もうたぶん、いなフリ講師はできないけど。
この記事は #いなフリアフター 企画への参加記事です。
いなフリアフターは、1ヶ月間の合宿「田舎フリーランス養成講座(通称: いなフリ)」に参加した受講生や講師の人で「ひさしぶりに現状報告しようぜ!」みたいな企画、詳細こちら。
*そもそも「いなフリ」ってなに?って感じの人は読んでてもあんま何言ってるかわかんないかも
ぼくがはじめて「いなフリ」の講師をさせてもらったのは2017年8月。(4年も前かぁ)
もう既にだいぶ過去の人なので、まずはさっと自己紹介をば。
さっと自己紹介
2016年に勤めていた都内の料亭を退職&出張料理人兼板前ブロガーとして独立。
退職と同時に三軒茶屋のシェアハウス「ハイパーリバ邸」の立ち上げメンバー&初代管理人になる。
1年間どうにか生き抜いてブログ&出張料理の仕事で生きていけるようになったところで、株式会社Ponnuf社長の池ちゃんからブログ講師としてのお誘いを頂き、初いなフリ講師を務める。
講師と統括を数回経験して初講師から1年。地元石川県能登半島の空き家を活用したシェアハウス「ぼりちゅに邸」を立ち上げ、3回の「のとフリ」を開催して今に至る。最後に講師&統括を担当したのは2019年9月。
現在は株式会社リバ邸役員としてシェアハウス事業をメインに活動。
三茶ジャパン、唐揚げおじさんなどの異名を持つ。
いなフリに関わるざっくり略歴。
2016年7月 料亭退職&出張料理人兼板前ブロガーとして独立
2017年8月 いなフリin金谷 ブログ講師
2017年9月 いなフリin金谷 ブログ講師
2017年10月 半農半フリinいすみ 統括
2018年3月 いなフリinいすみ 統括
2018年8月 のとフリ 統括(初開催)
2019年4月 のとフリ 統括
2019年9月 のとフリ 統括
こんな感じでけっこういなフリとは関わらせて頂いたのかな〜と思ってます。
ぼくは今でもいなフリが大好きだし、最近もいなフリ開催地にお邪魔して「クラウドファンディング講座×唐揚げ会」とかってのをやらせてもらったのだけど、タイトルにもある通りたぶんもう講師や統括をさせてもらう機会はないのかなと思ってて。
(そもそもお呼びでなかったらごめんなさい、調子には乗ってないです。)
理由は「何かやりきった感でちゃったから」
めちゃくちゃ曖昧な感情なのだけど、たぶんこの感覚は間違ってないと思う。
いなフリ大好きだけど、たぶんもう深く関わることはできないんだろうな〜って思った理由と経緯。
この辺りをどこかで言葉や文字にして残しておきたかったので、この「#いなフリアフター」にて供養します。
ぼくが講師とか統括の会で受講してくれた人も、当時一緒に講師として関わってくれた人も、読んでくれたらうれしいっす。
それでは。
初講師ぼりさん、新米教師感炸裂。
はじめていなフリ講師を担当させてもらったのは2017年8月、料亭を辞めてフリーランスになってからちょうど1年後だった。
担当はブログ講師、はじめてのいなフリ講師は本当にわからないことばかりで。
正直「講師とメンターが俺でごめん」みたいな気持ちが超強かった。
別にインフルエンサーでもないし月収100万とかある訳でもねえのに申し訳ねぇなあって思って。
なので、自分にできることはそれはそれはもう全力で受講生と向き合うことのみだった。
受講生に悩みがあればいくらでも聞いたし、一緒に本気で考えた。
夕会はぼくのメンターチームがダントツで時間を取っていたし、池ちゃんには小言を言われた記憶もある。
「もっとスマートに必要事項だけで終わらせられるはず」と。
確かにそう、めちゃくちゃ正しいし大切だった。たぶん今のぼくが当時のぼくを見ても同じことを言うと思う。
ただ、そのときは「必要以上に向き合うこと」がぼくにできる唯一のことだったから、ここだけは譲ることができなかった。
熱血新米教師のノリ全開モード。
その結果、それはそれはもうチーム内がめちゃくちゃ仲良くなったし、なんかもう声とか超デカかったと思う。
後日談だけど、”いなフリの見守り役”こと高さんに「ぼりさんのチームだけなんかテンションおかしかったよ」って笑われた。
初講師のときのぼりチーム「まるもwithB」超なつかしい。
もう、とにかくどうしたら
「いなフリ受けてよかった」
「ぼりが講師やメンターで良かった」
って思ってもらえるか悩みすぎて、メンヘラみたいなnoteを初講師の当時書いてたりした。
おじさんのクセにメンタル不安定とか、なんかカワイイよね。
一貫して伝えてきたこと、我欲に従うこと。
ぼくは、いなフリの講師になったときから最後の開催のときまで、言ってることはずっと一貫している。
別にフリーランスになろうが会社員になろうがニートになろうが手段はなんでもいいんだけど、「我欲に従うこと」。
我欲というと強い言葉っぽい(そして厨二病っぽい)のだけど、みんな自分がやりたいことにどこかフタをしてしまっていることが多いんじゃないかなって思って。
生きたいように生きればいいし、誰かのためじゃなく自分のために生きればいい。
それはただわがままを言うとかの話ではなく、人のために何かをすることが「自分のため」になる人もたくさんいる。
そういったことも含め、自分の生き方に我慢をしてほしくないなって思ってて。
だから、メンティーと話すときは「なんでそれをしたいと思ったのか?」とかそーゆーことをじっくり、時間をかけて聞いていた。
