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〈超短編〉the underground 【おそらく聞いたことがない話】

新宿のガード下の安酒屋で旧知の人間と少しばかり酒を飲むつもりが、ついつい昔話が長くなってしまい、終電が今にも発しようという時間、勝手知ったる気安さに甘え、ろくに別れの挨拶もせずに店を飛び出て、一目散に地下鉄副都心線の新宿三丁目駅へと向かったあたりまでは覚えているのだが、どうもその後が甚だあやしい。
気づけば俺は地下鉄のトンネルのなかに迷い込んでしまっていた。

元来酒には強くて、今夜も自分では深酒をしたつもりもないのだけど、改札をくぐった記憶も、ホームに至る長いエスカレーターに体をゆだねた記憶もない。
しかし状況から考えるに、酔っぱらって地下鉄のホームから線路に飛び降りて、そのままトンネルのなかへ歩いて入り込んでしまったとしか思えない。どうやら不運にも、駅員や列車を待つほかの客にも一切見咎められなかったようだ。
体中から血の気が引いた。このままでは列車に轢き殺されてしまうではないか。しかも、詳しくは知らないが地下鉄の線路というのは電気が流れていて、うかつに触れると感電の恐れがあるのではなかったか。

パニックになりそうな頭を必死でなだめ、ゆっくりと足元の線路をまたいで、側壁にカエルのようにぴったりと張りついた。
コンクリートで固められた壁はひんやりと湿っていたが、それが地下の湿気によるものか、自分の冷や汗なのかは判然としない。

で、これからどうしよう。

歩いてホームまで戻るしかないとは思うが、いったいどちらに進めばよいのか。トンネルの天井には等間隔にオレンジの非常灯が設置されており、暗闇に目が慣れてきたこともあって、勇気を出せば進めないこともないが、やっぱり恐くて足がすくんでいる。

なんでこんなことに。

日常というやつは、たかが酒に酔ったくらいのことで、こんなに脆くも崩れ去ってしまうのか。
ああ、と思わず天を仰いだそのとき、なんだかとても美味そうな匂いがしてきた。

風味の効いたダシの匂いだ。こんなところでなんでだ、もしかして、まだ酔っ払っているのか、俺は。
しかし、集中すればするほど漂ってくる匂いは本物としか思えず、現金なことに、恐怖でからからに乾いていた喉から唾液がにじみはじめた。
脳はこの状況が理解できていないが、俺の鼻はたしかに食い物の存在を告げている。
このような異様な状況にあっても自分の役割を見失わない俺の鼻であった。こいつは頼りになる。
俺は自分の鼻を信じて、側壁にぴったり身体を押し付けながら、すりすりと匂いのほうへと向かっていった。

冷たいコンクリートにシャツを擦りながら進んでゆくと、線路と交差するように、人がひとり通れるほどの細い横道が走っていた。
匂いはその先から漂ってくるのだった。横道に入って少し進むと、突然、額に覆いかぶさってくるものがあり、思わず悲鳴をあげた。
こうもりか何かが住んでいるのか。
払いのけようと腕をぶんぶん振り回すと、それは足元に落下した。おそるおそる様子を伺ってみると、なんのことはない、ただの厚ぼったい布切れだ。
拾い上げて観察してみると、その布には「福としん」と書かれてあった。これはノレンだ、そう気づくのと同時に、俺は自分の顔の前にある、引き戸に手をかけていた。

「ふつうのお客さんなんて久しぶりやなあ」と店主のオヤジは嬉しそうに笑っている。
俺はいまだに自分の状況が理解できないでいる、手もみラーメンを注文した今このときでさえも。

「いったい何なんですか、これは」

「何って、見てのとおりのラーメン屋やけど」

「しかし、こんな場所で」

「ははは、穴場やろ?」

地下鉄のトンネルのなかには、気さくなオヤジがひとりで切り盛りするラーメン屋があり、そこで俺はラーメンを食おうとしているのだ。

「ふだんは地下鉄関係の人しか来んからなあ」

「それはそうでしょうね!」

取り乱す俺の様子に動じることもなく、オヤジはこなれた手つきで茹でた麺をどんぶりに移し、熱々のスープを注いでカウンター越しの俺に手渡した。
どんぶりを掴んだオヤジの無骨な親指が、なかのスープにまで浸かっていたが、文句をいう余裕はなかった。
そのラーメンはとてつもなく美味かった。コシのある卵麺に、荒々しくも豊かな風味の鶏がら醤油スープがからんで、懐かしい味ではあるがさりげない創意工夫がなされていることが窺い知れた。
俺は無心で食った。
こんなに美味いラーメンは食ったことがなかった。
どんぶりをひっくり返してスープの最後の一滴まで胃の中に流し込んだ直後、俺の意識は遠のいていった。

気づけば俺は、副都心線の練馬駅のホームのベンチに横たわっていた。ぼさぼさに乱れた髪をかきあげながら腕時計に目をやると、日付が変わっていて、朝の8時をすこし過ぎていた。
通勤ラッシュがすでに始まっていて、大勢の人間が俺を横目でちらりと見て、何事も無かったかのように列車に乗り込んでゆく。
だんだん意識がはっきりしてきて、とても大事なことに気づいた。今日は9時半からクライアントとの会議があるのだった。
あのラーメン屋のことを気にしている余裕はなかった。俺は一目散に家まで戻り、急いで頭だけ洗ってすぐに会社へと向かった。

しかし、あのラーメンの味を俺は忘れることができない。オヤジの指がスープに浸かっていたことを割り引いても、今までの人生で食べたどんなラーメンよりも美味かったと断言できる。
数日後、俺は新宿三丁目駅へと向かい、改札の駅員に、あのラーメン屋について尋ねた。

「トンネルの途中にあるラーメン屋に行きたいのですが」

駅員は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに表情を作り直し、

「お客さん、地下鉄の線路はとても危険なので、ぜったいにホームから降りちゃいけませんよ」

と言って、にやりと笑った。

write by 鰯崎 友

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