虫の本 その1 『どくとるマンボウ昆虫記』

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2017年11月 008/120

虫の本 その1 『どくとるマンボウ昆虫記』

世界中の虫嫌いと利尻島の虫好き
 「虫嫌いの人間が虫を毛嫌いするのと同様に、私は虫嫌いの人間を毛嫌いする」という警句がある。そして私は、虫嫌いの人間の言動よりかは、そんな警句を発する人間の言動に共感を抱く。
 そんな私が書くのだから、この小文は虫嫌いの人には唾棄すべき内容になるかもしれない。あるいは何の関心も呼ばず、無視され(虫だけに)て終わりかもしれない。しかし私のほうは虫嫌いの人を排除すべく書くつもりはない。また、虫嫌いの人に無関心でいることもない。なぜなら、虫について知れば知るほど「人間もまた虫ではないか」という結論にたどりつき、虫について知ろうとすればするほど人間について考えざるを得なくなるからである。
 上の警句は次のように書き換えて心に留めておきたい。
 「虫嫌いの人間は虫を毛嫌いするのと同様に、人間の中に人間の虫けらを認めて毛嫌いする。私はどんな虫も人間以下と認めないし、逆にまたどんな人間も虫以下と認めない。虫嫌いの人間もまたただの人間であって虫以下でもないし虫以上でもない。私はそのことに気付けない人間を毛嫌いする。」

 私の母親(1930- )は、その他ならぬ虫嫌いの人間だ。おかげで私は、その手の人間の気質や考え方を身近に観察できた。それに対して私の父親(1931-1999)は、虫のみならず生き物全般に強い好奇心を抱く人間として一生を終えた。おそらく私は、そのへんは父に似ているだろう。
 私は1958年に、そんな両親のもと、日本最北端の離島、北海道利尻島で生まれた。
 利尻島という場所は地勢的に日本の周縁にある。周辺国まで記載してある日本全図の地図を見てみるとよい。日本標準時子午線の定められた兵庫県明石市にコンパスの脚先を当て、利尻島のある場所まで可動脚を開き円を描くとしよう。その円の内側には、朝鮮半島と極東シベリアの中心都市ウラジオストック、琉球諸島の大半とおそらくは上海・杭州が入り、台湾台北市や中国天津はその円のほぼ円周上にあり、北京はさすがにわずかに円の外側にあるのではないだろうか。
 日本は世界有数の経済大国であると同時に、世界有数の生物多様性ホットスポットだという。利尻島は、その日本の自然環境の一大特色である、温暖湿潤の気候からほど遠い。亜寒帯に属し、稲作もできない。当然、日本の他地域と比べれば、利尻島の昆虫相は独特なものではあっても、飛び抜けて豊かでもない。もっとも全世界的に比較してみれば、貧しいものだとも言えないだろうが。
 私は利尻島で、無心に虫を追う子供時代の15年間を過ごした。その後、北海道本島札幌での5年間の生活を経て、二十歳過ぎて大学進学のため「温帯」の関東圏に出た。そこで初めて、野生のカブトムシやカマキリの仲間や、さらには民家に生きるゴキブリの類を見た。

『どくとるマンボウ昆虫記』を約40年ぶりに再読する
 利尻島は、残念ながら、経済的・文化的にも日本の周縁にある。かつて多少の経済的な繁栄がなかったわけではない。明治から大正にかけて、鰊漁で大いに栄えたのである。ゴールドラッシュならぬヘリンラッシュ(herring rush)とでも呼ぶべき状況だったようだ。往年の北海道長者番付表には、札幌小樽函館など都市部の金満家に混じって、利尻や増毛など日本海側の鰊漁場の網元の名が登場する。
 1905年田原家は、利尻島の最南西端仙法志字御崎に、福井県から入植した。鰊場で働くことで、一族の活路を見い出そうとしたのだろうか。今となってはもうわからない。しかし、それから半世紀ほど後、私が生まれたころまでに、島に鰊の群来はなくなりほとんどの金はすでに島から出ていってしまった。
 それでも田原家は、その地に定住する「小前の者」(宮本常一「利尻島見聞」1964)の漁師一族として生きることを選んだ。子孫たちが多く育ったが、その地で多くの口を養うのは困難だった。子供たちの多くは、ある程度の年齢になると、新しい生活とそのため糧を得るため、北海道島本土や内地(本州島)に巣立っていった。私もそんな中の一人だ。
 仙法志村は1902年の発足で、1956年に隣の沓形町と合併して利尻町となる。利尻町民として生まれた私は、虫を追う少年であると同時に、本好きの少年だった。ところが、私が物心つくころから旧仙法志村は一貫して本屋のない地域なのだった。あるいは私が生まれる前からずっと、なのかもしれない(今度調べてみよう)。旧沓形町には「書店」の名を掲げた本屋が今も存在するのだが。なにしろ、小学生の私は、通学路にある仙法志本町の雑貨店も兼ねる木村米穀店に入荷するわずかな新刊を、乏しい小遣いで買っては好き嫌い面白い面白くないに関わらず繰り返し読むしかなかった。
 そんなある日、家の二階の物置に島を離れていった叔父叔母が読んだと思しき本が置かれているのを発見した。その「置き本」が中学生時代の私の愛読書となった。
 強く印象に残っている四冊が、『潮騒』三島由紀夫(1925-1970)、『青い麦』コレット(Sidonie-Gabrielle Colette 1873-1954。堀口大學 1892-1981 訳であることに後年気付く)、『鍵』谷崎潤一郎(1886-1965。棟方志功 1903-1975 装幀)、『どくとるマンボウ昆虫記』北杜夫(1927-2011)だった。置き本の数は十冊に満たなかったが、木村さんで買う本よりも無駄打ちがなかったと言っていいだろう。

 その中でももっとも回数多く読んだのが、『どくとるマンボウ昆虫記』だった。
 中学生が『鍵』を通読するのはできないことではない。しかし、その内容について、それなり以上の理解ができるだろうか。その点『どくとるマンボウ昆虫記』を読むことは、世間知らずの中学生にとっても、自分の体験に多少は照らし合わせて読むことのできる、楽しい経験だった。
 そんなことを追想しながら、今回『どくとるマンボウ昆虫記』を読み返してみた。『鍵』の登場人物たちの年齢も越えた今、はたして中学生に読める「虫の本」が初老の私にも面白いものだろうか。そんな疑問を抱きながらの読書だったが、心配無用だった。それは立派な大人の本だった。逆に、中学生の自分がその内容を本当に理解できていたのだろうか、と随所で思われるほど。
 私が中学生だった1970年代初頭とは違い、2017年の今は、気になる語句の一つ一つをすぐさまインターネットで「ググって」調べることができる。「虫の本」の数々を、新刊・古書に限らず、金さえあれば書店やネット通販で購入できる。そして自分は古本屋だ、購入は仕入れで、虫好きのおじさんの無駄遣いではない(ほんまか?)。北海の弧島ではなく、二百万都市札幌に住んでもいる。整備された図書館が市内に点在するのだから、目当ての本を借りたり閲覧したりするのも容易なことだ。
 土地や時代の縛りでさらなる探究が果たせなかった恨みを、ついに晴らすべきときが来たに違いない、「虫の本」のガイドブックとして『どくとるマンボウ昆虫記』を読み、「虫の本」にまつわる固有名詞を文中から採集してコレクションしてみたらどうだろう。と思いついたのがこの小文を書くきっかけである。

 以下、文中のページ数は、新潮文庫版『どくとるマンボウ昆虫記』1993年43刷改版のページ構成による。
 私が今回読んだ文庫本は、平成23(2011)年11月発行51刷で、初版は昭和41(1966)年5月発行(単行本初版は1961年10月中央公論社刊)。
 『どくとるマンボウ昆虫記』は、50年以上にわたり版を重ねるベストセラーである。年々虫嫌いの人間が増殖していくかに思われるなか、経済大国にして生物多様性ホットスポットの日本において、「虫の本」のロングセラーが存在するのは心強いことではないだろうか。

「人はなぜ虫を蒐めるか」7p~
 全編の導入部となるこの一章では、虫に限らず、あらゆるものを集めたがる人間の蒐集癖について語られる。
 10p「マーク・トウェーン」は、アメリカの作家(Mark Twain 1835-1910)。「「イシュリエル」叔父さんの話」は、そのトウェインの短編集『The Canvasser's Tale』所収の「Ithuriel」か。
 11p「ミシュレ」は、フランスの歴史家ジュール・ミシュレ(Jules Michelet 1798-1874)。65pにおいて「『フランス史』の著者ミシュレは博物誌として名高い『虫』の著者でもある。」と紹介されるなど、何度か登場する。北杜夫が愛読した著述家の一人だったのだろう。
 13p「シャルル・ロスチャイルド」は、ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド閣下(The Hon. Nathaniel Charles Rothschild 1877-1923)、イギリスの銀行家・動物学者。有名なロスチャイルド家の一員だが、「ノミの蒐集家」の一言でプロフィール紹介されている。
 16p「ジャン・アンリ・ファーブル」は、いわずと知れた『ファーブル昆虫記』の著者(Jean-Henri Casimir Fabre 1823-1915)。
 以下、各章毎に、固有名詞を蒐集し、それについての本のリンク、本文引用、他書引用、などを織り交ぜていく。

「冬から春へ」21p~
 「シラミ」虱の仲間が登場する。 特に「ケジラミ」は91p「変ちくりんな虫」で再登場する。虫嫌いの人には最難関とでもいうべき箇所で、擬古文で書かれている。虫好きであっても、読むだけで痒くなる名文(?)ではある。

