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開催日割の変遷⑤ 2000~2001年

三日連続で10000ワード近い記事を書いていると私生活に大きな影響がありますね。まぁ単にやりたい事ができないだけなんですが、多趣味な私にとっては結構大きいのです。特に最近はNetflixにハマっていて、古い映画や海外ドラマを見まくっているので、まとまった時間が取れないと金の無駄だし、ストーリーも忘れるし、良い事ないのですよ歳だから。

そのため、今日から4年分ではなく2年分でまとめていきます。これでまとめられなかったら私が悪いと思いますが、さすがに半分なら何とかなるでしょう。それではコツコツと頑張っていきましょう。

2000~2001年の開催日割

という事で今回は2000~01年までですが、この時代はいわゆるオペラオーの時代ですね。日本競馬史に残る馬、そして時代だったと思います。

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そろそろ覚えて頂けたと思いますが、開催日割は左から開催回数開催競馬場開催日数となります。1東京6なら、第1回東京が6日間行われた事を示します。赤字部分は前年から変更された部分で、例年通りに戻す場合はそのまま黒字としています。表の下記の数字は競馬場別の年間開催日数ですね。JRAが発表している開催日割と同じ様な形にしときました。こちらの赤字は開催日数が前年比で減少青字は増加している事を示しています。そのため、表で赤字があっても、年間開催日数が変わらなければ黒字となっている点に留意して下さい。

2000年

2000年は前年の皐月賞馬テイエムオペラオーの快進撃しか記憶に残っていないですね。前年のグラス、スペのバトルに割って入ったオペラオーですが、年間の古馬中長距離路線のGⅠ5つを全て掻っ攫い、さらにGⅡの前哨戦全てに勝利して、年間8戦8勝、内GⅠ5勝という史上初の快挙を達成しました。
他にも史上初めて中央四場のGIを完全制覇、レーポスのレートは国内最高の126ポンドJRA重賞最多連勝記録を更新史上初の同一年の秋GⅠ3連勝を達成などの多くの記録を作った年でした。

社台グループ以外の生産牧場から生まれた、日本にはあまりそぐわない種牡馬の産駒が、それまでGⅠを勝ったことが無い個人馬主に買われて、若手騎手を背に連戦連勝した記録であり、また、ライバルとなったメイショウドトウも宝塚記念から秋のGⅠ3連戦の全てでオペラオーの2着という、いかにも日本人が好きそうな内容ですよね。

そういえばこの年からマル外に天皇賞が開放されたのですよ。もし開放されていなかったら、マル外のメイショウドトウは天皇賞・秋→春(ともに2着)に参戦できなかったわけで、その場合、ここまでの人気が取れたかは疑問が残ります。そういう意味ではドトウは持っている馬ですね。

それからクラシック路線では準三冠馬が誕生しました。なんだ準三冠って?と思う方がいらっしゃると思いますが、皐月賞、菊花賞を勝った二冠馬のエアシャカールは、ダービーではアグネスフライトにブッコ抜かれ、かなり僅差(約7cm)のハナ差2着だったのです。その後一歩さから準三冠馬と呼ばれるようになったんですね。同馬はダービー後にキングジョージに参戦する異例のローテでありながらこれだけの成績を出している点は大いに評価できますが、菊花賞の後は10連敗で引退していますから、三冠馬じゃなくて良かったとも言えるのではないでしょうか。

あとは衰える事を知らないサンデー旋風により、チアズグレイスが桜花賞を勝利し、サンデー産駒はクラシックを完全制覇(ジェニュイン、タヤスツヨシ、ダンスインザダーク、ダンスパートナー)する事になりました。また、前年に引き続きアグネスワールドが海外GⅠを制覇(英ジュライC)しましたし、地方ではドージマファイターが日本記録となる29連勝を達成しました。