受講生やメンティーと喋ってるとき、基本は「講師」って立場じゃなく「マブダチ」って感じで接してた。そのほうが本気で喋れるし。
あと、これは自分の中のテーマとして、メンティーが我欲に従うことをためらわないように、自分自身がなにより我欲に従っていること、挑戦者であり続けることをすごく大切にしていた。
そんなこんなでほぼ毎月のようにいなフリの講師や統括をさせてもらった上で、自分自身の目標であった「限界集落への移住」を期に、さらにいなフリとの関わりが強くなっていった。
のとフリ初開催、ぼりさん全盛期到来。
2018年4月、石川県能登半島の限界集落に単身で移住し、空き家を活用したシェアハウス「ぼりちゅに邸」を立ち上げた。
移住当初のぼくは単身で知人が1人もいない土地に飛び込んだので、まじで必死。
空き家整理からはじまり、集落の飲み会に参加、いなフリ開催地の確保。
移住から4ヶ月後に初のいなフリ開催をすることも既に決まっていたので、まじで時間がなかった。
でも、絶対に最高の会にしたいって思ってたから講師をしてほしい人には全員ぼくから声をかけた。
おそらく当時、考えうる最強の講師陣で望んだ記憶がある。
そして迎えた初開催。
たぶん思い出がだいぶ美化されているとは思うのだけど。
めちゃくちゃにトラブルだらけだったけどそのトラブルが更にガソリンとなって、まじで最高の1ヶ月になったと思う。
修了パーティーが終わった後、佐々木ゴウちゃんとぼりちゅに邸の縁側でタバコ吸いながら飲んだ缶ビールがたぶん人生で一番美味しかった。
伝えたい想いはぜんぜん変わっていないのだけど
ぼくは誓って一度もいなフリで力を抜いたことはない、そう断言できる。
けど、多分1回目の、のとフリ開催の大成功で何かが達成された(?)燃え尽きてしまった(?)のではないかと思う。
いなフリ講師としての絶頂点を過ぎてしまった気がしたのだ。
たぶん理由は2つ。
①自分の中での「新しいチャレンジ」がなくなってしまった。
思えば、能登での初開催をするまではなにかしら新しいチャレンジが自分の中に含まれていた。
初講師や初統括、初の自身拠点による開催など。
でもその挑戦がなくなってしまったことで、ぼくの中になんらかの慣れが出てきてしまった気がした。
慣れることは悪いことではない。だけど、自分自身が一番の挑戦者であることを大切にしていたぼくにはとても重要なことだった。
②フリーランスになった当時の不安や喜びから時間が経ってしまった。
これはもうしょうがないといえばしょうがないのだけど、最後に統括を担当したときには、ぼくが独立したときから2年の時間が経過していた。
その間にぼくはフリーランスとして会社員時代を超えて人生最高月収を達成したり、株式会社リバ邸の創業(起業)なんかもあって、「フリーランスになってはじめて仕事を受注できたときの不安と喜び」みたいなものが遠い記憶になってしまっていた。
新米教師の気持ちが遠ざかってしまっていたんだと思う。
覚えてはいるから言葉にはできるのだけど、あくまで遠い記憶でしかない。
今、目の前で「はじめて1円を稼げた人の喜び」に寄り添えなくなってしまっていた。
これも悪いことではないのかもしれない。
経験を重ねることはより安定感を持って色んな相談に乗れるということなのだから。
でも、ぼくの講師としての価値は「死ぬほど向き合って、一緒に悩むこと」だったはずで。
最大熱量で受講生と話すことができないのであれば、それはぼくが講師である必要はない。
そう思ってしまったとき「もう自分はいなフリを卒業しなくちゃいけないな」って思った。
これが、いなフリ講師をもうできない、しちゃいけないと思った理由。
もうたぶん、いなフリ講師はできないけど。
そんなこんなで最後にいなフリ講師をしてからはや2年も経ってしまった。
いまは株式会社リバ邸の人として仕事をしているけど、いなフリのときに大切にしていた思いは全く変わっていない。
ぼくは「人の記憶に残りたい」って思って仕事をしてる、というか生きてる。
そして「どうやったら人の記憶に残れるような人になれるのか?」って考えたら、人の転機に関わることだなって思っていて。
ぼく自身、自分の転機に本気で関わってくれた人のことは一生忘れないくらい感謝してる。
新卒で就職した工場を辞めるときに話した人事の人、板前時代に厳しくも優しく接してくれた先輩、フリーランスになって何をすればいいかわかんなくて病んでいたときに相談に乗ってくれた先輩。
ぼくもそんな「記憶に残り続ける人」になりたくていなフリ講師をさせてもらってた。
もし、いなフリと関わり続けた2年の中で誰かの心に残れてたらもうそれだけでいなフリ講師をさせてもらえた価値はあったのだと思える。
*
いざ、いなフリについて思ってることを整理しようとしたら色々ありすぎて勢いでここまで書いちゃったけど。
結果ぼくはたぶん、というかけっこうかなり「いなフリ」のことが大好きだと思う。
だから「もう前線で講師や統括はできないんだろうな〜」って実感してしまったときはけっこう寂しかった。
でも、たぶんあのまま続けてたら自分のことを嫌いになってたからこれでいいんだと思う。
結局最近も、なんだかんだクラウドファンディング講座とかってしつこく関わらせてもらってる。
たぶん、これが今のぼくと「いなフリ」との丁度いい距離感。
もうたぶん、いなフリ講師はできないけど。
いなフリとガチで関わってきた2年間は最高に楽しかったです。
いなフリめちゃくちゃ大好き。
これからもよろしくね。
ちゅに