「余はその荷癢をも忍びたれど、更に治癒の景色もなし。余は首をかたむけぬ。ある日の風呂あがり、念をこめてその辺りを観察したれば、何やらむ毛根に付着せしものあり。塵埃なるや、非ず。かさぶたなるや、非ず、ぴんせっとを持ちきたりてはがしてみるほどに、余の心はうちふるへぬ。そは死せるものにあらず、おどろにも肢をうごめかしをる生物なればなり。」98-99p。

「詩人の蝶」31p~
 31p「フリードリヒ・シュナック」は、ドイツの作家・詩人・ジャーナリスト(Friedrich Schnack 1888-1977)。

「フリードリヒ・シュナックという作家がいる。抒情的で、かつ写実的な詩や小説のほかに、『蝶の生活』『鱗翅類のふしぎな国で』など、自然愛好者としての美しい本を著した。」

 前者は『蝶の生活』 (岩波文庫)、後者は『蝶の不思議の国で』(青土社)として訳出されている。
 39p「磐瀬太郎」は、日本の蝶学の研究者・愛好者・指導者(1906-1970)。 『どくとるマンボウ昆虫記』では、優れた業績をあげた学者たちがさりげなく紹介される、北杜夫の先人研究者に対する尊敬の念が、文中の端々にうかがわれる。そういう読み方ができるのも、大人になってこそだ。
40p「石沢慈鳥」(1899-1967)という名前も、今回の読書で初めて認識した。日本の野鳥の研究者。

「この蝶と食草との関係も面白い。昆虫の生態観察者で美しい生態写真をものしておられる石沢慈鳥氏の文章を引用してみる。「東京付近のムラサキケマンは、六月に散布した種子が翌年の三月発芽して成長を始めるが、夏には枯死する。九月からまた地下に残された球茎から芽をだして翌年の二、三月ころはやわらかい若葉が茂っている。そして五月には花をつけ、六月には地下茎と共に枯死してしまう。これから考えるとウスバシロチョウの生活史は、食草ムラサキケマンの消長と完全に一致している」」40p。

「神聖な糞虫」41p

 「古代エジプト人の「神聖な甲虫」スカラベ・サクレは、ファーブルの『昆虫記』によって、あまねく世に知られるようになった。糞を食べるだけでも変り者なのに、この甲虫「玉押しコガネ」は、糞を丸く玉にしてころがしてゆくのである。偉大な労作『昆虫記』の冒頭はこの虫のことで始まり、また第五巻に至って追加の章が書かれている。」41p。

 この章の冒頭部。僻村に住む、虫好きで本好きの少年に、やがて『ファーブル昆虫記』を読むことを決意させた文章。

「虫とり百態」50p
 63p「ル・ムールト」は、昆虫採集家・標本商(Eugène Le Moult 1882-1967)。 

「蝶蛾の採集家として知られるル・ムールトという人の採集法はいかにも職業的である。彼は世界各地を採集してまわったが、この世でもっとも美しいといわれるモルフォ蝶の採集には囮を使った。青い貴金属の伸板のようなこの蝶の翅は、そのままひとつの美術品といえる。熱帯の日光にかがやいて、モルフォ蝶の飛んでいるのは遥か遠方から認められるという。ふだん彼女らは高い空中を迅速にとんで捕えにくいが、囮の光沢にひかれて集まってくるのだ。こうしてル・ムールトは沢山のモルフォ蝶の輝く翅でさまざまの工芸品を作り、海外に輸出し、莫大な外貨を獲得した。その功により彼はレジオン・ドヌール勲章をもらっている。」

 奥本大三郎『捕虫網の円光 標本商ル・ムールトとその時代』(平凡社 1993のち中公文庫)に詳しい。

「蟻は人類をおしのけるか」64p
 結語

「彼らはおびただしい数千という種類をもち、そのためどんな環境にも適応して動物界の一方の旗頭を占めてはいるが、人類はたった一つの種類にもかかわらず、さらに無限の適応性を見せている。おそらくは人類の狂気にまで達した叡智のはてか、あるいは大自然のどうすることもできぬ変化によって、一時的には人間以外の生物が地球上で優勢をたもつことはあり得るかもしれぬ。しかし、やがてふたたびこの地上の主導権をにぎるのはやはりわれわれ人類、ホモ・サピエンスかその変化した種族であろうと私は考える。ただこの種族たりとも永久につづきはしない。それもまた確実なことである。」77p。

「まんぼう、憶い出を語る」78p
小学校高学年生の北杜夫少年のエピソードが印象に残る(80-82p)。

「私の血にはくやしがる性質の血が多分にながれていたにちがいない。私はもっと立派な標本をつくり、ちゃんと名札をつけてやろうと考えた。ところが私の父は息子が虫などを集めるのを好まなかった。勉強の邪魔になるというのだ。おどろいたことに、私はそのころ、勉強ができた。それでも横暴な父はもっと勉強だけをしろと言った。昆虫図鑑だって買ってくれはしなかった。(中略) 家へもどりワクワクしながら本をひらいてみると、どうも様子がおかしかった。たしかに美しい昆虫の写真がずらりと並んでいるのだが、見なれた虫の姿がほとんどない。モンシロチョウやシオカラトンボさえも載っていなかった。説明をよんでみると、たいてい台湾産や朝鮮産の昆虫なのだ。これではあまり役に立たない。私は本をひっくりかえし、ようやくその表題が『原色千種続昆虫図鑑』となっているのに気がついた。慌てて続篇のほうを買ってしまったのだ。この打撃は大きかった。正篇を買いなおすことはとてもできなかった。私は「運がなかったのだ」と思い、私の昆虫熱は半分がたさめた。」

 81p 平山修二郎『原色千種昆虫図譜』正・続が、戦前の虫好き少年たちにとって、あこがれの本であったことが伺われる。

「変ちくりんな虫」91p
 「変ちくりんな虫」の末尾を飾るのはナナフシである。

「ナナフシという細竹そっくりの昆虫がいる。漢字では竹節虫とかく。キリギリス、カマキリなどと共に直翅目に属するが、はじめて昆虫図鑑でこの虫の写真を見たとき、こんな面妖な虫がいるとは私にはほとんど信じられなかった。台湾とか外地に棲む虫だろうと考えた。しかしナナフシは、内地でもそれほど珍しくなく見つけることができる。ただ、その完璧ともいえる擬態のため、よほど注意しないと見のがしやすい。」95-96p。

 北海道には生息しないのだろうか?いやいらっしゃる、ナナフシも、その研究者も。「現時点での結論としては、北海道には、シラキトビナナフシとヤスマツトビナナフシの2種が生息すると言えます。」http://micadina.web.fc2.com/mado/komado_bunpu.html 。
 97p「安松京三」は、昆虫学者(1908-1983)。天敵を利用した害虫駆除を研究。

「蜻蛉、薄馬鹿下郎」100p
 「ウドンゲの花」異聞。街灯に電燈とその笠があった時代。

 「クサカゲロウの母親は普通木の葉の裏に卵をうむが、電燈の笠にもよくうみつける。腹部の先をそこへおしつけ、ゆっくりと離すと、いかにも細い糸がのびてきて、一センチばかり先に小さな卵がついている。こうして一度に数個から二、三十個の卵をうむ。これが俗にいう「ウドンゲの花」である。(中略)珍しい現象だと思われているが、実際はクサカゲロウの卵なんぞはいくらでも見つかる。一々有難がったり怖ろしがったりしていては身がもたないが、幸いみんなは自然科学者の目を有さないから、家のそこここにウドンゲがついていても滅多に見つけだしはしない。」109p。

 この文章を読むと、私の母の毎年繰り返す年中行事的な発言「今年は異常気象だ。こんな年、初めてだ」を思い出す。

「さまざまな甲虫」114p
 結語

「ツチハンミョウの幼虫が安楽な成育の場所へ辿りつくまでは、かかる難儀の連続だ。無事に行きつく確率がどんなに低いかは容易に想像がつくだろう。それゆえにこそ、ツチハンミョウの母親はあんなにぶざまにふくれあがった腹をひきずっているのだ。彼女は何千という卵をうむ義務がある。数えきれぬ子供たちのなかから特別の幸運児だけが、ツチハンミョウの歴史をになう一員となれるのだ。海の魚たちが無闇矢鱈と卵をうみ、あとは運命の手にゆだねるのと似ている。動物は高等になればなるほど少数の子孫をつくり、その代り親は子供がある程度大きくなるまで世話をやく。その最たるものはむろん人間で、母親は半永久的に子供の世話をやき、すっかり子供をダメにしてしまう。」127p

「天の蛾」128p
 利尻島の中学生の『どくとるマンボウ昆虫記』読書から数年後、札幌の高校生として寺田寅彦随筆集を文庫本で読むことになる。その中の一編「からすうりの花と蛾」の「蛾」はスズメガの仲間だろう。物理学者寺田寅彦は、残念ながら、その蛾たちの種の特定まではしていない。

