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遠慮と自立のはざまで思うこと【訪問看護ステーション開設40日目】

利用者さんとお話していて気づかせてもらったことがあるのですが、、、

我々は訪問看護師として必要なサポートを提供しつつ、ともに進みつつ、ご本人の望む自立度を同時に目指す部分があります。そこで1つの要素があるのだなあと当たり前のことを実感しています。


人は遠慮するものだ


と言うこと。

これ、自分自身が訪問看護を受ける側に回った時のことを想像すると、すごく理解できるのですが、提供する側の目線や理屈だけで言うと、実感しにくくなってしまうのだなあと。

客観的にこちら側から見たら、こちらを頼って欲しい、とかこちらがやって当然のことを、すごく遠慮されて、自分で行動する。それって自立度が高い人なら、自然なことだしどんどんやって自立度を高めて自信を持って日常生活を送って欲しいので、訪問看護の「卒業」(訪問看護がいらなくなること)も重視するウィルの文化としても全然OKな部分でもあるのですが、、、


一方で、訪問看護師に遠慮して、緊急コールを呼ばず自力で動いて移動の際に怪我をしたり、転倒のリスクがあるような方の場合(今回は何もなくご無事だったのですが)、それは無理しないでいただいが方いいパターンの可能性もあるわけで。。。


誤解を恐れず極端な表現をすると「自分で(やりたいように)行動して怪我をする自由」みたいなのも人にはあり得る気もするので、あまり過剰に「遠慮しないで」と言いたいわけでもないのですが。。。

1つの気づきとして、利用者さんの「遠慮」の周辺の感情や状況に敏感になっていきたいです。遠慮について考えていきたい。その方の個性や背景を理解することが大事な気がします。


自分としては、訪問看護として当たり前に、ご本人の自主的・主体的な「選択」を大切にしたいですし、サポートしていきたいわけですが、その結果をどう受け止めるか、そこで発生するリスクのようなものをどう判断するか、、、病院のなかの安全管理とはまた別の、「生活の中の安全管理」が状況的に難しい場合の「遠慮」の意味が変わっていくことを感じています。

論点をどこに置くか?も大事な感じがしています。「安全管理」っていう概念自体がずれている可能性もありますし。。。


自分自身が要介護になって独居で、誰かに助けてもらわないと生活がままらない状態で訪問看護をお願いして、、、でもあまり干渉されたくないしできるだけ関わりも少ない方がいい。土日祝日やそんなにしょっちゅう呼びつけたりしたくない。自分できることは自分でやろう(しんどいけど)


そんな80歳の自分を想像して、その自分の心象や感情を想像しながら、訪問先から帰路についたのでした。


遠慮と自立の狭間で、訪問看護がどうあるべきなのか、こちらとしてどうしたいのか、相手を理解しながら、自分自身のことも理解して、「在宅における(見えにくい)正解」に近づけるように、一つ一つ進んでいきたいと思います。


そして探求はつづく。

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タイトルと全然関係ないシリーズ^^。昨夜食べた京都産の賀茂茄子。強い個性で強い調味料を受け止める力ある素敵な子。4等分して味噌とマヨネーズと砂糖を混ぜたペーストを塗ってチーズをかけてトースターで10分焼きました(また完成版の写真撮るの忘れた^^;食べるのに必死すぎ)野菜や果物にも「遠慮」みたいな概念や現象ってあるのかなあ。。。




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