〈超短編〉時間遡行【おそらく聞いたことがない話】
長年の研究の末、ついにタイムマシンを発明した男がありまして、ひとつ試しにとお江戸の頃の大坂へと旅立ったのであります。
現代でいう大阪市営地下鉄、阿波座駅のあたりには、埋め立てられて面影はございませんが、かつてたくさんの川が流れておりました。江戸堀川、京町堀川、阿波堀川を集めて木津川へとそそぐ百間堀川の幅は十丈、いまでいうと凡そ30メートルほど。川縁には七十、八十の魚問屋が軒を連ねておりまして、魚売りの威勢のいい掛け声が飛び交います。
雑魚場の魚市場といえば、堂島の米市場、天満の青物市場と並んで、天下の台所、大坂の三大市場と聞こえたもんですな。遠近の浦々より海陸のけじめなく活きのいい魚どもが集められ、それは見事な賑わい。男はたいへん楽しくなってきて、タイムトラベル成功の祝いになんぞ旨い魚でも食うたろかいなと、質屋で当時の銭を工面して、うろうろしておりました。
「そこの旦さん、えらいけったいな格好してはりますが、どちらからでっか? ええ、未来から? 今よりずっとのちの時代から来はった? なんやよう分かりまへんが、そら遠路はるばるご苦労なことですな。生きのええ魚でも食うて旅の疲れを癒してもらわんと。ああ、今の時分なら鱧が旨いで。梅雨の雨を飲んで脂の乗った頃合やさかい」
と、小気味のよい魚屋の口上を聞いているうちに早くも涎が湧き上がってきて「よし、そんなら鱧をもらおか」ということになった。ところが、銭を払って鱧を受け取ってみれば、どうも酸っぱい匂いがする。問い詰めると、傷みきっているのを承知で店先に並べていたと白状した次第。つっかえそうにもすでに銭を受け取っているこの魚屋、欲張って返品を受け付けようとしないのでありました。男も腐りかけた鱧をもろてもしゃあないので、必死に抗議したところ、魚屋、ぼんと自分のおでこを打って妙案がある、と言う。
「旦さんは、未来から時間を遡って来たんでっしゃろ。そしたら、もう一日前に戻ればええ。首尾よく昨日に戻ったならば、傷む前の鱧を差し上げますさかい」
早速男と魚屋は、タイムマシンに乗って一日だけ時間を遡ったんですな。一日前の店先には、一日前の魚屋が立っておりました。
「やや、なんや、わいにそっくりな人が来はったな」
「なにぬかす、わいは正真正銘の明日のお前やがな」
「ええっ、未来のわいが来たんかいな」
「ゆえあってな、鱧を一匹こちらの旦さんに差し上げたって」
「差し上げるて、銭もなんも貰てへん」
「銭ならわいが貰とる」
「ほんならその銭をくれ」
「銭はわいが貰とうたるさかい、お前は鱧を渡しいな」
「そんなけったいな理屈があるか」
「ええからよこせ」
といって、ふたりで鱧を取り合って、押したり引いたりするものやから、あっというまに傷んでしもた。この期におよんで、魚屋、はたと気づいて言う。
「もしかして、鱧が痛んだのは、わいらのせいとちゃうか」
それを聞いて、もうひとりの魚屋も続けるには、
「そんならもう一日時間を遡ればええんや」
今度は男と魚屋と昨日の魚屋で、さらに一日だけ時間を遡ったんですな。昨日のさらに一日前、つまり一昨日の店先には、当然ながら一昨日の魚屋が立っておりました。
「やや、なんや、わいにそっくりな人が来はったな」
「なにぬかす、わいは正真正銘の明日のお前と」
「明後日のお前や」
「なんのことですの」
「やいやい一昨日のわい、鱧をよこせ」
「銭をもろてまへん」
「銭ならわいが貰とる」
「なにけったいなことぬかす」
今度は三人の魚屋が鱧を引っ張り合い、またしてもぼろぼろにしてしもた。男ががっくりとうなだれていると、三人の魚屋が口をそろえて言う。
「しゃあない、もう一日時間を遡るか」
男と魚屋と昨日の魚屋と一昨日の魚屋で、さらに一日だけ時間を遡りました。
「やや、なんや、わいにそっくりな人が来はったな」
「なにぬかす、わいは正真正銘の明日のお前と」
「明後日のお前と」
「明々後日のお前や」
ええ、いつまで続くんかて? おっしゃることごもっとも、あまりくどいのも興ざめやさかい、このへんにしときます。三日前の店先には、三日前の魚屋が立っておりました。合わせて四人になった魚屋は、もう同じ轍は踏むまいと、じっくり相談して、男の支払った鱧の銭を仲良く四等分することにしたのでした。やっと鱧にありつくことのできた男が、ため息まじりにつぶやきます。
「ああ、まったくたいした時間遡行やな」
すると四人の魚屋、声をそろえて、
「おっしゃるとおりの粗肴ではございますが、どうぞ召し上がれ」