「スズメガは太い流線形の胴体にほそい翅をもち、夕ぐれ咲く花から蜜を求めるジェット機にも似たすばやい蛾である。」130p
「からすうりの花がおおかた開ききってしまうころになると、どこからともなく、ほとんどいっせいにたくさんの蛾が飛んで来てこの花をせせって歩く。無線電話で召集でもされたかと思うように一時にあちらからもこちらからも飛んで来るのである。これもおそらく蛾が一種の光度計を所有しているためであろうが、それにしても何町何番地のどの家のどの部分にからすうりの花が咲いているということを、前からちゃんと承知しており、またそこまでの通路をあらかじめすっかり研究しておいたかのように真一文字に飛んで来るのである。 (中略)婦人の中には特にこの蛾をいやがりこわがる人が多いようである。今から三十五年の昔のことであるがある田舎の退役軍人の家でだいじの一人むすこに才色兼備の嫁をもらった。ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群れが時々この芳紀二八の花嫁をからかいに来る、そのたびに花嫁がたまぎるような悲鳴を上げてこわがるので、むすこ思いの父親はその次の年から断然夕顔の栽培を中止したという実例があるくらいである。この花嫁は実際夕顔の花のような感じのする女であったが、それからわずかに数年の後なくなった。この花嫁の花婿であったところの老学者の記憶には夕顔の花と蛾とにまつわる美しくも悲しい夢幻の世界が残っている。そう言って彼は私にささやくのである。私には彼女がむしろからすうりの花のようにはかない存在であったように思われるのである。」寺田寅彦「からすうりの花と蛾」より

「蝉の話」138p
 北杜夫の実父・斎藤茂吉と小宮豊隆・島木赤彦との「歌の中のセミ」エピソードが愉快だ。
 ただ私のように、茂吉の歌に直接に触れる前に、この文章を読んで人間斎藤茂吉に出会ってしまうのがいいのかどうか。

「まんぼう、ふたたび憶い出を語る」147p
串田孫一『博物誌』にまつわるエピソードが面白い。

「ついでにこのコムラサキという蝶は、往々ヘッセの訳書などにニムラサキとして登場してくる。よく同じ誤植をやるものだと思っていたが、串田孫一氏の『博物誌』によってその疑問が氷解した。つまり独和辞典のなかでもっとも信用されているものに、Schillerfalterがニムラサキとなっているためなのだ。」155p。

「高山の蝶」157p

164p「手軽にしょっちゅう訪れるというわけにはいかぬ高山の蝶の生活史をさぐるには、平地の蝶の何倍もの困難がいる。わが国の高山蝶の生態がすっかり明るみにだされたのは、多く田淵行雄氏の努力による。この人は高山の蝶を調べるため、わざわざアルプスの麓に住みついた。シャーレの中の飼育では本当の生活史はわからない。彼は卵がうみつけられた草を見つけると、日を更めてせっせとそこへ登っていった。雪の降りつむ冬にも登ってゆき、雪をほり、枯葉や土をのけ、幼虫がどんな具合でいるかを調べた。氏の手によって『高山蝶の生態』という克明な写真集が著されている。」。

 『高山蝶の生態』の正確な書名は『高山蝶 生態写真』らしい(朋文堂 1959)。

「水に棲む虫」166p

「(前略)墓地に遊びにゆくと、墓石の花をさすくぼみのたまり水に、ごく小さなオタマジャクシが泳いでいるのを発見した。私は胸をときめかせ、それをびんに入れて飼っておいた。ところが彼らは蛙にならず、なんとただの蚊になってしまった。ボーフラであったのである。博物学に関してガクのある筈の私は、成長してからも羞恥のあまり、この話は人に語ったことがない。」

「秋なく虫」175p

「米ソ両大国の間でもいっそコオロギを早く鳴かす競争でもしたらいかがと思われる。」176p

 「米ソ」のかわりに適当な国名を入れ(ソ連は崩壊してしまったが)、「コオロギ」同様に何か鳴く生き物を入れれば、今でも通用する一文である。

「まんぼう、沖縄をゆく」185p
 結語

「その島が次第に近づいてくる。夕刻、船尾にさそわれ、潮風の吹きつける中で、石油缶のコンロで炊いたボロボロの飯とウドンを食べた。七時すぎ海上がたそがれてき、七時半には水平線に日が没した。八時には満天に星がきらめきだしたが、西の水平線の余光だけはなかなか薄らがない。その中に目ざす島影が黒く浮きだし、それがようやく近づいてきた。 が、ここらでもう書くのをやめてしまうのである。この著者の得意とするところである。」198p

「蜂の生活」199p
 200p「ランドストロス」。これは、「ラングストロス」の間違いなのではないか。155pの「ニムラサキの誤植」よろしく。養蜂業で広く使われる「ラングストロスの巣箱」なるものがあるらしい。各出版社の校正から漏れたものか。「ラングストロス」が正しいのなら、この小文のこの指摘によって、改訂されないものだろうか。
 203p「岩田久二雄」は、大阪生まれの昆虫学者・生態学者(1906-1994)。主著『自然観察者の手記』は、「虫の本」としていずれ紹介したい。

「どのようにして虫を防ぐか」208p
 結語

「害虫の対策は一つの虫だけでなく、その虫の周辺にひろがる複雑に入くんだ生活環を調べることが大切だ。薬品は抵抗性のことばかりでなく、害虫の天敵まで殺してしまう。一羽の鳥にしてもどれだけの虫を食べるか。一匹の狩猟蜂はどれだけの獲物を狩るか。そしてまたその鳥にしても蜂にしてもこの世にただ孤り棲んでいるわけではない。人間はせいをだして自然界の微妙な調和をやぶってきたようなところがあるが、それもただ文明という呼名で片づけられねばならぬのであろうか。」217p

「あらずもがなのしめくくり」218p
 結語

「ところで私はといえば、たしかに虫たちを好きではあったが、別段それによってなんのサトリをひらいたわけでもなく、人に語るべきものはなにもない。強いていえばただひとつ、たとえ人から「あいつはムシケラのような奴だ」と悪罵されようとも、私はにっこり微笑できようというものだ。」227p

串田孫一による「解説」228p
 1965年に書かれた串田孫一(1915-2005)の解説は、今読んでみてもまったく古びていない。
「好奇心の飼育」という言葉が印象に残る。

「北さんは神経科のどくとるとして、どういうことをしておられるのか知らないが、この「昆虫記」のみに限らず、どの本を読んでも、好奇心を実にうまく操りつつ、地上に存在しているものから、(時には存在していないものからも)貴いもの、痛快なものを、さまざまに吸いとり、それを、文章上のうまい話しぶりにのせて、私ども読者を悦ばせている。別の言い方をすると、年とともに衰えがちな好奇心を、恰も虫を飼育するように、うまく育てて、決して不純物を附着させたり、虫に喰われるようなへまをしない。このこつが私などにはひどく羨ましい。」230-231p
 「「どくとるマンボウ昆虫記」は、私の部屋では、昆虫に関する本の棚に並べてある。そして鉛筆で印が沢山つけてある。私は本から知識を授けられた時にはそうする癖がある。 だが別の人はこの本を、「どくとるマンボウ航海記」にはじまる同じ著者の本と並べるだろう。そういう方は、著者について別の印象を抱いておられるに違いない。」231p。

 私にとっても、やはり北杜夫は「虫の本」の作者だ。串田孫一と私のこの本に対する接し方の違いは、鉛筆で印をつけるか否かだろう。たまたま私は、鉛筆でではなく、インターネットでブックマークをつける時代に生まれついたというわけだ。

利尻島田原家周辺の昆虫採集
 さて、1905(明治38)年から営々と、大正・昭和・平成と年号が変わっても、仙法志字御崎の故地で一族の命脈を何とか保ってきた田原家だが、2017年現在その土地に住む人間はいない。2015年に、父の死後一人家守をしていた虫嫌いの母が住処を移し、利尻町の高齢者施設に入居したからだ。
 そんな田原家周辺の虫に関するささやかな思い出を書いて、この小文の「あらずもがななしめくくり」としたい。
 昭和50年代半ばに大学生となって帰郷した夏のある日のこと、虫好きの父親が幾分恥ずかし気に話しかけてきた。家のまわりに知らない虫の気配がする、捕まえて見てみたいが一人では無理なので、お前も手伝えという。父は長年漁師をやっており、生き物を捕える勘にはすぐれている。しかし、健常者のような速度で走ることはできない。三十代後半に冬季は漁のできない島を離れ出稼ぎに出て、その出稼ぎ先で事故に遭い左足の膝から下を失って、義足をはめていたからだ。貧乏な漁師の家に生まれ、家長として家族を養っていくために。
 息子も息子でもちろん虫好きなのだが、もう20歳過ぎだ、いい年をした親子同士が虫捕りをすることに照れる気持ちもある。一方で、利尻島で生まれ育った父も知らない虫とはどんなものだろうと興味が湧いた。結局、幾分迷惑そうな振りをしながら、父親の提案に従うことにした。
 家の裏を走る道道(北海道道の意味)脇の草叢を足先で探ると、確かに北方の直翅目にしては大きな虫が何匹か草の中から飛び出す。虫はそのまま人の背丈ほども高く飛び、彼方の草叢に着陸して姿を消す。捕まえるためには、僻地とは言え自動車の往来もある見通しの悪いカーブの道路を、車に注意しながら虫を追って走らなければならない。こちらが着地点にやっと辿り着くと、警戒態勢に入っている虫は待ってましたとばかりまたロングゲインの飛翔をして逃げる。これでは確かに、父一人では捕まえられないだろう。
 どれほどの時間、格闘しただろうか、結局、虫は捕れなかった。とはいえ、息子の心には、いつか捕まえてやるという闘いの炎がついた。けっして消えることのない。そしてその虫捕りは、父がどんな人間だったかを記憶する、思い出の一つとなって私の心に残っている。
 それは、トノサマバッタだった。この小文を書くにあたって、念のためトノサマバッタが利尻島に生息するかどうか、2017年夏利尻町立博物館の学芸員S氏に確認もした。「いますよ」とのこと。とはいえ、仙法志字御崎の実家周辺での生息開始時期は、それほど古くないのかもしれなという話にもなった。私が子供の頃(1958-1974)、虫の姿を毎日探していたにも関わらず、トノサマバッタを見た記憶がないのだから。また、長くそこで暮らし、生き物全般の存在に眼を光らせていた父にも未知の虫だったのだから。