それ以外の出来事と言えば、山元トレセンでエガオヲミセテを含む22頭の現役競走馬が焼死する火災事故がありました。原因は漏電だったそうですが、先月の栗東トレセンと同じく心が締め付けられる痛ましい事故であり、二度と起こって欲しくないですね。ちなみにJRAで馬名に「ヲ」を使用した初めての馬でした。

騎手関係ではペリエがフェブラリーSに勝利し、短期免許の外国人騎手として初めて日本のGⅠを制覇しました。武さんは『世界のトップジョッキーが集結するアメリカ西海岸で自分の腕を試してみたかった』として、6月からアメリカ遠征を敢行し、大きな壁にぶち当たりました。やはり騎手と言うのは、良い馬に乗らなければ基本勝てないという事が立証されましたよね。

あと、佐藤哲三がファンに激怒したのもこの年でしたね。事の発端は皐月賞でラガーレグルスがゲート内で立ち上がって哲三を振り落とし、さらにゲート内で膠着し続けたためゲートを収納できず、あわや皐月賞が不成立となる事件を引き起こした事でしょうね。これテレビで見ていた時に、どうすんの?片せないよな?レース止めるのか?と、大勢で騒ぎながら見ていたのを覚えています。

当然、ラガーレグルスは発走調教再審査、いわゆるゲート試験を課されるのですが、それがダービー前週の土曜日に東京競馬場で行われる事になったのです。開催中の昼休みに観客の前で行う異例の対応でしたが、さすがに次走のダービーは十万を超える観客の目の前で発走するわけで、JRAとしても念には念を入れてという判断だったのでしょう。

ところが、3回合格しなければならないゲート試験の最中に、一部の観客から大声でヤジや罵声、柵を傘で叩くという妨害行為がありました。辛うじて耐えていた試験でしたが、2回目にゲート内で立ち上がってしまい、残念ながらゲート試験に落ちてしまいます。その時に観客から『ざまあみろ』という言葉が浴びせられ、それにキレた哲三が観客に詰め寄り乱闘寸前まで行ったとか行かなかったとか。止めた職員グッジョブです。というか、柵を叩いてる時点で職員は観客を止めろよ。単純に器物損壊だろ。

ちなみにその観客は他の観客からボコにされたとかされてないとか。個人的にはボコって騎乗停止まで行ったら面白かったかな。ついでにその観客は出禁にして、手打ちにすれば鉄火場らしいと思いますね。

また、止められずにボコってしまったのが、今年2月に急逝された高市圭二調教師です。シングンマイケルを管理した高市先生は、木刀事件の加害者である後藤浩輝と口論になってボコってしまい、過怠金10万円の処分を受けました。ボコって10万なの?軽くね?あと、渡辺栄先生がジャングルポケットで札幌3歳Sを勝利し、史上初めてJRA全10競馬場重賞勝利を達成しました。

他にはフサイチの冠名で知られる関口房朗氏が所有するフサイチペガサスがケンタッキーダービーに優勝しましたね。日米ダービーのオーナーとなったのは史上初です。その関口オーナーの所有馬フサイチゼノンは、弥生賞に勝利したものの皐月賞を回避する事になりました。これは管理調教師である田原成貴の独断で発表された事であり、事前に説明されていなかった関口オーナーはこれに激怒し、転厩させるという事件がありましたね。私の記憶では『どこも悪い所はないが、気配が今一つなので回避します』と言っていたような気がします。まぁ結局のところ、脚部負担であった事は間違いなかったみたいですが、ちょっと頭悪いやり方でしたね。

その他、レース関係としてスプリント競走体系の整備に伴い、高松宮記念を3月スプリンターズSを10月に移行しました。菊花賞も繰り上げられ、春のクラシック同様に牝馬GⅠの翌週に牡馬GⅠが行われるようになりました。
さらに宝塚記念も繰り上げられ、6月の最終週に固定されましたね。

