読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内

羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド
003/120 2016年11月

「二人はもう一言も口をきかなかった。言葉はそこでは力を持たなかった。動くことをやめてしまった踊り手たちのように、彼らはただひっそりと抱き合い、時間の流れに身を委ねた。それは過去と現在と、そしておそらくは未来がいくらか混じり合った時間だった。二人の身体の間には隙間がなく、彼女の温かい息は規則正しい間隔をとって彼の首筋にかかっていた。つくるは目を閉じ、音楽の響きに身を任せ、エリの心臓が刻む音に耳を澄ませた。その音は突堤に繋がれた小型ボートがかたかたと鳴る音に重なっていた。」 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』より

まずはじめに

 村上春樹(1949― )が現代日本を代表する小説家であるか否かに関わらず、村上春樹(作品)が嫌いな人はいつも一定数存在する。ベストセラー小説を敬遠する人、なにかと話題なので試しに読んでみたが性に合わなかったという人もいるだろう。あくまで他人様の好き嫌いだし、またどんな文豪のどんな名作でも読まなければ死ぬ、というようなものでもないわけで、そんな「アンチ・嫌・反」村上春樹(作品)の人に、私があえて異議申し立てする必要はない。その気もない。
 とはいえ、優れた作家と同時代に生きながら、その作品を未読で終わるのは、すべての食べず嫌い同様、ちょっと勿体ないだろうと他人事ながら思う。「読まず嫌い(読まない、読みたくない、もう読みたくない)」読者にも、一口ならぬ一冊を試してもらえたらよいのだが、という気持ちで、この小文を書き始めた。余計なお世話であることは、重々承知の上で。
 私は、1979年から現在まで、公刊された長編小説13作品のすべてを読んでいる。しかも複数回以上。作家の活動期が、自分の生涯の20歳過ぎから今現在までとほぼ重なってもいる。今回この小文のために、その13作全作品を短期間に改めて読み返し、またもや至福の時を過ごした。若い頃に読んだきりの作品に、新しい発見があったりもした。つまりは、物心ついてからこのかた、村上作品の読者であり続けているということだ。
 さしたる興味もない人がそれを聞いたら、ごく自然に「熱心な村上春樹ファンなんだな」と思うだろう。が、私はより熱烈な読者をたくさん知っている。私は、彼らに比べたら、「普通」の村上作品ファンだ。程度の差はあれ、読まずにはいられない読み手が多数存在して、その結果ベストセラー作家村上春樹がそこにいるわけだ。自分では熱狂的な読者とは思わないが、気がつけば現実として長いこと読者をやっている人、としてこの紹介文を書き綴っておこう。
 作家の年齢が70歳に近くなった今も、長編小説に限らず、その作品は世界中で途切れることなく若い読者を獲得している。そんな新しい読者には、私のような古くからの読者の言葉も、多少は面白く感じられるかもしれない。そして、私の同世代(とその周辺の年代)の読まず嫌い読者には、もうすぐ待ち受ける長い老後の、新たな楽しみの一つでも提示できればと思う。

村上春樹長編小説クロニクル

 さて、「読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内」というこの小文の題名は、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋 1997)をもじったものだ。熱心な読者には言わずもがなだが。なぜ「短編」ではなく「長編」なのか。それは、村上春樹にとっての創作上のメインストリームは、おそらくは作家自身にとっても、長編小説にあるのだろうと考えた上でのことだ。
 読まず嫌い読者に、とりあえずその長編小説作品の一冊を手に取っていただかなければ、話は始まらない。どんな作品があるのか、刊行年代順に、題名と発行年をあげて並べてみる。

『風の歌を聴け』1979
『1973年のピンボール』1980
『羊をめぐる冒険』1982
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1985
『ノルウェイの森』1987
『ダンス・ダンス・ダンス』1988
『国境の南、太陽の西』1992
『ねじまき鳥クロニクル』1994・1995
『スプートニクの恋人』1999
『海辺のカフカ』2002
『アフターダーク』2004
『1Q84』2009・2010
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2013