 21世紀目前の1999年に父が亡くなったときには、私は二人の娘の父親になっていた。
 娘たちが物心付くと、家族四人で札幌近郊の野幌森林公園によく出掛けた。そして目にしたのだ、草叢や芝生で、あのまだ捕まえていない、父の仇とでもいうべき、直翅目のあの飛翔を。
 今度はこちらが、子供(たち)に頼む番だ。
 娘二人と私、三者がそれぞれ適当な距離を取って、そのバッタを追いかける。奴らが飛び立ち、彼方に着地するとほどなく、その地点に一番近い一人がそこに走り込んで脅かす。奴らは休む間もなく、たまらず飛び立つ。それを何度か繰り返すうち何かの拍子に、待機している他二人の方角に奴らが自ら飛び込んでくる。その着地点が父親の足元ならしめたものだ。父親は、バッタの体の自由が利かないように、草ごと巻き込み抑え込む。それでも草の隙間でジタバタするのを、後肢二本を折らないように気をつけて、右手の親指と人差し指で挟み込むと、捕虫網なしでも捕まえることができた。素手での捕虫暦30年の経験が役に立ったのだ。
 それは、間違いなく、トノサマバッタだった。亡父との約束を、したわけではないが、果たすことができた。利尻島の産でもないが。娘たちの歓声と、トノサマバッタに触るために、バッタに向かって怖々伸びてくる彼女たちの指。
 そんな娘たちももう選挙権を持つ年齢だ。もう父親と虫を追うこともおそらくないだろう。私とは違い。彼女たちは、私の母ほどの虫嫌いではなさそうだが、格別虫好きでもなさそうだ。こちらもまた特段の虫好きになって欲しいとも思わない。それでも串田孫一言うところの「好奇心の飼育」だけは続けていってほしい。その対象が、どんなものであっても。いやもちろん、どちらかといえば、虫好きであってほしいですが。

 最後にまたヘタな警句をまとめとして置き、この小文を終えることにしよう。
「人間のいない土地はあっても、虫のいない土地はない。」
「人間は消えても、虫たちは残る。」
「心に虫を飼うものは、どこに行っても退屈しない。」




虫の本 その1 『どくとるマンボウ昆虫記』 ガイド編

ガイド編
以下、追補のブックガイド等の情報です。随時更新。
今回は、広辞苑第六版の電子辞書版に多く拠っています。

7p「人はなぜ虫を蒐めるか」
10p マーク・トウェーン
「マーク‐トウェーン【Mark Twain】(本名 Samuel Langhorne Clemens)アメリカの小説家。「トム=ソーヤーの冒険」「ハックルベリー=フィンの冒険」などユーモラスな児童文学を書いたが、晩年は「不思議な少年」など厭世的な作風に変ずる。ほかに「鍍金ときん時代」など。(1835~1910)
広辞苑第六版より引用」
「「イシュリエル」叔父さんの話」は、短編集『The Canvasser's Tale』所収の「Ithuriel」。
『イヴの日記―他5篇』龍口直太郎 (岩波文庫 1952) 所収の「山彦」がそれか(岩波文庫中の表記は「イスーリエル」)。

11p ミシュレ
「ミシュレ【Jules Michelet】フランスの歴史家。ソルボンヌ・コレージュ‐ド‐フランスの教授。ナポレオン3世に反対して辞任。民衆への共感にあふれた躍動的叙述で知られる。主著「フランス史」「フランス革命史」。(1798~1874)
広辞苑第六版より引用」
『博物誌 虫』石川湧訳 (ちくま学芸文庫 1995)・(思潮社 1980)

13p シャルル・ロスチャイルド
ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド閣下(The Hon. Nathaniel Charles Rothschild 1877 – 1923)
「ロスチャイルド【Rothschild】ユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー=アムシェル=ロートシルト(Mayer Amschel R.1744~1812)が18世紀後半フランクフルトで金融業を始めて富貴の基礎を作り、その孫に至ってイギリスの貴族に列し、一族はヨーロッパ各地で金融業を営む。
広辞苑第六版より引用」
『ロスチャイルド王国』フレデリック・モートン 高原富保訳 (新潮選書 1975)
『富の王国ロスチャイルド』池内紀 (東洋経済新報社 2008)

16p ジャン・アンリ・ファーブル「ファーブル【Jean Henri Fabre】フランスの昆虫学者。昆虫、特に蜂の生態観察で有名。進化論には反対であったが、広く自然研究の方法を教示した功績は大きい。主著「昆虫記」。(1823~1915)広辞苑第六版より引用」奥本大三郎氏の個人訳集がまさしくこの小文を書き始めた2017年に完結している『完訳ファーブル昆虫記』奥本大三郎 (集英社 2017)『完訳ファーブル昆虫記』山田吉彦・林達夫(岩波文庫)が日本ではもっとも親しまれた訳本だろうか『大杉栄訳 ファーブル昆虫記』(明石書店 2005)という本もある。

「1922年、日本で最初に刊行されたファーブル昆虫記の翻訳者はアナーキストの大杉栄!ファーブルの原題『昆虫学的回想録』に『昆虫記』の名を贈ったのはこのときの大杉栄だった。大杉翻訳時には不可能だった昆虫名の和訳を補い、現代科学の視点から解説を加えて幻の名訳がよみがえる。」

明石書店 (2005/12/15)

21p「冬から春へ」
26p フリードリヒ大王
「フリードリヒ‐だいおう【フリードリヒ大王】‥ワウ(F. der Grosse)プロイセン王フリードリヒ2世。啓蒙絶対君主の典型。1740年即位、行政の改革、軍隊の増強、教育・産業の奨励に努め、ヴォルテールらフランスの啓蒙思想家に親しんだ。オーストリア継承戦争・七年戦争でマリア=テレジアと戦いシレジアを領有、ポーランド分割に参加して領土を拡張。また、音楽を愛し、「反マキアヴェリ論」ほか著述も多い。フレデリック大王。(1712~1786)
広辞苑第六版より引用」
『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』飯塚信雄(中公新書 1993)

31p「「詩人の蝶」
31p フリードリヒ・シュナック
 ドイツの作家・詩人・ジャーナリスト(Friedrich Schnack 1888-1977)
『蝶の生活』岡田朝雄訳 (岩波文庫 1993)
『蝶の不思議の国で』岡田朝雄訳 (青土社 1997)

31p ホメロス
「ホメロス【Homros】古代ギリシアの詩人。前8世紀頃小アジアに生まれ、吟遊詩人としてギリシア諸国を遍歴したと伝える。英雄叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者とされるが、この詩人が実在したか、この2作の作者だったかについては諸説がある。ホーマー。ホメール。
広辞苑第六版より引用」
『イーリアス』呉茂一訳 上・下 (平凡社ライブラリー 2003)
『オデュッセイア』松平千秋訳 上・下(岩波文庫 1994)

37p 世之介
「よのすけ【世之介】
井原西鶴作の浮世草子「好色一代男」の主人公の名。一生を好色遍歴のうちに送る。
広辞苑第六版より引用」
「いはら‐さいかく【井原西鶴】ヰ‥江戸前期の浮世草子作者・俳人。本名、平山藤五。大坂の人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。作品はよく雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性をいきいきと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色がある。作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。(1642~1693)
広辞苑第六版より引用」
「こうしょくいちだいおとこ【好色一代男】カウ‥ヲトコ 浮世草子。井原西鶴作。8巻8冊。1682年(天和2)刊。浮世草子の最初で、好色本の始祖。主人公世之介1代の色欲生活に関する短い説話を連ね、大坂・江戸・京都などの女色・男色の種々相を活写。
広辞苑第六版より引用」
『新編日本古典文学全集 66 井原西鶴集1』「好色一代男・好色五人女・好色一代女」(小学館 1996)

37p ドン・ファン
「ドン‐ファン【Don Juan】スペイン黄金世紀の劇作家ティルソ=デ=モリーナ(Tirso de Molina1580頃~1648)の戯曲「セビリアの色事師と石の招客」の主人公。この作品に基づいたモリエールの戯曲、モーツァルトの歌劇、バイロンの詩、リヒャルト=シュトラウスの交響詩などによって広まった。
転じて、漁色家。
広辞苑第六版より引用」
『ドン・ジュアン』モリエール 鈴木力衛訳 (岩波文庫 1975)
歌劇『ドン・ジョヴァンニ』モーツァルト(ロレンツォ・ダ・ポンテ 台本)

37p カサノバ
ジャコモ・カサノヴァ(Giacomo Casanova 1725 - 1798)は、ヴェネツィア出身の術策家(aventurier)・作家。女性遍歴によって広く知られる。自伝『我が生涯の物語』Histoire de Ma Vie(邦題『カザノヴァ回想録』)を残した。
『カザノヴァ回想録』 集英社版(田辺貞之助訳)・岩波文庫版(岸田国士訳)・河出書房新社版(窪田般弥訳)
フェデリコ・フェリーニ監督『カサノバ』(ドナルド・サザーランド主演 1976)

37p マン・シング
『どくとるマンボウ昆虫記』では「インドのジャイプール領主であった」とあるが、Man Singh I (1550 – 1614)なのかMan Singh II(1912-1970)か特定されていない。鋭意調査中。