開催日割は、前年の開催終了後から始まった新潟競馬場の全面改装工事に伴い、第1,2回新潟は福島第3回は中山に振り替えられ、その影響で第2回福島は東京に振り替えられました。前々年同様にバランスの良い振り替えでしたねぇ。この頃はやればできる子だったんですね。しかし今は・・・

重賞は一増一減で117R、GⅠは1R増えて21R、障害重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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全体的なレース体系の変更が行われた事もあり、2節以上の移行を伴う変更はこれだけありました。高松宮記念が3月末に、スプリンターズSが9月末に移行し、さらに11月にはジャパンCダートが新設されました。それに伴いシルクロードSや武蔵野S、富士Sなどの開催時期が変更されています。

また、クイーンSは古馬に解放されましたし、京都新聞杯は京都4歳特別の後釜として5月に移行しましたね。この年だけGⅢで施行されたのは謎ですが。
あとは春開催で細々とした変更が多く、だいぶ現在のレース体系に似てきたと思います。


2001年

2001年は大きな変化があった一年です。まず、競走馬の馬齢表記を数え年から満年齢に変更しました。それに伴い、馬齢表記のある競走名は軒並み変更され、GⅠでは朝日杯3歳Sが朝日杯フューチュリティSに、阪神3歳牝馬Sが阪神ジュベナイルフィリーズに変更しています。

次にクラシックがマル外に開放されました。それまで開放されていなかったのは内国産を保護する目的があったのかもしれませんが、血統という意味では既にサンデーという外国出身の種牡馬が旺盛を極めていますし、持込馬も内国産扱いなので、マル外だけを排除する必要性がどこまであったのか、甚だ疑問です。これらの変更によって、現在の競馬体制にかなり近くなりましたね。

さて、活躍馬も多く現れており、まずトゥザヴィクトリーがドバイWCで牝馬史上初となる2着に食い込みました。同日のドバイシーマクラシックではステイゴールドが前年のワールドチャンピオン、ファンタスティックライトを下して優勝しました。

このファンタスティックライトは前年に米国のマンノウォーS、香港Cに優勝し、同年このレース以降も愛国のタタソールズGC、プリンスオブウェールズS、愛チャンピオンS、BCターフに勝利し、キングジョージで2着になるなど同年もワールドチャンピオンに輝く超一流馬でしたから、ステイゴールドの評価は爆上げされましたね。

次にテイエムオペラオーが史上初となる天皇賞三連覇&GⅠ7勝を達成し、同年の宝塚記念では史上初の獲得賞金20億円を突破しました。また、クロフネがジャパンCダートを世界レコードで勝利しましたし、ジャングルポケットが史上初めて同年の日本ダービー馬としてジャパンCを制し、こちらも初となる日本馬の掲示板独占に貢献します。

さらにマンハッタンカフェが有馬記念に優勝して、サンデーが八大競走完全制覇を達成、きさらぎ賞の勝利で産駒の重賞勝利数が114勝の歴代最多記録を更新するだけでなく、わずか7年で産駒の通算勝利数1000勝を達成したのもこの年ですし、ナリタトップロードは阪神大賞典で3.02.5の世界レコードを叩き出しました。

そして暮れの香港国際競走で、アグネスデジタルが香港Cを、エイシンプレストンが香港マイルを、ステイゴールドが香港ヴァーズを制し、国際GⅠを全て制圧するという快挙を達成しました。アグネスデジタルは南部杯、天皇賞・秋、香港Cと連勝しており、わずか2ヶ月で地方、中央、海外のGⅠを制覇する離れ業を演じ、ステイゴールドは引退レースとなった50戦目で悲願のGⅠタイトルを奪取する劇的な幕切れを見せました。ちなみに、ステイゴールドの重賞連続出走回数36回GⅠ出走回数20回も史上最多の記録です。