 しかし、これだけでは単なる文字・数字の羅列で、内容の見当がつかない。結局、どの一冊から読めばいいのか?処女作から始めるべきという意見もあるだろうし、やはりベストセラーから入るべきという意見もあろう。
 一冊目として読んではいけない作品なら挙げられる。それは『ダンス・ダンス・ダンス』だ。その作品自体に大きな瑕疵があるわけではもちろんない。が、この作品は緩い連作四作品中の最終作にあたるもので、前3作を読了してから読むのが面白いし、当然理解も深まる。四連作の映画シリーズを、わざわざ四作目から見始める人はいない。
 その連作四作品というのは『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の初期三部作とそのスピンオフ作『ダンス・ダンス・ダンス』。初期三部作は、主人公「僕」とその相方「鼠」(というニックネームの人間)の物語で、鼠三部作とも呼ばれる。
 それ以降に発表された長編は、ざっくりと「分量」で分けて考えるのが、どんな作品か知るための近道かもしれない。
 文庫化にあたって分巻される分量の、文字通りの長編は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』の五作。
 中編と呼んでもいい分量の、短めの長編は『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『アフターダーク』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の四作。

 上の分類が主に、作品の形状(連作・長編・中編)によるものだとすれば、内容の違いや執筆スタイルの変化は、発表年順に三作毎に分けてみると把握しやすい。
鼠三部作の時代
 1970年代後半から1980年代初めに刊行された『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』。作家自身も意図せず連作になったものらしい。新人賞を受賞したものの、職業作家としての地歩はまだ確立されていない時期。「親密な人間をはからずも失った主人公が、その現実と向き合い、「生き残り」としてどう生きていくか」が、すべての村上作品に共通している主題の一つではないだろうか。初期作品では、その主題が特に切実に表現されているように思う。
書き下ろし長編制作開始の時代
 1980年代刊行の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』。長編作家としての資質を開花させ、その結果ベストセラー作家となっていった時期。
 前二作品は村上作品中の代表作として、今後も長く読者を獲得していくに違いない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はSF冒険活劇小説と抒情幻想小説の優れたミクスチャーであり、対照的に『ノルウェイの森』は、作家自身が語るように、リアリズム小説である。短い期間に、まったく毛色の違う書き下ろし作品をそれぞれに書き分け、どちらも読者を獲得し、どちらも作家固有の作品であるというところに凄みを感じる。
中編長編交互執筆開始の時代
 1990年代刊行の『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』。プロ作家としての制作態勢・態度の確立期。この時期から現在にいたるまで、作家は中編と長編を交互に発表していくことになる。
 長編作品を書き下ろしで執筆することは、やはり大変な労力・体力を必要とするものらしい。その発表後には決まって、リハビリテーション的に、海外文学の翻訳をこなし、読者との対話を楽しみ、短編を執筆し、その延長線上で中編を書く、などしていくようだ。長編・中編の交互執筆発表という「リズム」が確立された印象を受ける。
総合小説模索の時代
 2000年代刊行『海辺のカフカ』『アフターダーク』『1Q84』。この頃には、村上春樹という作家は、すでに日本語を母語とし日本語で作品を書く作家でありながら、世界的なベストセラー作家として内外で認知されている。人称の変化が試みられ、作品の「柄」の大きくなる。なにせ世界的に、万年ノーベル文学賞の有力候補なのだ。
 主人公も、もうどこか隣にいそうだけどいない「僕」ではなく、「神」である作家の造形が綿密に施され、その手中にあって技巧的に動かされる。「親密な人間をはからずも失った主人公が、その現実と向き合い「生き残り」としてどう生きていくか」という主題は相変わらず根底にあるが、初期作品のころの切実さは感じられなくなっている、というのが、私の正直な感想である。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。2010年代に発表されたのは2016年現在、この作品のみ。この作品については、単独で、後述する。

 読まず嫌い読者の方には、「連作四作」「長編五作」「中編四作」それぞれの括りの最初の作品、『風の歌を聴け』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『国境の南、太陽の西』のどれか一冊から読み始めるのが良いのではないか、というのが私の当面の結論になる。
 各括りの最初の作品は、作家の内面から湧き出る必然性によって執筆される。やがて、その作品の存在に作家自身が突き動かされ導かれるように、ときに前作に足りないものを補完するかのように、同じ括りの次の作品が書かれていく。『ダンス・ダンス・ダンス』を「連作四作」括りの第一作として読まない方がいいように、各括りの第二作以降を、第一作未読の状態で読まない方がよい。
 各括りの第一作をまずは試してみて、それが読了できて、さらにそれが幸福な体験であったなら、同じ括りの第二作に進むもよし、違う括りの第一作にトライしてみるもよし、ではないか。

村上春樹のどこか「世界基準」なのか?