37p チュラロンコーン
ラーマ5世(タイ語: รัชกาลที่ ๕)は、チャクリー王朝の第5代のシャム国王。タイの近代化を実現した名君として現在でも同国で評価が高いらしい。映画『王様と私』(ウォルター・ラング監督 米国 1956)の「王」は、チュラロンコーンの父ラーマ4世がモデルらしい。
『どくとるマンボウ昆虫記』では「妻妾三千人といわれるが、われわれにはそういう真似はできない。」とある。ラーマ5世が艶福家でもあったことは間違いないが、「三千人」という数はどこから来たものか。「白髪三千丈」の類のようにも思えるのだが。鋭意調査中。
「チュラロンコン【Chulalongkon】
タイ国王ラーマ5世。チャクリ改革と呼ばれる国内統治制度の近代化を達成、英・仏に対してタイの独立を全うした名君として知られる。(在位1868~1910)(1853~1910)
広辞苑第六版より引用」

37p 十七世紀の英国人ウィリアム・ラチマー プレストン塔
 現在のところ詳細不明。鋭意調査中。情報求む。

38p マルセル・ド・ルクレール パト・ケリー
 同じく、現在のところ詳細不明。鋭意調査中。情報求む。

38p 磐瀬太郎
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E7%80%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E (「自宅にて鎌倉蝶話会を主宰し、少年時代の養老孟司はそのメンバーであった。」)へのアクセスを筆頭に、小まめにググれば、その先人に関する素晴らしいテキストを随所で見つけられる。北杜夫が生きていたら、その簡易さに唖然とするのではないか。その一例:「磐瀬太郎氏の想い出など」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/yadoriga/1970/62/1970_KJ00006296575/_pdf

40p 石沢慈鳥 「石沢慈鳥と鳥類
こちらでは、「企画展「石沢慈鳥と鳥類」開催のご案内」というサイトに辿りついた。http://www.yamagata-museum.jp/event/h24/ishizawa_jichou/ それによれば:

 「石沢慈鳥(本名石澤健夫)は、1899年東村山郡長崎町(現中山町)に生まれました。小さな時から身のまわりの鳥や昆虫に人一倍興味持った少年でした。東京農業大学を卒業後、林野庁の鳥獣調査室に勤務し、本格的に日本の野鳥の研究を行うこととなりました。身のまわりの鳥の研究から日本アルプスにすむライチョウの生態や行動、富士山麓における鳥類の生態調査など多くの研究業績をあげていきました。 さらに、鳥の卵、巣まで研究の幅を広げ、1940年には小林桂助と共著で英文の「原色日本産鳥卵図説」を完成させ、国内外の鳥類の研究者から高い評価をうけました。また、1950年から1951年にかけて刊行された「原色野鳥ガイド上・下」は、カラーで出版された図鑑の中では比較的安価で、多くの鳥類愛好家に愛用されました。こども向けの本としては「鳥の観察」と「鳥の生活」があります。 1966年と1968年に、石沢慈鳥の収集した鳥類の剥製、卵、巣、写真、蔵書の約7,000点を山形県で受け入れることになりました。1971年、山形県立博物館開館と同時に本館へ移され、現在も大切に保管されています。1920年ころから1960年ころにかけての標本で、現在では採集することのできない貴重なものが多数含まれています。」

 上の磐瀬太郎氏による追悼文もある。「まぼろしの幼虫図鑑 : 石沢慈鳥氏の死を悼む」https://www.jstage.jst.go.jp/article/yadoriga/1968/53/1968_KJ00006296380/_article/-char/ja/

41p「神聖な糞虫」
41p ファーブルの『昆虫記』

46p 古代エジプトの学者ホールス・アポロ
スカラベについて触れたているホルス・アポロの著書『神聖文字』は、5世紀後半に成った作品という説もある。http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/10130/KJ00005092022.pdf 「古代エジプト」とは言い難いようだ。「オルス・アポロ (ノストラダムスの手稿)」では、「神聖文字」の著者をナイル・エジプトの王オルス(ホルス)・アポロとしており(ノストラダムスの勘違いらしい)、ややこしいことこの上ない。

50p「虫とり百態」
56p チェスタートン
「チェスタートン【Gilbert Keith Chesterton】イギリスの作家。カトリックの立場に立ち、知的で諷刺的な作風を示す。小説「木曜日の男」、推理小説「ブラウン神父の童心」、評論「ディケンズ論」など。(1874~1936)
広辞苑第六版より引用」

63p ル・ムールト
ウジェーヌ・ル・ムールトは、昆虫採集家・標本商(Eugène Le Moult 1882-1967)。
既出の奥本大三郎『捕虫網の円光 標本商ル・ムールトとその時代』の一節を引用しよう。中公文庫版(1997年初版)320p

「ル・ムールトは七十二歳になってから、自伝あるいは、自分に都合のよいように変形された回顧録(もちろん自伝とか回想録とかいうものはみんなそんなもんだが――)『採集自伝』(Mes Chasses aux Papillons)を書いている。その中で彼は、今や年をとり、自分の愛し、生涯をささげて可愛がった者たちには見捨てられ、慰めとなるものはもはや、蝶と、十八年も生活の伴侶となっているキジバトの<クルークルー>しかいない、そしてもし、この二つがなかったら、とっくに自殺してしまっているだろう、という。ぶつぶつこぼしたり、恨みがましいことを書いたりするのが好きなル・ムールトではあるけれど、たしかに晩年は寂しかったらしい。しかし一方では年をとってから若い細君をもらい、その細君なる人が、今も生きていて、かなり因業なお人である、という噂もある(日本語はフランス人に読まれる恐れがないから便利である)。ザイツというドイツ人の医師が出した『世界大型鱗翅類図譜』という、世界中の、当時知られていた限りの蝶と蛾(微小なものを除く)の種を図示し、解説を加えた、空前絶後の大図鑑のフランス語版を出したのはル・ムールトなのだが、その最後の在庫品を、私は数年前に手に入れた。そして、私にそれを売ってくれた古本屋のおやじは、ル・ムールトの細君から直接仕入れたのだ、と私に語った。それはそれとして、一般に虫屋に自殺者は割合少ないもののようである。停年退職後、することがなくなって急にふけこむどころか、虫三昧の生活になって、生き生き、つやつやの憎らしいような老虫屋が多いのはめでたいと言わねばならぬ。」

64p「蟻は人類をおしのけるか」
64p イソップ物語
「イソップ【Aesop】(Aispos ギリシア)「イソップ寓話」の作者と伝えられる前6世紀頃の古代ギリシアの人。アイソポス。
広辞苑第六版より引用」
「イソップ‐ぐうわ【イソップ寓話】イソップが物語ったと伝えられる寓話集。前3世紀ごろ散文で編集、以後次々に増補された。1593年(文禄2)九州天草あまくさから刊行した邦訳がある。イソップ物語。 →伊曾保イソホ物語
広辞苑第六版より引用」

64p モーム
「モーム【William Somerset Maugham】イギリスの作家。風俗喜劇で名声を得、のちに小説を書いた。小説「月と六ペンス」は画家ゴーガンがモデル。「人間の絆きずな」は自伝的小説。(1874~1965)
広辞苑第六版より引用」
 短編集『コスモポリタンズ』(「Cosmopolitans」1936)所収の短編小説「アリとキリギリス」 (“The Ant and the Grasshopper” 1924 )だろう。
 コスモポリタンズ (ちくま文庫―モーム・コレクション)
 イソップ寓話よりはむしろラ・フォンテーヌ (Jean de La Fontaine 1621-95)の『寓話』(「Fables 」 1668, 78, 79, 93)1の冒頭を飾る「アリとキリギリス」2のパロディーらしい。

64p 『虫の生活』を書いたジュリー・ケンリ―女史
ジュリー・クロッソン・ケンリー Julie Closson Kenly (1869-1943)
『虫の生活1』 (偕成社少年少女文庫01 1941)
『虫の生活2』 (偕成社少年少女文庫02 1941)

65p ルナール
ミシュレに続いてルナールが登場する。
「ルナール【Jules Renard】フランスの作家。犀利さいりな観察と独自の諧謔・詩情に富む。作「にんじん」「葡萄畑の葡萄作り」「博物誌」「日記」など。(1864~1910)
広辞苑第六版より引用」
『博物誌』新潮文庫・岩波文庫

67p アイドマン
 詳細不明。調査継続中。

68p リンネ
「リンネ【Carl von Linn】スウェーデンの博物学者。ウプサラ大学教授。二名法を採用し、生物分類学の方法を確立。著「自然の体系」。(1707~1778)
広辞苑第六版より引用」
『リンネと博物学―自然誌科学の源流』千葉県立中央博物館 (編 (文一総合出版; 増補改訂版 2008)

72p ジュリアン・ハックスリ
「ハックスリ【Julian Sorell Huxley】イギリスの生物学者。T.H.ハックスリの孫。A.L.ハックスリの兄。ロンドン大学教授。1946年ユネスコ事務局長。H.G.ウェルズとの共著「生命の科学」など、多くの一般向けの科学書がある。(1887~1975)
広辞苑第六版より引用」
『ジュリアン・ハックスリー自伝』太田芳三郎 訳(みすず書房 1973)

73p ピエール・ユベール
ピエール・ユーべルは、スイスの博物学者フランソワ・ユーベル(François Huber, 1750 - 1831)の子供(Pierre, 1777-?)。「土着アリの行動に関する研究 Recherches sur les Maeurs des Fourmis indigenes」(1810)を著す。