騎手関係では、前年から続くアメリカ遠征で返り討ちに遭った武さんが、モンジューを管理したジョン・ハモンド調教師の主戦騎手としてフランスに渡ります。そこではコツコツと勝利を重ね、インペリアルビューティーでアベイ・ド・ロンシャン賞を勝利しフランスGⅠ初制覇を達成すると、凱旋門賞ではサガシティで3着になるなど一定の成績を収めました。また、兄弟子の河内さんは通算2000勝を史上最年少・最速で達成しましたし、オークスではレディパステルに騎乗したケント・デザーモが外国人騎手として初となるクラシック制覇を果たし、ペリエはゼンノエルシドでマイルCS、ジャングルポケットでジャパンC、タムロチェリーで阪神JFを制覇し、史上初めて3週連続GⅠ制覇の快挙を達成しました。

一方で、調教師の田原成貴が管理馬のフジヤマハクザンの耳に小型発信機を装着して過怠金50万円の処分を受ける事件が発生しました。前代未聞の事件でしたが、そこから3ヶ月もしない内に銃刀法及び覚醒剤取締法違反の現行犯で逮捕されるという急展開を見せ、さすがに覚醒剤と聞いて黙ってられないJRAは、2ヶ月後に調教師免許を剥奪します。その後、有罪判決が確定すると当時としては最大の処分となる15年間の競馬への関与を停止する処分を科しました。最大15年とは長いのか短いのか微妙ですね。2007年には競馬施行規程が改正され無期限の処分が可能となりましたが、それを受けたのも2010年に覚醒剤と大麻で有罪判決を受けた田原であり、当時のファンとしては非常に複雑な思いで一杯です。

開催日割は、前年に引き続き新潟競馬場の全面改装工事に伴い、第1回新潟を福島に振り替えられました。その新潟競馬場は7月に再開したので、春に振り替えた分だけ秋の第2回福島を新潟に振り替えました。それ以外は通常通りです。なお、新潟競馬場は周回コースを左回りに変更し、さらに直線1000mのコースを新設、新スタンド(NiLS21)を開場して現在に続いています。

重賞は一増で118Rですが、GⅠは21R、障害重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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馬齢表記を満年齢に変更した事に伴い、多くのレース名が変更されていますね。『3歳S』は『2歳S』に変更されていますし、阪神3歳牝馬Sや朝日杯3歳Sは『阪神JF(ジュベナイルフィリーズ)』、『朝日杯FS(フューチュリティステークス)』に変更されています。小難しい言葉に代わって年寄りには堪えますね。

だって、フローラSやファルコンS、4歳Sを外した共同通信杯、NZTなどは分かりやすいのですが、フィリーズレビューは??となりますよ。フィリーズは若い牝馬、レビューは仏語で演劇などを意味するので、『牝馬の舞台』という意味らしいです。ややこしいわ。

ちなみにジュベナイルは若い、フィリーズは前述したとおりの意味であり、阪神JFは『社交界にデビューする少女』という意味も含まれています。
また、フューチュリティは未来や将来を意味するので、つまり、これらのレースは若駒よ大志よ抱け!という意味です。違います?違います?いいのです。私がそう思っているだけですから。

名称以外では、京都新聞杯がGⅡに復帰しました。なぜGⅢに降格したのか疑問です。青葉賞も同じくGⅡとなり、ダービートライアルのメンツが保たれる事となりましたね。逆に鳴尾記念はGⅢに降格となり、前年の京都新聞杯は別として、継続する格付けとして降格した史上初の競走となりました。伝統ある競走ですが、結構、施行時期がコロコロ変わりましたし、これ以降も施行時期や距離が変更していますので、仕方ないと言えば仕方ないですね。

最後に、新潟競馬場の直線コース新設に伴い、日本初の直線競馬の重賞が誕生しました。当時は、まだまだ直線競馬は手探り状態で、一団となるのか、追い通しになるのか、内ラチあるいは外ラチに密集するのか、不透明な部分があり、予想する方も面白かったですね。今では内枠が超絶不利となるクソコースですが。

⑥に続く






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