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かんたんに言うと……「三国志」初心者講座

壮大な歴史絵巻、英雄たちの熱き戦い、そして深い人間ドラマ…
三国志は、時代を超えて多くの人々を魅了し続ける物語。
しかし、複雑な物語展開に加え、登場人物も盛りだくさん。
初めて触れる人にとって、少々敷居が高いと思われる部分も存在する。

そこで今回は、三国志を深く知りたいけど二の足を踏んでいる人のために、ちょっとした豆知識をご紹介。
これを読んで、三国志沼へとどっぷりつかってください!


①三国志とキングダム、それぞれの時代背景


そもそもの話であるが、筆者は三国志のことを全く知らない知人より「『キングダム』は三国志の物語のなかでどの時代のエピソードなのか?」という質問を受けた。

たしかに、人気マンガ『キングダム』も三国志も、ともに中国の歴史を題材とした作品ではある。しかし、時代背景に大きな違いがある。
『キングダム』は、紀元前240年頃~紀元前220年頃にかけての「春秋戦国時代」をモチーフとしている。
片や、『三国志』は西暦180年頃~280年頃の時代を描いた物語なのである。
両者にはじつは約400年もの時間の隔たりが存在する。

『キングダム』の時代、アジア東部、現在において中華人民共和国の領土になっている土地には様々な王が治める国があり、それぞれが互いに争っていた。
このような各地の王同士の争いに勝ち残り、中央集権制を確立した最初の人物が、『キングダム』に登場する嬴政(えいせい)なのである。
嬴政は従来の各地の王たちをはるかに超える権力を獲得した、スーパーな王。
もはや今までの王とは全く異なる存在なので、嬴政は王ではなく、「皇帝」と呼ばれるようになった。
中国の歴史にはさまざまな皇帝が現れるが、始まりは嬴政その人。
嬴政は始めの皇帝、すなわち「始皇帝」として歴史に名を遺した。


時を経て、『三国志』の時代。
嬴政が造った国家こそとうに滅んでいるが、中央集権制というシステム自体は続いていており、後漢という国によって広大な領土が統治されていた。
後漢は約200年続いた国だが、皇帝の身の回りの世話や事務的作業をしていた宦官(去勢された男性の官吏)が政治的な権力を持ちはじめ、皇帝はただの操り人形。
すっかり政治が腐敗したころに、大きな農民反乱(黄巾の乱)がはじまって国力が大きく消耗、後漢は中央政府としての役割を果たせなくなってしまった。
結果、地方の豪族や武将たちは、後漢という国の臣下という立場にありながら、各地で独自の勢力を率いて好き勝手に勢力争いを繰り広げていた。
そんなカオスな状態が三国志の物語のスタート地点なのだ。


②三国志は後漢の物語???

と、ここまで読んだうえで、「三国志の話だというのに後漢という国の説明ばっかりで、肝心の<三国>についてはよく分からない…」と思った方もいるかもしれない。
その疑問はもっとも。
しかし、「三国志の物語の大半は、三国が成立する以前の、後漢時代の話」なのである。

三国志における物語の中心人物として真っ先に名前が挙がるのが、劉備(りゅうび)と曹操(そうそう)だろう。
人徳で知られ、関羽、張飛、諸葛亮孔明といった優れた部下とともに波乱万丈の生涯を送った劉備と、政治、軍事ともに非凡な才能を併せ持つほか、詩歌や文章にも優れた俊英の曹操。
この二人の人物の勃興から三国志の物語がスタートし、その生涯におけるさまざまなエピソードが語られるわけだが、なんとこのふたり、三国を構成するそれぞれの国、魏、呉、蜀が並び建つのを待たずに死んでしまっているのだ。

曹操はその手腕をもって幾多のライバルとの争いに打ち勝ち、後漢の皇帝を意のままに操るまでにのし上がったのだが、最後まで後漢を滅ぼすことなく、220年に没している。
曹操が死んだ年に、後漢の皇帝から曹操の息子である曹丕へと帝位が移ることとなる。
後漢が滅亡し、魏という国がスタートしたのは曹操の死後の話なのだ。

そして、魏の成立を受けて、曹操のライバルである劉備も自分の国を建てる。
劉備が蜀という国をつくり、王に即位したのが魏の建国の翌年、221年。
劉備が死去するのは、そこからわずか2年後だ。