 私は長年の村上作品ファンであるが、昨今のノーベル文学賞騒動には興味がない。ただ、長期にわたり世界的に多くの読者を獲得し、ノーベル文学賞候補者に挙げられ続ける文学者が、日本語圏にも現れたことに驚いている。同時に、日本語で書く職業作家は多数いるのに、なぜ彼らは世界市場では通用しないのだろうか、という疑問がわく。
 村上春樹の登場が、日本文学史上の事件であることは間違いない。過去に、日本語の文学作品が文化的ローカリティの一例として、多分に研究対象として、他言語に翻訳され紹介されたことは当然あっただろう。それに対して村上作品は、一般読者向けの現役の文学作品として翻訳され、広く世界中で読まれている。村上春樹は、新しい作品が間違いなく多言語に翻訳されることを確約された、日本文学史上初の作家である。
 以下、村上春樹のどこが特別なのか、考えてみたい。

 まず文章が圧倒的にわかりやすく読みやすい。
 それは達意の文章であり、同時に有効な文章である。デコラティブな美文ではまったくないし、行間を埋めるだけの空文は存在を許されていない。文章としての質量と働きがはっきりとしている、とでも言おうか。文章それ自体が一定価値の意味内容を持つ「信号=シグナル」であると同時に、物語を運んでいくための「媒体=キャリア」になっている、という印象である。
 作品全体を一枚の織物として見たとき、上の明解で明確な文章を縦糸とすれば、横糸になるのは文章が持つ音楽的リズム、優れた比喩表現、そして巧みなストーリーテリングだろう。緩急自在のリズムが心地よく、非凡な比喩表現に接しては読むことの喜びを感じさせ、その上で物語られる世界は精彩に富み、われわれは新しい展望を与えられる。
 そういう性質を持つ文章であるからこそ、どんな言語にであっても、一定以上の能力を持った翻訳者にかかれば、内容や魅力を大きく損なうことなく、その言語に置き換えることが可能になる。
 それに対して、例えば谷崎潤一郎の『細雪』は、会話文の多くが特定時代の特定地域の関西弁によって成立しているわけで、そのニュアンスを他の言語で(同じ日本語という括りの「標準語」であっても)置き換えることは、ほとんど不可能に近い。横糸の素材が特殊すぎて入手不能、コピーの作りようがない、とでも言おうか。もちろんそのことで『細雪』の作品的価値が減ずるものではまったくないのだが。

 作家の文化的な造詣の深さが、世界中の読む者を楽しませる。
 村上作品には、作家が属する戦後世代の若者が受容した大衆文化のアイテムが頻出する。全世界的な流行をみた音楽や文学や映画であることが多い。食べものや料理・調理に関する叙述も洗練されている。多くの場合、登場人物はポップカルチャーに通暁しつつ、ハイブラウな趣味も持ち合わせている。当然、作家自身の趣味嗜好や知識からその都度取り出される項目群に違いない。
 ポップカルチャーを積極的に受容するタイプの読者には、同じ文化の共有者として、作品自体や作中人物に感情移入しやすいところがあるだろう。反面、純文学プロパーの読者には、ポップカルチャーアイテムの、思弁的とは思えない、過剰引用と映るかもしれない。その手の読者は、各アイテムに、必要以上に文中での意味(付け)を探し求め、結果煩雑さを感じることだろう(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。

