂さん(63)は言う。いや、言うというのは正しい表現ではない。情報が脳に直接流れ込んでくるのだ。
「・・・ゾウインフルエンザが流行ってから、やっぱし、ねえ・・・抵抗あるけぇのお・・・。そりゃ、キリンとゾウってたらゾウのほうがうめえにきまっとる・・・」
ゾウ汁に使う鍋は、さすがゾウをまるまる煮込むだけあって、圧倒される。ちょっとしたプールのようだ。実際プールだ。いま現地のやんちゃ盛りのあっくんとヨシヤが楽しく泳いでいる。長年ゾウを煮てきた鍋は、神通力を持つ、という現地の言い伝えがあるような、そんな気がする。
神通力を持った鍋は、星を撃ち落とすほどの熱湯を勢いよく飛ばすことのできるようになるだろうか。宇宙は謎に満ちている。その謎を解き明かすためには、かなりの時間をかけて観察することが必要だ。ときどき、でいい。1日10分ほど空を見よう。100年間、毎日空を観察しようと思う。
「そろそろ、火ィ、いれっぞ」
原坂さんが語りかけてきた。思索が途切れてしまって残念だ。でも別に残念ではない。10分頼み込んで、やっとゾウ鍋を料理してくれることになったのだ。鍋はゾウを煮ればいいのだ。でも神通力をもった鍋なんて、いちどは見てみたいし、やはりどうしても、この地方にはゾウ鍋が神通力を持つ、という現地の言い伝えがあるような気がしてならない。神通力を持った鍋。宇宙の神秘。
あちこちで火柱が立ち上る。それらが徐々に勢いを増し、草原はたちまち火の海と化した。ゾウ鍋に使われる薪の量は、この国で1年に生産される輪ゴムの総重量の50000分の1に相当するという。そういった情報をたったいま脳内に流し込まれた。原坂さん。かれはどこでテレパシー能力を手にしたのか。のごうつくばりの爺さんの顔をしていた。なんだか腹が立ってきた。喜色満面の原坂の顔。
「もうゾウ汁食わせてやるのやめよっか」
原坂さんは、どうやら心が読めるらしい。と思ってはっとしたが、単に私が無意識のうちに言葉を漏らしていただけだ。その当時の私には、憎悪しか、ありはしなかったのだから、原坂さんに心を読む能力があったなら、気まずかっただろう。でも今にして思う。彼は人のことなんて気にしちゃいない。単に自分のことを人に押し付けるだけだ。だから脳に言葉を送り込むことはできても、脳からなにかを聞き出すことはできないのだ。
そういう男なのだ・・・
豪火は容赦なく鍋底を蹂躙している。逃げ遅れたあっくんとヨシヤの悲鳴がこだまする。この地方にはゾウ鍋が神通力を持つ、という現地の言い伝えがあるような気がしてならなかった。そして宇宙は神秘に満ちている。ゾウの肉は着々と煮えてゆく。おいしそうな匂いにつられた近隣の人々たちの歓声があがった、当地独特の言い回しっぽい。
「消費社会!消費社会!」
人々は互いに手をつなぎおおきな輪となって鍋を囲んだ。日本はまだ大丈夫、そう思わせる微笑ましい光景。その日のゾウ汁はたいそう旨かった。原坂さんはその晩姿を消し、行方は杳として知れない。
あの日から20年。あっくんとヨシヤは宇宙飛行士になった。わたしの代わりに宇宙へ旅立ち、その謎を解いてくれる。彼らが。私は地球で今日もゾウ汁の味を思い出している。