朝のリレー、命のリレー
昨日から私も夫と同じ病院に入院している。
病棟も同じで、廊下を一本隔てたところに夫がいるのが面白くて、用事もないのに夫の個室を訪れてはニヤニヤとして帰ってきている。(そういうことはしてはダメです)
それぞれの執刀医から手術についてまた説明があった。概ね理解していたつもりだったが、存外に大掛かりで私の手術は6-8時間程度、夫はおそらく24時間近くかかるだろうということだった。私の肝臓は7割近くなくなり、かなりしんどいと思います、と言われたと伝えると、夫は「小さい方の肝臓もらうと思ってたからなんとか耐えてきたのに・・・俺だけが元気になって君が元気じゃないとかは意味がないんだが・・・」と最悪だ、というような大袈裟な身振り手振りで話し始める。首、肩、腹、腕に刺さっているたくさんの管が心配でそんなに動かさんといて、と思う。
「どうして私だけ元気じゃない設定なんだよ!!!」
「だって君が健康とかありえないだろ〜」
「そんなことn」
ない、と言いかけて断言出来なかったのには健康に不安があるからではなく、私は妙なことばかり引きが強いからである。
全身麻酔で吐き気や眩暈を引き起こす人が三人に一人と言われているのが当てはまる。
病院食のパン用のジャムが私にだけついていない。
私の部屋に、夜中寝ぼけたおじいちゃんが入ってくる。靴の中の小石のような、目の中に入ったまつ毛のような、小さな異物だがそれでいてしっかりと不快感があるものを確実に手に入れてしまう。
麻酔で何万人かに一人重症化するとか、手術中数百万人に一人輸血で感染症になるとか、いらんところで大当たりを引くのでは、と説明を聞きながら怯えていた。
でも万が一にもそうなったら、年末ジャンボ宝くじを連番で買おう。人生は天秤のようになっているはずだ。
夜、夫の部屋でコーヒーを飲みながらカヌレを食べていたら執刀医が訪ねてきて「奥さんずいぶんリラックスしてはりますね」と言ってきたので「もう私にできることないんで!」ともぐもぐしながら返していたらウケていた。(書いてて気づいたけどもしかして嫌味だったかもしれない。ここは京都。)
一年ぶりくらいに夫と二人きりでゆっくり話せて、こんな時だけど嬉しかった。普段絶対そんなことしないけれどルールを真正面から破っていたらしっかりと看護師に怒られました。少しくらい許してくれよぉ〜。
夫は術後、感染症と拒絶反応との戦いが待っていて、それをうまくおさえられるかどうかにかかっている。しばらく挿管されてるわ麻酔かけられてるわで話すことも出来ないのに、怒られることありますか。
なんてことない出来事を顔を見ていつでも話せる相手がいる嬉しさを忘れそうになっていた。幸せだ。
失いそうになってから大切なものに気づくなんて愚の骨頂だけれども、そのくらい当たり前になってしまうことは多々ある。生きていることとか、健康であることとか。自発呼吸が出来るとか。自分の肝臓が動いているとか。口から栄養をとれるとか。
共同スペースには、ドナーとレシピエントの術後の直筆アンケートがまとめられた冊子が置いてあり、朝ごはんの後パラパラと読んでいた。
生後二ヶ月の子どもに肝臓を提供した私より一回りも歳下の母親。出産もかなりしんどかっただろうに・・・。
また、伯母から甥っ子へ、親から子へ、子から親へ、夫から妻へ。色々な年齢の方の色々な事案がかかれている。
素っ気なく「はい」「いいえ」だけの人、びっしりと日記のように書く人、PHP文庫のような啓蒙活動をする人・・・それぞれの複雑な思いや事情が筆圧や文体にのっており、かなり生々しい。
痛い、苦しい、辛い、と術後の感想が並ぶ中、ドナーとレシピエントのほとんどが楽しいと書いていたことがあった。
歩くことだ。
自分の足で、ベッドから降りて、立って歩く。
毎日の動作とは全然違う意味があるんだろう。
“最初に立った時の記憶はないけれど、お母さんに立って歩いているところを28年ぶりに見てほしいと思いました。”と書かれているのを読み、そこで感極まってぼたぼたとファイルの上に涙をこぼしてしまった。
五体満足で生まれてきて、家族にも仕事にも友人にも恵まれ何も不自由がなくても、自由の中の人生に希望が持てない人はいくらでもいる。思い悩むのは人に与えられた尊厳と自由であるから、いくら羨んでも仕方がない。しかし、「贅沢でいいな」とデカデカと書かれた風船がふわふわとどこからか飛んできて常に視界に入ってきてしまう。心の中にいくら広い青空を描いたとしても、雲の間に鷹を飛ばす前に、スティーブンキングよろしく真っ赤な風船が不穏な空気を運んできそうになる。
自分の子どもを健康に産んであげられなかったことをずっと負い目に感じていたとアンケートに書いていた母親。我慢強く美しい姉が苦痛に顔を歪めている姿をもう見なくて済む、それだけで提供した価値があった、と妹。脳死した見知らぬ他人からの移植を受け、バタバタと手術が決まったという人もいた。
生きていることの自由ってなんだろうか。
そして、命を繋いで死ぬことも。
苦しみの中で生き抜くことも。
立って歩くだけで楽しい、と思うなんて考えてもみなかった。経験したことのない楽しみが待っているのかと思うと、複数の恐怖は少しだけ和らぎ、ワクワクする。
自分の足でベッドから降り、痛みをおして、立って歩く。
踏み出した足先から顔をあげ、それぞれの道を描く。
振り返ると、冬の深いぬかるみのような、重く冷たいまとわりつくような暗い道のりも、何年か経てば、そこから動けなかったこともきっと笑い話だ。
笑い話にしたい。
めちゃくちゃに医療が進んで、昔はこんな野蛮な治療をしていたと驚かれる時代まで生きていたいね、ロボトミー手術みたいにありえない未来になっているといいね、と夫と笑い合った。
明日は8:30からいよいよ、手術。
執刀医に私の大好きな医療ドラマのセリフを言ってもらおうかな。
「さぁみんな始めよう、命を救う最高の朝だ。」
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