73p 蟻学者ホイラー
 ウィリアム・M. ホイーラーは、米国の昆虫学者(William Morton Wheeler 1865 – 1937)
『昆虫の社会生活』渋谷寿夫訳 (紀伊國屋書店 1986)

74p ワスマン
 イタリア生まれの昆虫学者Erich Wasmann (1859-1931)か。
 「ワスマンはルクセンブルクで高さ一メートル半、裾野の周囲十五メートルの蟻塚を観察した。」とあるが、出典不明。

75p 矢野宗幹
 矢野宗幹(やの むねもと 1884-1970)は、日本の昆虫学者
 ※昆虫採集法1915
 蟻の世界 少國民のために

78p「まんぼう、憶い出を語る」
81p 平山修二郎著『原色千種昆虫図譜』
 平山修二郎は大正・昭和期の昆虫学者(1889-1954)。
『原色千種昆虫図譜』
『原色千種続昆虫図譜』

91p「変ちくりんな虫」
91p 『どくとるマンボウ航海記』
 初版1960年。

94p 日本書紀
「にほん‐しょき【日本書紀】六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
広辞苑第六版より引用」

94p 菊地晩香
 漢学者らしい。天狗ユダヤ人説を唱える。調査継続中。

97p 安松京三
安松京三(やすまつ けいぞう 1908 - 1983)は、日本の昆虫学者。九州大学名誉教授。日本における天敵による害虫防除の草分け。
『天敵 生物制御へのアプローチ』日本放送出版協会 1970 NHKブックス

100p「蜻蛉、薄馬鹿下郎」
100p 神武天皇
「じんむ‐てんのう【神武天皇】‥ワウ 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦かんやまといわれびこ。伝承では、高天原たかまがはらから降臨した瓊瓊杵尊ににぎのみことの曾孫。彦波瀲武草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことの第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦ながすねびこらを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮かしはらのみやで即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎはその陵墓とする。
広辞苑第六版より引用」
 
100p セント・ヒエロニムス
セント・ヒエロニムス、エウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420)は、キリスト教の聖職者・神学者。
「セント・ヒエロニムスも匙を投げるであろう大目玉」という文意がわからない。フランドルの画家、ヒエロニムス・ボスと記憶違いをしているのだろうか?

105p テオフラストスの『人さまざま』
 テオプラストス(希: Θεόφραστος, ラテン文字転記:Theophrastos, 英: Theophrastus、紀元前371年 – 紀元前287年)は、古代ギリシアのレスボス島生まれの哲学者・博物学者・植物学者。
『人さまざま』 (岩波文庫 吉田正通と森進一それぞれの訳がある) 

106p プラキシテレス
アテナイのプラクシテレス(ギリシャ語:Πραξιτέλης, Praxiteles)は大ケフィソドトスの子で、紀元前4世紀の最も有名なアッティカの彫刻家。

107p ヨハン・ネストロイ
ヨハン・ネーポムク・ネストロイ(Johann Nepomuk Eduard Ambrosius Nestroy 1801-1862)は、オーストリアの俳優・劇作家。

111p 映画『未完成交響曲』
 『未完成交響楽』(みかんせいこうきょうがく、Leise flehen meine Lieder)は、1933年のオーストリア映画。

111p シューベルト
 フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert 1797 - 1828)は、オーストリアの作曲家。

111p 古川晴男
古川晴男(ふるかわ はるお、1907-1988)は、日本の昆虫学者。

112p 欽明天皇
 欽明天皇(きんめいてんのう)は、第29代天皇。

114p「さまざまな甲虫」
116p ホ―レス・フレッチャー フレッチャリズム(咀嚼運動)
 ホーレス・フレッチャー(Horace Fletcher:1849~1919)は米国人。「フレッチャリズム」を提唱。

116p ピタゴラス
「ピタゴラス【Pythagoras】 ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。サモスに生まれ、南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。ピュタゴラス。(前570頃~)
広辞苑第六版より引用」

118p 敗鼓録
山田正珍著。調査継続中。

119p ハインツ・シュマイドラー
 Heinz Schmeidler
『現代文化と性』清水朝雄訳 (荒地出版社 1959)

119p ホメロス
 31pで既出。

119p トーマス・マン
「マン【Thomas Mann】 ドイツの小説家。H.マンの弟。ナチス時代アメリカに亡命し、戦後はスイスに移住。リアリズム小説から出発したが晩年は神話的素材を取り上げた。ヒューマニズムの立場から民主主義擁護の姿勢を貫く。長編「ブッデンブローク家の人々」「魔の山」「ヨセフとその兄弟」「ファウストゥス博士」、短編「トニオ=クレーガー」「ヴェニスに死す」などの小説のほか、評論「非政治的人間の考察」など。ノーベル賞。(1875~1955) 広辞苑第六版より引用」
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3 より引用

「マンから影響を受けている作家には三島由紀夫、吉行淳之介、北杜夫、大江健三郎、辻邦生らがいる。三島は『国文学 昭和45年5月臨時増刊号』で、三好行雄との対談においてマンからの影響を語っており、マンによって初めて西欧的な二元論にぶつかったと述べた。またドナルド・キーンによれば、三島は自身の代表作『金閣寺』の文体を「鴎外 プラス トーマス・マン」だと述べており、キーンは『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘している(『悼友紀行』、中央公論社)。北は学生時代からマンの作品に親しんでおり、北杜夫というペンネーム自体が『トーニオ・クレーガー』から由来したものである。彼のデビュー作『幽霊』は『トーニオ・クレーガー』から代表作『楡家の人々』は『ブッデンブローク家の人々』から、それぞれ強い影響を受けている。」

123p ジョージ・ルイス
 英国の茶の貿易商。1867年と1880年に来日。日本各地で甲虫類を採集。

123p 『アマゾンの博物学者』 の著者ヘンリー・ウォルター・ベーツ
ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 1825-1892)はイギリスの博物学者・昆虫学者・探検家。Wikipedia を参照
『アマゾン河の博物学者』長沢純夫・大曽根静香訳 (新思索社 普及版 2002)
 
125p 『ファーブル昆虫記』
既出

125p 桝田長
『日本原色虫えい図鑑』桝田長・湯川淳一(全国農村教育協会 1996)

128p「天の蛾」
128p コペルニクス
「コペルニクス【Nicolaus Copernicus】 ポーランドの天文学者・聖職者。肉眼による天体の観測とギリシア思想とに基づいて、太陽中心宇宙説を首唱、地球その他の惑星は太陽の周囲をめぐるという地動説を発表し、当時定説であった地球中心宇宙説に反対し、近世世界観の樹立に貢献。主著「天体の回転について」。(1473~1543)
広辞苑第六版より引用」
『天体の回転について』矢島祐利訳 (岩波文庫 1953)

128p コロンブス
「コロンブス【Christopher Columbus】 (Cristoforo Colombo イタリア)イタリアの航海者。ジェノヴァの生れ。スペイン女王イサベルの援助を得て、1492年アジアに向かって出帆、西インド諸島サン‐サルバドル島に上陸、キューバ・ハイチに到達。その後も3回の航海でジャマイカ、南アメリカ北部、中央アメリカに到達。その業績は、「新大陸の発見」として重視された。(1446頃~1506)
広辞苑第六版より引用」
『コロンブス航海誌』クリストーバル・コロン 林屋永吉訳 (岩波文庫 1977)
『コロンブス 全航海の報告』林屋永吉訳 (岩波文庫 2011)

128p イザベラ女王
「イサベル【Isabel スペイン】(1世)カスティリアの女王。アラゴンのフェルナンド(1452~1516)と結婚して両国を共同統治し、スペイン統一の基を開いた。1492年イスラム支配下のグラナダを征服し、王と共にローマ教皇からカトリック君主の称号を授与され、カトリック両王と呼ばれた。コロンブスの航海を援助。(1451~1504)
広辞苑第六版より引用」
『スペイン女王イサベル―その栄光と悲劇』小西章子 (朝日文庫)

133p 『オデッセイ』
「オデュッセイア【Odysseia ギリシア】「イリアス」とともにホメロス作と伝えられる古代ギリシアの長編叙事詩。トロイア戦争終結後、故郷をめざすオデュッセウスの10年間の漂泊と、不在中、妃ペネロペに求婚した男たちに対する報復とをのべる。オデッセー。
広辞苑第六版より引用」
ホメロスは31pで既出。

134p フリードリヒ・シュナック
31pに既出

136p 応挙
「まるやま‐おうきょ【円山応挙】
江戸中期の画家。円山派の祖。通称、主水もんど。丹波の人。狩野派の石田幽汀に学ぶ。外来の写実画法の影響を受け、精細な自然観察に基づきつつ、装飾性を合わせ持つ新たな様式を確立。平明で情趣的な画風は、新興町人層に支持を受け、のちの京都画壇に大きな影響を与えた。作「藤図屏風」「雪松図屏風」など。(1733~1795)
広辞苑第六版より引用」
『円山応挙: 日本絵画の破壊と創造 (別冊太陽 日本のこころ)』金子信久 監修(平凡社 2013)

136p 柳田国男
「やなぎた‐くにお【柳田国男】‥ヲ 民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(1875~1962)
広辞苑第六版より引用」

136p 井上円了
「いのうえ‐えんりょう【井上円了】ヰノウヘヱンレウ 哲学者。新潟県生れ。西洋哲学を背景として仏教の新解釈を試みた。哲学館(後の東洋大学)を創立。多くの仏教哲学の著書のほか「妖怪学講義」がある。(1858~1919)
広辞苑第六版より引用」
『井上円了妖怪学講義』平野威馬雄 編著(リブロポート 1983)