さらに、もう一人の英傑、孫権が即位して呉という国が成立したのが229年。
曹操と劉備の死後、やっと三国が揃ったわけなのである。

三国志を知らない人には意外に思えるかもしれないが、「桃園の誓い」「三顧の礼」「赤壁の戦い」といった、ドラマや映画で取り上げられるような三国志の名場面、名エピソードの多くは、三国が成立する以前の、後漢時代の出来事なのだ。

ちなみに、呉が興ってから、魏・呉・蜀の三国鼎立時代は数十年続く。
263年に蜀が魏に滅ぼされて滅亡。
最も強国であった魏は、なんと265年に部下であった司馬一族の起こしたクーデターによって滅ぼされてしまう。
そして、司馬一族が建国した晋という国が280年に呉を滅ぼすことで三国のすべてが終わりを迎える。
三国鼎立時代、数十年のあいだにも面白いエピソードはたくさんあるが、ややマニアックでドラマや映画になることはあまりない。

「三国」の時代は意外にも数十年と短い。

③三国志は1200年後の人が書いた?

ところで、カメラもテレビも存在しないはるか昔の出来事を、現代の私たちがどのように見知って、楽しんでいるのだろうか?

三国時代の蜀と晋に仕えた官僚である陳寿という人がいて、この人が編纂(へんさん)した歴史書が三国志の「正史」、つまり最も信憑性の高い書物とされている。
では「正史」を読めば三国史のすべてが分かるのか、というとこれが全然そうではないのだ。

「劉備、関羽、張飛の3人が桃園で義兄弟の誓いを立てた」というエピソードも、「曹操が、自分をかくまってくれた恩人を口封じのために殺害する」なんていうエピソードも、「正史」には書かれていない。三国志最強武将と称される呂布が大暴れする「虎牢関の戦い」についても、呂布の活躍どころか、そもそもそういった戦闘が起こったことすら書かれていない。

また、ハリウッドで映画化されたこともある「赤壁の戦い」。同盟を組んだ劉備と孫権が、曹操軍の大軍勢を打ち負かす、という三国志の物語のなかでも知名度トップクラスの大海戦だ。
この戦いで、劉備旗下の天才軍師、諸葛亮孔明がその才能を遺憾なく発揮。
蜀と呉の同盟を締結する使者としての大役を担ったり、曹操の艦隊を火攻めにするために卜占を行って風向きを変えたり、といった獅子奮迅の活躍を見せる。
しかし、である。
「正史」には、「赤壁で戦闘が行われ、劉備と孫権の連合軍が曹操を退けた」という事実は確かに記されている。だが、孔明の具体的な行動などについては全然書かれていないのだ。

じつは、私たちが日ごろ親しんでいる三国志の物語、三国志をモチーフに吉川英治が書いた大衆小説や横山光輝のマンガ、はたまたコーエー(現コーエーテクモゲームス)のゲームの、直接の題材となっているのは、上記の三国志正史とは別のものなのだ。

西暦1400年頃、つまり三国時代からおよそ1200年後に通俗白話小説の作家、羅漢中(ら かんちゅう)という人物が中国各地に口伝されたりお芝居として演じられている三国時代のエピソードを「三国志演義」という小説にまとめた。先ほど挙げた三国史の有名エピソードは、すべてこの小説のなかのもの。これが一般的に消費されている『三国志』である。

「三国志演義」は後漢~三国時代から1000年以上経ってから集めたエピソードで構成されているわけで、それらが現実にあったことをそのままを伝えている、とは考えづらい。
歴史書のように本当のことだけを記す責任がないがゆえに、虚実ないまぜ、派手なエピソード満載の大衆小説として人気を博し、現在に至る。というわけだ。
もし興味があれば、演義と正史を読み比べてみるのも面白いかもしれない。

このように、張飛や関羽といった武将の大太刀回りや、孔明や周瑜の知恵比べなどを楽しむほか、時代背景を知ったり、そもそも三国史という物語の成立について調べたり、三国史には非常に多くの楽しみ方があって、それがファンの心をつかんで離さない理由の一つでもあるだろう。
ぜひ、この一大エンタメの世界に足を踏み入れ、思うがままに探索してみてほしい。

write by 鰯崎 友

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