全体を見ないと部分の美しさがわからない -スマホで100日連続noteに挑戦day53-
夕焼けを撮影していて感じたのですが、
上記の画角だと分からない美しさが実はあるわけです。
これ↓
どちらも同時に撮った同じ景色の全体と部分。
闇があるから光の美しさがさらにわかる。
なんだか示唆的だなあと感じて^_^
組織や夫婦やグループもひょっとすると同じなのかもなあ、とかんじたりします。
問題は、近視眼的になっているときに、どうやって"全体"を見るか?
俯瞰してみる、が、いつでも自在にできればいいけど、スポーツにおける視野のセンタリングと同じで、資質的にもともとできるひとと苦手な人がいて、訓練で変化はするけど、訓練が受けられるところとそうでないところと、居場所や職場としてはあるわけで。
全体がある、と知っていること
が、当たり前だけどまず必要ですよねえ。。。
自分の見ている世界、接している世界、人間関係の外に、もっと広い、もっと大きな、もっと全体を捉えられる世界があるのだ、ということを「知って」いるか?というところ。
これ、意外と知らずに仕事や作業に没頭する瞬間やタイミングって、人生で結構ありそうです。真面目な人ほど。
あそび、とか、寄り道、みたいな時間やプロセスの大切さ、という話かもしれないんですが、それだけでも見つからない「全体性」みたいなものの存在を、どう感じ取るか、あるもの、と認識するか?
感じる力は、どう育つ?
自分だけの世界なら、他の人はどうなのか?
自分の部署の世界なら、他の部署はどうなのか?
自分の会社だけの世界なら、他の会社はどうなのか?
自分の業界の世界なら、他の業界はどうなのか?
自分の地域の世界なら、他の地域はどうなのか?
自分の国の話なら、他の国はどうなのか?
人間の世界の話なら、他の生命や生き物はどうなのか?人間以外の自然世界はどうなのか?
マクロや世界のヒントがマクロな世界にないかしら?
ミクロな世界のヒントがマクロな世界にないかしら?
現代の話なら、これまでの歴史ではどうなのか?
そういう視点や経験や実感が、外の世界への予感や感性、感じる力、を育むのかもしれないですねえ。
全体を感じる力、今の目の前の起こってること、体験している世界、自分に見えている世界や事象が、一部分に過ぎない、全体の中の一つなのだ、とわかる力、感じる力。
バスケ教えてても感じるこの力、
転職支援してても感じる力、
組織のこと考えてても感じるこの力、
地域のこと考えてても感じるこの力、
夫婦や恋愛や家族を考えてても感じるこの力。
探求するといいことありそう^_^
ええ、続けますよ。
そして探求はつづく。
このひとの暮らしの全体はどうなっているんだろう。毛布が好きだと判明した今日のおちょこ(日本酒の創り酒屋、寺田本家さんの田んぼ生まれなので日本酒にちなんだ命名^_^)
まあ、おちょこサイズ超えてどんぶりくらいなんですけどね、いま^_^