 制作姿勢・態度が特徴的である。
 その制作姿勢は職人的であって、過剰な芸術家意識は感じられない。芸術家として自己陶酔的に自殺する気質の人間ではないし、文学者として自己陶酔的に政治演説をすることもないだろう(日本人ノーベル文学賞受賞者のことをもちろん念頭に置いている。逆に言えば、村上春樹がノーベル文学賞を受賞できないのは、職人(気質)を称揚する賞でない以上、自然なことなのかもしれない)。
 ときどき作中に登場する、自分の能力をごくごく平凡で人並と考えているが、実はその資質が超人的なものだったという主人公キャラクターに重なる部分がある。自分が大作家であるとの自意識に押しつぶされる半グレ小説家の死屍累々を前に、文学者としてのナルシスティックな自意識とはほど遠いところにある村上が世界的大作家として生き残っているのは、半グレの人達にとっては残酷な現実だろう(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。
 『源氏物語』が産業化された文学作品となっているように、村上春樹は産業化された作家である。作家本人も、表現者であると同時に適正な商品を世に送り出そうとする商売人である、という捉え方もできるだろう。自作をより広く流通させることを考えるタフな戦略家であるということ。作品には非現実的な場面や表現がたびたび登場するが、作家本人は極めて健康な現実主義者である(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。

一番近い「作家」は山下達郎

 作品を作っていく上での姿勢・資質について、日本語を母語とする日本人の中で、もっとも村上春樹に近い印象を受ける「作家」は山下達郎である。山下達郎が「音楽家」であるからという理由で、「小説家」村上春樹との比較が許されないなら勿体ない話だろうと思う。
 村上春樹自身が、山下達郎に言及している文章もある。

「山下達郎さんの「ペット・サウンズ」解説に感動  話はまたまた戻って「ペット・サウンズ」ですが、昨年「ペット・サウンズ」ボックスが発売されたときに、NHK・FMの「ポップスグラフィティ」に山下達郎さんが出て、「ペット・サウンズ」について1時間半しゃべりまくったのですが、これは素晴らしい内容だった。僕は正直言って感動しました。テープにとってまわりの人に聴かせたら、みんな感動していました。途中でとつぜん楽器を持ち出して「ゴッド・オンリー・ノウズ」を歌いだしたりしてね。よかったですよ。聴きました? 聴いてない。それは気の毒だ(ぜんぜん気の毒がってない)。」 『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』村上春樹(朝日新聞社 2001)より

 山下達郎(1953‐)は1973年からプロとしての活動を開始し、作品デビューから2015年で40周年を迎えた。村上春樹よい、学年にすれば四学年、年下だが、キャリアはより長い。
 思春期に影響を受けた文化と時代背景は、重なる部分が相当にあるようだ。上のビーチボーイズにまつわる話からもそれは推察できる。1960年代末の学生運動期の東京に、村上は関西から上京したての大学生として、山下は東京生まれの高校生として、思春期を過ごしてもいる。
 権威(付け)には一定の疑義を抱き、自作がポップカルチャーの範疇にあることを否定しない。実作者として、大家としての権威よりも、職人としての矜持を求める。プロ意識は驚くほど高い。作品の完成度を追及し、自らの職能を知り、妥協しない。頑固者。山下は、コンディション不良でライブ中止することも多いが、その度ベストコンディションでのライブを空振りに終わった観客に提供してやまない。
 一個人として、政治的ななんらかの方針や意見や信条を持ち、社会の動きに影響されることも当然あろうが、政治性社会性が作品そのものよりも前面に出ることはない(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。対照的なのは大江健三郎氏と坂本龍一氏だろう。村上春樹や山下達郎が、デモ活動に参加し、演壇に立ったり一曲披露するところを想像できるだろうか?
 創作上でのメインストリームは、山下達郎なら自身のオリジナルアルバムを作ることだろうし、村上春樹のそれは長編小説を書くことだろう。その合間にそれぞれの多彩な活動が展開される。たとえば、山下が、夫人の竹内まりや氏のプロデュースをしたり、受注を受けて楽曲を作ったりするのは、村上の短編執筆に通じるのではないか。となると、ア・カペラ・アルバムは、翻訳諸作に対応か。1992年10月から続くラジオのレギュラー番組「サンデー・ソング・ブック」は、村上朝日堂などの読者との対話篇を思い起こさせる。