138p「蝉の話」
138p アナクレオン
「アナクレオン【Anakren】 古代ギリシアの抒情詩人。前6世紀イオニアの生まれ。恋と酒とを歌い、後世これを模してアナクレオン風という。現存の作は少ない。
広辞苑第六版より引用」
『快楽詩人アナクレオン』木村鷹太郎(松栄堂書店 1902)

138p クセナークス
 鋭意調査中。

139p 加藤正世

「加藤正世博士(1898~1967年)は、大正から昭和初期にかけて活躍した在野の昆虫学者である。昆虫全般に造詣の深かった加藤博士だが、特にセミやツノゼミ、ヨコバイ、ウンカなどの半翅目を専門としていたことから「セミ博士」とも呼ばれていた。東京郊外の石神井公園に隣接した自宅に加藤昆蟲研究所と併設した「蝉類博物館」を開館して、展示を通じた昆虫学の普及とともに、新種・新亜種を含む多くの論文や著書を世に輩出した。趣味の昆虫採集を通じた普及活動にも力を注ぎ、たくさんの少年・青年たちに影響を与え、社会現象にもなった昭和初期の昆虫黄金時代を築き上げた主要な人物としても知られている。」

「「蝉類博物館」 昆虫黄金期を築いた天才・加藤正世博士の世界」ページ:http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n2/v20n2_yago.html より

140p 芭蕉
「まつお‐ばしょう【松尾芭蕉】‥ヲ‥セウ 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644~1694)
広辞苑第六版より引用」
『芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』萩原恭男校注 (岩波文庫)

140p 斎藤茂吉
「さいとう‐もきち【斎藤茂吉】 歌人・精神科医。山形県生れ。東大医科出身。伊藤左千夫に師事、雑誌「アララギ」を編集。長崎医専教授としてドイツなどに留学、のち青山脳病院長。作歌1万7000余、「赤光しゃっこう」以下「つきかげ」に至る歌集17冊のほか、「柿本人麿」をはじめ評論・随筆も多い。文化勲章。(1882~1953)
広辞苑第六版より引用」
『斎藤茂吉歌集』山口茂吉・佐藤佐太郎・柴生田稔 編 (岩波文庫)

140p 小宮豊隆
「こみや‐とよたか【小宮豊隆】 独文学者・評論家。福岡県生れ。東大卒。東北大教授・東京音楽学校校長を経て、学習院大教授。夏目漱石門下。漱石全集の編集に尽くす。著「夏目漱石」「中村吉右衛門」など。(1884~1966)
広辞苑第六版より引用」
『中村吉右衛門』(岩波現代文庫)

142p 島木赤彦
「しまき‐あかひこ【島木赤彦】 歌人。本名、久保田俊彦。長野県諏訪生れ。長野師範卒。雑誌「比牟呂」を創刊。伊藤左千夫に師事。「アララギ」を編集。写生主義に立脚し、峻厳孤高の鍛練道を実践。歌集「氷魚」「太虚集」、著「歌道小見」「万葉集の鑑賞及び其批評」など。(1876~1926)
広辞苑第六版より引用」
『赤彦歌集』 (岩波文庫)

147p「まんぼう、ふたたび憶い出を語る」
150p 『復興叢書、食べられる野生植物』
詳細不明。『主要食糧農作物 害虫防除法 農事復興叢書4』上遠章(農村協会中央連合会 1947)という本は存在するようだが、その本なのだろうか? あるいは農村協会中央連合会発行の農事復興叢書シリーズ中に「食べられる野生植物」なる本があるのだろうか。調査継続中。

150p 孔子
「こうし【孔子】(呉音はクジ)中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼ちゅうじ。魯の昌平郷陬邑すうゆう(山東省曲阜)に出生。文王・武王・周公らを尊崇し、礼を理想の秩序、仁を理想の道徳とし、孝悌こうていと忠恕ちゅうじょとを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡おくりなされ、また至聖先師と呼ばれる。(前551~前479)
広辞苑第六版より引用」

150p 子貢
「しこう【子貢】孔門十哲の一人。姓は端木。名は賜。子貢は字あざな。衛の人。孔子より31歳若いという。
広辞苑第六版より引用」

150p 黒川多三郎
黒川多三郎(くろかわ・たさぶろう) 「別名:小塩氏 生没年1: 1883~1968 生没年2:明治16年~昭和43年 出身地:鳥取市(旧気高町)」鳥取県郷土人物データベース http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/ByName?OpenPage&Start=10.185&Count=70&Expand=14 より

151p 賢君鷹山上杉公
「上杉鷹山 うえすぎ‐ようざん【上杉鷹山】ウヘ‥ 江戸後期の米沢藩主。名は治憲。越前守。日向高鍋藩主秋月種美の次男。重定の養子。細井平洲を師とし、藩政改革を推進。藩校興譲館の設立、節倹の励行、行政の刷新、産業の奨励に努め、荒地開墾に尽力。(1751~1822)
広辞苑第六版より引用」

153p 親鸞
「しんらん【親鸞】 鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。皇太后宮大進日野有範の長子。綽空・善信とも称した。慈円、のちに法然の弟子となる。1207年(承元1)念仏弾圧により越後に流され、この間、愚禿と自称して非僧非俗の生活に入る。のちの恵信尼を妻にしたのはこの頃とされる。11年(建暦1)赦免され、晩年に帰京するまで久しく常陸国稲田郷など関東にあって信心為本などの教義を以て伝道布教を行う。著「教行信証」「唯信鈔文意」「浄土文類聚抄」「愚禿鈔」など。諡号しごうは見真大師。(1173~1262)
広辞苑第六版より引用」

154p キェルケゴール
「キルケゴール【Sren Kierkegaard】デンマークの思想家。合理主義的なヘーゲル的弁証法に反対し、人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。著「あれか、これか」「不安の概念」「死に至る病」など。キェルケゴール。(1813~1855)
広辞苑第六版より引用」

154p ウィリアム・ブレイク
「ブレーク【William Blake】 イギリスの詩人・画家。ロマン派の先駆で、素朴な情感と鋭い社会批判と幻想的な神秘主義を併せもつ。詩集「無垢むくの歌」、警句と短いエッセー集「天国と地獄との結婚」。ダンテの「神曲」や聖書「ヨブ記」のための版画も有名。(1757~1827)
広辞苑第六版より引用」

155p ハドソン
「ハドソン【William Henry Hudson】イギリスの博物学者・作家。アルゼンチン生れ。作「緑の館」「遥かな国遠い昔」「ラプラタの博物学者」など。(1841~1922)
広辞苑第六版より引用」

155p ヘッセ
「ヘッセ【Hermann Hesse】 ドイツの作家。第一次大戦当時よりスイスに居住。平和主義者として両世界戦争に反対。小説「郷愁(ペーター‐カーメンツィント)」「車輪の下」「シッダルタ」「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」などのほか、多くの抒情詩がある。ノーベル賞。(1877~1962)
広辞苑第六版より引用」
 余談:ヘルマン・ヘッセ Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%BBより


「逸話
『●Das Nachtpfauenauge(クジャクヤママユ)1911年』を自ら改稿して地方新聞に掲載した『Jugendgedenken(少年の日の思い出)1931年』は、現在は日本でしか読めない。この作品は1947年発行の国定教科書に掲載され、その後現在に至るまで70年間以上も日本の中学国語教科書のいくつかに教材として掲載され、2012年度からはすべての検定教科書に載っている。2009年4月、この作品を「昆虫標本」により具現化しようと、ヘッセと同じく昆虫採集を趣味とする岡田朝雄と新部公亮(共に日本昆虫協会理事)の2人が人文的昆虫展示会を行った。特筆すべきは、この作品に登場する4種(ワモンキシタバ・キアゲハ・コムラサキ・クジャクヤママユ)の鱗翅目(チョウ目)を特定し、それぞれこれらの乾燥標本をドイツ・スイスから取り寄せ、物語に則して展示したことである。なお、この展示会は日光市・大阪市・徳島市・鹿児島市・下野市・軽井沢町・川口市・福山市・岩国市・高崎市・宇都宮市・豊島区など全国30都市の公立博物館・文学館・図書館等にて巡回展示され、2010〜2013年、ドイツ・スイス両国のヘッセ博物館でも開催されることになり、日独交流150周年の記念行事の一つとして、ドイツ・日本両大使館から記念ロゴマークの使用を承認された。スイス国モンタニョーラのヘッセ博物館では、ヘルマン・ヘッセの実孫ジルバー・ヘッセ氏も、在スイス日本国大使夫妻とともに鑑賞した。
●父であるカール・オットー・ヨハネス・ヘッセは、英語で書かれた内村鑑三の著書『代表的日本人』(英名:Representative men of Japan)を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。また、このドイツ語訳は、D.グンデルト社という出版社から刊行されたが、この出版社の代表者であったグンデルトは、ヨハネスの義兄弟にあたる。その息子であるW.グンデルトは、内村を慕って1906年に来日し、後にドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となった。[4]
●7歳の頃、ヘッセは、父の伝手で、新島襄に会っている。」


