「戦争では何も解決しない」という虚構
先日、Twitterで新聞記事の読者投稿コーナーの投稿が反響を呼んでいるのを拝見した。
戦争がいかに破滅的であり、無意味であるかを語った97歳女性の投稿であった。
97歳といえばまさにその青春時代を戦争に奪われた年齢であろう。
正直読んでいて心が痛かった。
だが致命的な間違いがあると思った。
「戦争で解決するものは何もない。人間の幸福に資するものは何一つないのだ、と。」
女性は投稿をそう締めていた。
戦争で解決するものは何もない。
本当にそうだろうか?
戦争は全てを解決する
戦争の合理
現実では様々な衝突がある。
政治、経済、宗教、人種。
これら全ての物事が戦争で解決されてきた歴史が事実として存在する。
今でこそ核保有国のような大国間の大規模な戦争はなくなったが、アフガニスタン紛争からロシアウクライナ戦争、第三世界での代理戦争や内戦は絶えない。
なにせ相手が全て死んだり(国家間においては現実的でないが)、あるいは降伏してこちらの条件を飲めば当面の問題は解決するのだ。
我々は戦争を肯定してはならない。
しかし無闇に否定すればいいというものではない。
戦争や殺人という究極的な回答を真に避けたいと思うのであればそのメリットをまず認めなくてはならない。
反自由主義国家を見ればわかるだろう。
彼らは話し合いのコストパフォーマンスが悪いことを十二分に知っている。だから独裁政権を樹立し、気に入らない人間は暗殺し、他国や他民族を相手に浄化や粛清という名の虐殺を行う。
そして今もなお彼らはそのメリットを甘受しているのだ。
そのような人間を相手に今更「戦争など何の意味もない」と説いたところで、そんなものは浮世離れした非現実的で感傷的なポエムの域を出ないのである。
戦争こそが現実的で、合理的なのだ。
本当に我々が立ち向かわなければならないのは、誰からも愛情を注がれず育ち、意味もなく武器を振り回す気の狂った殺人鬼ではない。
戦争という合理である。
抑止力
抑止力という考え方がある。
平たく言えば事後のペナルティによって他者の行動を抑制することだ。
例えば我々が子供の頃、学校で暴力でも振るおうものなら保護者や先生方にドヤされ殴られるのも珍しい話ではなかった。
大抵の子供は「悪いことをすれば後で大人の男に殴られる」と知ればおいそれと人に手出しはしなくなる。
簡単ではあるがこれこそ抑止の基本である。
また大人の男は大人の男で、世間からの風評というものがある。昨今は特にそうだが、「子供への虐待だ」としてクビになったりSNSで叩かれたりする。
最悪、傷害事件として逮捕だろう。
だから大人の男もおいそれと人は殴らない。
そして民意(一般通念上の)は裁判結果や選挙、警察など公的機関への信頼に繋がる。
信頼を失えば辞任、予算組みの難航、果ては組織の解体まで行われるだろう。
こうした一連の相互関係こそが抑止のバランスというものだ。
「人を殴ってはいけない」のは別に倫理的に人に優しくしなければならないからではない。
「殴ると当人や他の仲間から殴り返される」から殴らないのだ。
無敵の人と自然権
世界の治安は基本的に抑止力で成り立っている。
しかし世の中には抑止力が通用しない人間もいる。
いわゆる無敵の人だ。
彼らは失うものがない。
社会による制裁を恐れない。
他人を殴ったあとに殴り返されても意に介さない。
だから殴る。
合理である。
この「無敵の人」への回答は殺害か追放しかない。
そして追放というのはこの時代では現実的に難しい。
そもそも根本的に我々は自然状態において本来無敵の人である。
自然権という言葉があるように、この世の本質は弱肉強食であり、自身の生物としての本懐のためには何をやろうが問題はない。
なにせ一見利害のなさそうな赤の他人の二人ですら、時として生存のための資源を奪い合う敵となるのである。
であれば特に大きな理由などない状態でも今後を予見しあらかじめ他人を殺害するのであれば、生物間の駆け引きとしては非常に合理的なのだ。
だが人間には社会性というものがある。
自然界において、孤立すれば小型犬にすら負けうるほどに人間は弱い。
人間が自然界で生き抜くためには共同で自身らの生命を保障することが重要になってくる。
今現在の法律というのは結局そうやって集まらなければ生きられなかった人類同士の、自然権が衝突した際のおとしどころである。
逆に言えば、そのルールを守らない人間相手には自然権を適用し殺害するしか方法はないのである。
なお法律というのはあくまで自然権の権利衝突のおとしどころであって、自然権そのものが完全に消滅したわけではない。
基本的人権というのはまさに自然権的欲求を最低限保障する、その名残である。
運命を誰に委ねるのか
嫌な考え方をしてみよう。
民族の浄化という非常に合理的で最悪な考えがある。
何が合理的かというと、邪魔な民族がいた場合には全員殺害するのであれば一切後腐れがないのである。
なにせ被害者というものが全員消えるのだ。
反撃するための強力な動機を持つものが存在しなくなる。
ネイティブアメリカンを見るといい。
入植者によって迫害された彼らを今更守るものなど誰もいない。もはやただの思い出。形骸化された歴史の一ページでしかない。
昨今黒人差別反対運動が加熱しているが、歴史のどこかのタイミングで黒人排除の動きが発生して全滅に追い込まれればBLMだって存在していない。
ナチのユダヤ人虐殺ですら、ドイツが第二次大戦に勝利していたら「よくある大国の過去の闇」として他人事のように語られるに留まっていたに違いない。
戦わないというのは時としてそういう運命を受け入れることを意味する。
もちろん、相手が騎士道精神に溢れ、降伏を認め、ちょっとした制裁や賠償、今後数年の搾取だけで許してくれる可能性もある。
必要以上に緊張や戦闘をエスカレートさせれば国際世論も黙ってはいないだろう。妥協してもらえる可能性は高い。
だが前提としてあなたが許しを乞うのは「そもそもあなたを殺しても別にいいと思っている人達」であることを忘れてはならない。
あなたはあなたの人生をそんな奴らに一度捧げるのだ。
戦争に備えるというのは「戦争は国益になって楽しいですね」という思想に傾倒することを意味しない。
あなたの命などどうでもいいと思い攻めてくる人間に首を差し出すことにするのと、「共に戦おう」という人間に背中を預けるのと、どちらがいいのか決めようというそれだけの話である。
高潔な被害者になるな
人は高潔な被害者になりたがる。
高潔な被害者は自然権そのものを否定する。
寝ぼけた平和主義、歪んだ動物愛護、上っ面の菜食主義、過ぎた自責からの過労死や自殺。
ひとたび自然権を見失えばそんなものが肯定される世界になっていく。
「戦争は何も解決しない」という考え方はいつか自然権そのものを否定し、やがて普通の幸福や当たり前の命すら蝕んでいく。
そして自然権の否定はその寄せ集めである社会すらも否定し、その存在意義を失わせていく。
そこには真の意味で高潔な人生などはない。
そこにあるのは無敵ですらない、命の形をした虚無である。
本当はそうではない。
戦争というのは全てを解決してしまうのだ。だからこそ我々はそのバランスを管理しなければならない。
ただ「戦争は有益な悪だ」と言い続け、向き合わなければならないのだ。
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