 人生に肯定的であるのも、共通点かもしれない。
 山下達郎が、夫人のアルバムについて書いて、「彼女の歌には『人が生きて行くことへの強い肯定』というテーマが常にこっそりと内包されている」というとき、それは山下達郎本人の歌の根底にあるものでもあろうし、村上春樹の長編の根底にあるものでもあろう。
 ポップソングや物語の中に、作家の主義主張は表立っては現れて来ない。読者がどんな主義主張を抱こうとそれは読者の勝手で、作家は関与しない(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。対して、政治的であることを自認する人間は、自らを肯定するために、歴史や人生のネガティブな面を強調する嫌いがあやりしないか。それが長い目で見て、作品を損なうことはあっても良いものにしていくことはないのではないか。

 ふたたび、引用を。
 山下達郎のアルバムを聴く、村上春樹。

「ついくちずさむ山下達郎さんの「ドーナツ・ソング」  今月のドーナツ。
 山下達郎さんの新譜「COZY」に収められた「ドーナツ・ソング」が、当然のことながら、当ホームページの話題になっております。僕も銀座山野楽器の割引ポイントをつかってこのCDを買ってきました(おかげさまで985円で買えました。特製うちわをくれるって言ったけど、もらわなかった)。なかなか楽しいアルバムでした。僕は知らなかったけれど、メールの情報によりますと、「ドーナツ・ソング」ってかつてミスター・ドーナツのCMソングに使われていたのですね。リフレインの部分が心地よく耳に残って、ついくちずさみたくなります。ドーナツ関連のものならなんだって贔屓しちゃうという傾向はたしかにありますが。」『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』村上春樹(朝日新聞社 2001)より

同時代を生きる第一世代ファンの人たち

 村上春樹や山下達郎がデビューしたころに、十代後半の多感な時期を過ごし、彼らの作品に接した人間の一部が、最初の読者やリスナーになった。「ファン第一世代」と言っていいだろう。作家が旺盛な創作活動を続ける限り、この年代のファンもまたファンであることを止めない。
 1958年生の私はまさしく、その第一世代のファンだ。しかも双方の。身贔屓かもしれないが、後発のファンに比べれば、作家の同時代人としてそのデビュー期の空気を体感できたこと、その結果、作品に反映される時代背景について理解しやすいこと、ラッキーだと思う。
 ここで私と同世代の村上春樹ファンに登場していただこう。
 佐倉統(1960‐ )だ。2016年現在、東京大学大学院情報学環教授という肩書の佐倉氏だが、山下達郎が中心メンバーだったシュガー・ベイブの『ソングス』が出た年に15歳。村上春樹の『風の歌を聴け』刊行翌年には大学生になっておられる。
 佐倉統『進化論という考えかた』(講談社新書 2002)の「あとがき」から、進化科学者からの小説家村上春樹へのオマージュと言うべき文章を引用する。

「各章のエピグラフを村上春樹で統一したのは、ぼくがいちばん好きな作家だからだ。とくにデビュー作『風の歌を聴け』は、第二作『1973年のピンボール』とともに、最初に読んだときの衝撃が今でも忘れられない。あ、こういう小説もあるんだ! という快い驚き。村上春樹と進化論というのは、接点があまりないような気がするが、広く自然のシステムへの畏敬の念(センス・オヴ・ワンダー)という点では、村上作品の中にいろいろおもしろい研究テーマがあるように思う。誰か研究してみる人はいませんか?
 手元にある文庫の書き込みによると、『風の歌を聴け』を読んだのは、一八年前の一九八四年一一月、二四歳のときである。大学院に進学するちょっと前のころ。進化論に興味をもちつつ、いろいろな違和感も感じつつ、気負いと不安の同居……今にして思えば、ぼくの人生でひとつの転回点の時期だった。青春前期から青春後期への転回点、といってもいい。
 それから二〇年弱、本当にいろいろなことがあった。(中略)そしてこの本を、一八年間学んできたこと、研究してきたことの、ひとつの節目にしよう―――村上春樹にこと寄せたのはそういった思いをこめてのことだ。だから、引用した箇所は、一八年前にぼくが鉛筆で傍線を引いたりしていたところばかりである。まるで進歩がないようにもみえるのが恥ずかしいところでもあるが、こんなことを思うようになったというのは、ぼくの人生も、中年前期から中年後期へと転回しつつある時期だからなのかもしれない。
 そういうわけで、最後も村上春樹からの引用でしめくくろう。まえがきに引用した『風の歌を聴け』の続きだ。
 ”弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か年十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、(中略)僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。”
 そんなときが本当に来ると、うれしいのだけれど。」