155p 串田孫一氏の『博物誌』
串田孫一(くしだ・まごいち 1915-2005)、日本の詩人・哲学者・随筆家。
『博物誌』

157p「高山の蝶」
164p 田淵行男
田淵行男(たぶち・ゆきお 1905-1989)は、山岳写真家・高山蝶研究家。

164p 『高山蝶の生態』
既出ではあるが、「『高山蝶の生態』の正確な書名は『高山蝶 生態写真』らしい(朋文堂 1959)」。

166p「水に棲む虫」
168p この世に存在するありとあらゆる動植物をナマのまま食べる熊谷政治という御仁
詳細不明。調査継続中。

168p プリニウス
「プリニウス【Plinius】(Gaius Plinius Secundus)大プリニウス。ローマの将軍・官吏。騎兵隊長・属州総督・海軍提督を歴任。軍事・歴史・修辞学・自然学を研究。ヴェスヴィオ火山の爆発の際、調査を試み有毒ガスのため窒息死。現存著作「博物誌」37巻。(23~79)
広辞苑第六版より引用」
大槻真一郞編集による『プリニウス博物誌 植物篇』『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』八坂書房、1994年
小プリニウス『プリニウス書簡集 ローマ帝国一貴紳の生活と信条』 ヴェスヴィオ火山噴火と大プリニウスの死の記述がある。国原吉之助訳注、講談社学術文庫

168p リチャード・ティラー
詳細不明。調査継続中。

169p フランシス・ポイジイ
詳細不明。調査継続中。

175p「秋なく虫」
175p 古今著聞集
「ここんちょもんじゅう【古今著聞集】‥ジフ 鎌倉時代の説話集。20巻30編。橘成季撰。1254年(建長6)成る。今昔物語集・宇治拾遺物語・江談抄・十訓抄などの説話をも採り入れ、日本の説話を題材別に分類収録。
広辞苑第六版より引用」

175p 蔵人弁時範
詳細不明。調査継続中。

177p ニキータ・セルゲイビッチ・フルシチョフ
「フルシチョフ【Nikita Sergeevich Khrushchev】 ソ連の政治家。炭鉱労働者の出身。1953年スターリン没後共産党中央委員会第一書記、スターリン批判を行い、58年首相を兼ね、平和共存政策を推進したが、中ソ対立を招き、農業改革に失敗、64年失脚。(1894~1971)
広辞苑第六版より引用」

177p ケネディ米大統領
「ケネディ【John Fitzgerald Kennedy】 アメリカ合衆国第35代大統領(1961~1963)。民主党選出。「穏健な進歩派」としてニュー‐フロンティアを唱え、米ソ和解のための外交を推進。テキサス州ダラスで遊説中暗殺。当時の司法長官で弟のロバート(1925~1968)も、68年大統領選出馬準備中に暗殺。(1917~1963)
広辞苑第六版より引用」

180p 『栗氏虫譜』
著者は栗本丹州(くりもと・たんしゅう 1756-1834)で、江戸時代後期の医師・本草学者。栗本瑞見とも。

180p 古川晴男既出(111p)。

181p 野沢登クリストファ・N・野澤(1924-2013)『web青い弓 青弓社の連載読み物サイト』「第45回 クリストファ・N・野澤先生をしのぶ」https://yomimono.seikyusha.co.jp/hirabayashinaoya/hirabayashinaoya45.html によれば

「(前略)野澤先生の略歴は以下のとおりである。1924年4月24日、東京生まれ。小学校時代はロンドンで過ごし、このときにハミルトン・ハーティら多くの演奏家を聴く。暁星を経て名古屋帝国大学に入学、遺伝学を専攻。卒業後は上智大学、清泉女子大学などで生物を講義。コオロギの研究では著作もあり、北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』(〔新潮文庫〕、新潮社、1966年、181ページ。当時の筆名は野澤登)でも触れられている。また、昆虫の鳴き声を録音したレコードの監修もおこなう。 父親のコレクションを戦火で失うが、戦後から日本人演奏家のものを中心に収集を始める。ラジオ番組『音楽の森』(FM東京、1976―90年)では故・立川澄人らとのトークで人気を博す。1996年から弦楽器専門誌「ストリング」(レッスンの友社)では邦人によるクラシック演奏史の研究「幻の名盤伝説」を70回あまり連載。最近では、ロームミュージックファンデーションのSP復刻シリーズ、諏訪根自子の追悼盤(日本コロムビア)など、野澤先生監修のCDは多数発売されている。(後略)」

185p「まんぼう、沖縄をゆく」
185p ウォーレス
「ウォーレス【Alfred Russel Wallace】イギリスの博物学者。ダーウィンと同時に進化論に関する論文を発表。「動物の地理的分布」「島嶼の生物」「マレー諸島」など、動物地理学に関する著書が多い。(1823~1913)
広辞苑第六版より引用」

193p 海賊王ドレイク
「ドレーク【Francis Drake】イギリスの航海者・海将。私掠船船長としてスペイン植民地で掠奪。1577~80年マゼラン海峡・喜望峰を経てイギリス人最初の世界周航に成功。88年のスペイン無敵艦隊来襲の際は副提督として功をたてる。(1543?~1596)
広辞苑第六版より引用」

199p「蜂の生活」
199p ウェルギリウス
「ウェルギリウス【Publius Vergilius Maro】(ヴェルギリウスとも)ローマの詩人。アウグストゥス帝とマエケナスの庇護を受けた。叙事詩「アエネーイス」のほか、「牧歌集」「農耕詩」の作がある。ヴィルジル。ヴァージル。(前70~前19)
広辞苑第六版より引用」

199p アリストテレス
「アリストテレス【Aristotels】古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子であり、またその批判者。プラトンは事物の本質をイデアと名づけ、超越的なものとしたが、アリストテレスはそれを形相(エイドス)と名づけ、存在者に内在するものとした。形相と質料は存在者を構成する不可分の2原理として、前者が現実態、後者が可能態とも呼ばれる。アテネにリュケイオンという学校を開き(その学徒はペリパトス(逍遥)学派と呼ばれる)、その研究は論理・自然・社会・芸術のあらゆる方面に及んだ。「形而上学」「自然学」をはじめ、論理学・倫理学・政治学・詩学・博物学などに関する多数の著作がある。(前384~前322)
広辞苑第六版より引用」

199p コルメル
詳細不明。調査継続中。

200p ノーマン・ガリー
詳細不明。調査継続中。

200p ミシュレ
31pで既出。

200p メーテルリンク
「メーテルリンク【Maurice Maeterlinck】ベルギーのフランス語圏の詩人・劇作家。神秘的象徴劇により、近代劇に一新生面を開いた。詩集「温室」、戯曲「ペレアスとメリザンド」「青い鳥」など。ノーベル賞。メーテルランク。(1862~1949)
広辞苑第六版より引用」

200p ランドストロス
レビュー部200pで既出。 

200p ロアルト・ダール
ロアルド・ダール(Roald Dahl 1916-1990)は、イギリスの小説家・脚本家

203p 岩田久仁雄『自然観察者の手記』
岩田久二雄(いわた・くにお 1906-1994)は、昆虫学者・生態学者。
『自然観察者の手記』

208p「どのようにして虫を防ぐか」
208p ハドソン
155pで既出。
『ラ・プラタの博物学者』

212p ロバート・ハインライン
ロバート・アンスン・ハインライン(Robert Anson Heinlein 1907-1988)はアメリカのSF作家

212p カレル・チャペック
「チャペック【Karel apek】チェコの劇作家・小説家・ジャーナリスト。人間が自らの技術開発の結果として滅亡する可能性を警告。代表作は「ロボット」という新語を生んだ戯曲「R.U.R.」(邦題「ロボット」)やSF的風刺小説「山椒魚戦争」。(1890~1938)
広辞苑第六版より引用」

216p ミュラー
「ミュラー【Paul Mller】スイスの化学者。DDTを合成し、その殺虫性を発見。ノーベル賞。(1899~1965)
広辞苑第六版より引用」

216p ツァイドラー
オトマール・ツァイドラー Othmar Zeidler(1850-1911)は、オーストリアの化学者。DDTを初めて合成。

216p ファラデー
「ファラデー【Michael Faraday】イギリスの化学者・物理学者。塩素の液化、ベンゼンの発見、電磁誘導の法則、電気分解のファラデーの法則、ファラデー効果および反磁性物質などを発見。電磁気現象を媒質による近接作用として、場の概念を導入、マクスウェルの電磁論の先駆をなす。主著「電気学の実験的研究」。(1791~1867)
広辞苑第六版より引用」

216p リンデン
Teunis van der Linden (1884–1965)か。
本文中には「一九一二年、ドイツのリンデンはBHCにアルファとベータとガンマの三つの種類があることに気がついた。」とあるが、オランダ人であるらしい。

216p スレ―ドとレスター
スレ―ド Roland Edgar Slade(?―1968)。
レスターは、詳細不明。調査継続中。

216p シュラーダー
ゲルハルト・シュラーダー(Gerhard Schrader, 1903-1990)は、ドイツの有機化学者

218p「あらずもがなのしめくくり」
219p リンネ
68pに既出

225p アーノルド・トインビー
「トインビー【Arnold Joseph Toynbee】イギリスの歴史家。独自の史観で世界諸文明の興亡の一般法則を体系づけた。主著「歴史の研究」。(1889~1975)
広辞苑第六版より引用」

226p チャペック兄弟
ヨゼフ・チャペック(Josef Čapek, 1887-1945)は、チェコの画家、著作家
「カレル・チャペック【Karel Capek】チェコの劇作家・小説家・ジャーナリスト。人間が自らの技術開発の結果として滅亡する可能性を警告。代表作は「ロボット」という新語を生んだ戯曲「R.U.R.」(邦題「ロボット」)やSF的風刺小説「山椒魚戦争」。(1890~1938)
広辞苑第六版より引用」
『虫の生活』

226p エーリッヒ・ワズマン
詳細不明。調査継続中。

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