◆   ◇   ◆   ◇   ◆

 今回、短い期間に長編作品13作を通読したが、90年代後半から2000年代に書かれた作品群は、読み始めるまで気が進まなかった。若い頃何度となく読み返した初期作品に比べて、その時期の作品には没入できないところがあったのだ。『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』『アフターダーク』『1Q84』は発売当初に一度読んで、以後再び読むことのなかった作品群だ。どの作品も再読してみると、一回目よりも面白かったのは事実で、それはそれで喜ばしいことではあったが。
 それに対して、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は2013年の発売直後に読んで、その直後に再読再々読、今回四度目の通読となった。
 初版本を読んだ直後、当時の『多崎つくる』評で一番納得できた(そして大笑いした)のは、やはり第一世代のファンと言っていいtwitter名「ynabe39」氏(帯広畜産大学・人間科学研究部門 教授 渡邊芳之 1962‐ )の一つのツイートだった。
 「俺的にはフィンランドではやらなかったところに村上春樹の変化を感じたけどなw」というもの。
 実は、私も同じ個所を初読したとき、ほとんど同じ感想を持ったのだ。それは、主人公多崎つくると主要登場人物の一人「クロ」こと黒埜エリとの、フィンランドでの再会の場面。私も「ああ、またここで三発ぐらいやるいつものパターンか」と事前に予測しながら読み進めていたが、その予断が見事に外れて、予想がはずれたこと自体に感動したのだった。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、「ワンダーランド」サイドの主人公が、図書館のリファレンス係の女の子といっときに三発やる。「我々は三回性交したあとでシャワーを浴び、ソファーの上で一緒に毛布にくるまってビング・クロスビーのレコードを聴いた。」。『ノルウェイの森』では、終盤、主人公がレイコさんといっときに四発やる。「結局その夜我々は四回交った。」。
 それが村上作品の、『多崎つくる』以前の、性的流儀の一つであったわけだ。性行為への無邪気とも思える信頼とでも言おうか。村上作品の性表現の頻出は、性的なものをタブー視する人々には許しがたいらしい(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。性表現への嫌悪だけを読後の感想として抱いて終わる読者もいるようだ(木を見て森を見ないというか、チンチンを見て人間を見ないというか)。
 蛇足。何十回となく読み返した『ノルウェイの森』だが、今回、くだんの行為が四回に及んでいることに改めて気づいて驚いた。私のどこかの脳内ジャンクションが溶けかけて、『世界の終り』世界の三発が、『ノルウェイの森』に流れ込んだらしい(というようなことを書くと、その手の人達には、この小文も唾棄すべき「性的に緩い」文章に認定されるだろうか)。
 さて、twilogによればynabe39氏は、2013年5月2日に『多崎つくる』を読了された。その日、村上作品に関する氏のツイート群を、リアルタイムで読んで(私は氏をフォローしていた)感心させられること度々だった。以下、twilogから。

「村上春樹を読み終わった。良いものを読んだと感じる。」
「冒頭の2つのパラグラフの「日本語」は素晴らしいなあ。」
「村上春樹、赤旗日曜版の書評はかなり好意的だがやはり「不必要な性描写に辟易させられる」みたいなことが書いてある。この人たちは真面目だからなあ。」
「俺的にはフィンランドではやらなかったところに村上春樹の変化を感じたけどなw。」
「村上春樹を読んでいて思ったけど,自分がもっとも盛んに小説を読んだ中高生時代には小説の登場人物はほとんどの場合その時の自分より年上で,自分は小説の中に自分の未来を読んでいた。いま自分は小説の中に自分の過去を読んでいる。」
「優れた小説が何年かごとに繰り返し読むことを求めるのは小説に書かれた「時代」が自分の歴史の中に占める位置がそのつど変わるからだと思う。「こころ」や庄司薫の作品は自分にとってそういう意味を持っている。」
「村上春樹の主題はいつも身体性と結びつくから性描写は必要だと思う。」

 村上作品について書かれた文章のすべてを読んだわけではもちろんないが、目にした限りの「批評」の中で、ynabe39氏のこのツイート群はもっとも的確でかつ切実なものだと、私は思う。
 多崎つくるとクロの「駆けつけ一発」ではないただの「ハグ」は、記号的に描かれる三回・四回のセックスよりも、肉感的で感情豊かであり、読む者に「しなければならない」切実さを感じさせるものだった。その切実さは、『風の歌を聴け』を20歳前後の読者が読んだときに感じる切実さとごく近いものなのではないか。昔も今も。
 『風の歌を聴け』を初版発行当時に読んだわれわれは、還暦近くなるまで長く村上春樹(作品)ファンを続けることで、21世紀の『風の歌を聴け』として『多崎つくる』を読む機会に恵まれたのではなかろうか。

おわりに

 「小説案内」と題されたこの小文は、果してその役目を果たしただろうか?
 作家とその作品群がこれほど長命になってくると、どの一冊がお薦めとも言えなくなる。全長編作品を含む『村上春樹作品クロニクル』(仮称)という総合作品を想定して、各作品を刊行順に読んで行くのが一番面白いし理解も深まるというのが、短期間に長編13作を通読しての素直な感想である。凡庸極まりない結論になってしまうが。なんのことはない「全集」ではないか。やれやれ。
 とはいえ、冒頭に書いたように、どんな文豪のどんな有名文学作品であっても、読まなければ死んでしまうという話でもない。無理することはない。それでも、なにかの事情で、小説を読まなければ死んでしまうような状況(どんなだよw)にでも陥ったとき、村上春樹作品という選択肢があり、それは決して悪い選択ではないを保証する、と古い読者は告げるばかりである。ピース。
 さて、村上春樹の次なる長編小説は、どんなものになるのだろうか?今までの執筆リズムから考えると、2010年代のうちに、長めの長編新作が出てもおかしくない。
 先に述べたように1979年に20歳前後だった読者のすべては、今や還暦に近い。そんなファン第一世代の多くは、私がそうであるように、村上作品に心動かされときに励まされながら、その人なりの年齢を重ねてきたと言えるだろう。山下達郎のファン第一世代の方々も、その心情を理解してくださるのではないか。新作を期待しよう。まずは健康第一だ。なにしろ、死んだら、読めない。
 私は、村上春樹作品の存在する世界を、肯定する。その世界上で、われわれは、親密な人間をはからずも失い続けているが、その現実と向き合い、「生き残り」としてどうにか生きて行かなければならない。
 この文章は、「やれやれ」ではなく、「ピース」で終わるべきだろう。
 ピース。
                         (文中敬称略)



読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内 ブックガイド
凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]
[随時、追加・追記・修整します]

村上春樹 長編
『風の歌を聴け』
1979
『1973年のピンボール』
1980
『羊をめぐる冒険』
1982
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
1985
『ノルウェイの森』
1987
『ダンス・ダンス・ダンス』
1988
『国境の南、太陽の西』
1992
『ねじまき鳥クロニクル』
1994・1995
『スプートニクの恋人』
1999
『海辺のカフカ』
2002
『アフターダーク』
2004
『1Q84』
2009・2010
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
2013

村上春樹 文中に登場する本
『若い読者のための短編小説案内』
(文藝春秋 1997)
『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』
(朝日新聞社 2001)

村上春樹以外の方々
谷崎潤一郎『細雪』

山下達郎『JOY』
ザ・ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』

村上春樹訳『ペット・サウンズ』

山下達郎『COZY』

竹内まりや『Expressions』

シュガー・ベイブ『ソングス』

佐倉統『進化論という考えかた』(講談社現代新書 2002)

「ynabe39」氏=渡邊芳之『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』
夏目漱石『こころ』

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

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