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爪が丸くてなにが悪い!? 「ありたい姿」と「本来のそのままの姿」 -スマホで100日連続noteに挑戦day39-

昨日は出張がえりで飛行機おりて自宅に帰り一息ついてそのまま小学生バスケのコーチ業。低学年男子担当の自分は低学年女子も引き受けて4年生以下の子たちと、わーわーきゃーきゃー^_^やっておりました。男子は昨日は2年生と3年生^_^

出張で体は疲れているけど、練習終わってみると子どもたちの成長や変化や、反応や発言の面白さに元気をもらってむしろ心が軽くなって帰ってきた自分がいました(しつこいけど身体は疲れてるんですよ、ええ、おじさんですから)

そんな気づきから、本日はこころの疲れと「ありたい姿」について。

タイトル画像は、出張先のお花。かわいいすね^_^自然物は、生存適応の結果とはいえ、そのままの姿で生きてますよね。

こころの疲れと「ありたい姿」の関係

身近な、疲れた友人のことを想っていて、こころやからだの疲れはどう回復できるのか?こころのスペースをどう作るか?なんてことを日中は考えていました。

そんなことを思い出しながらnoteを書こうとしたら、家族が外見についておしゃべりしてました。息子が自分に似て指の爪が丸いのですが、友達からそれを指摘される、と。「お前のつめ、まっる!」と。

うん。ありますよね、友達や身近な人から素朴に驚かれて他の人と違うんだ、自分のここは、みたいな身体的な発見とか気づきとか。。。で、若いころや思春期や子どものころって、そういう体験があまりポジティブではないというか、コンプレックスになっちゃうことも多いかな、と。

息子の場合はあまり気にしているわけでもなさそうでしたが、ありたい姿と本来そのものの姿をにギャップがあることに気づいた時に、人は大抵そこを覆い隠そうとするのですが、、、

お化粧とか、髪型とか、ファッションとか、車とか、肩書きとか、いろいろな営みが、そんな心象の肩代わりとして発展してきたように思えてきますね。

でも、大人になってこころの疲れを感じる時、その「ありたい姿」と、そうでない自分、の間のズレが大きすぎて長くなると、疲れてくるんじゃないかなあ、と仮説だてて考えてみます今日は。

「ありたい姿」という言い方の危険性

自分は顧問先企業で、メンバーの方と話す時、よくこの表現使うのですが、息子の爪の話を聞いていて、妻からも指摘をもらって、その危険性について気づかされました。

中期的なゴールや企業でいうmissionやvisionの感覚で使っていたのですが、文脈によっては、外見やいろんなコンプレックスを刺激する言葉なんだなあ、と気づいた感じだったのです。

ポジティブで、事業や仕事をリードする原動力としての、「ありたい姿」という言葉が、人によっては、コンプレックスや、その姿に距離がある自分の状態に気づかされる言葉になり得る、という部分に思い至り、使い方に慎重になりたいと思いました。

光と影がどちらもあるのがこの世の恒で。

その中で「ありたい姿」みたいな光の言葉を使うときに、その裏に影の存在を自覚して注意して使うことが求められる。

光の言葉、
影の言葉、

その両方を見て、人をサポートしていけるようになりたいな、と思いました。

本来そのままの姿、でなにが悪い

爪が丸くてなにが悪い!と開き直れれば良いけど(息子にはできればそんなキャラや反応でいてほしいけど)、その人の状態や個性や成長ステージによってはそれは難しいことだし、無理強いすることでもない。

でも、仕事で疲れてしまったあのひとには、疲れたあなたでなにが悪い!ありたい姿とのギャップに苦しむあなたでなにが悪い!と開き直って言ってあげたい自分がいます。

だってそれって、頑張ってたら当たり前のことかもしれないし、ありたい姿の言語化や目標があるからこそ、皆で頑張れるのだし。

でも、疲れてしまった、そういう局面でこの「ありたい姿」という言葉を、疲れた側の視点で自分ごととして使うと、とても"敵" に見えてくる。

だからいま、この言葉って、危険だったんだなあ、と感じてるんでしょうねえ。

答えめいたものは見つかりませんが、その疲れた友人の役に立ちたいので、考えて調べて、自分にできることで、応援したいと思います。

あなたは心が疲れたときに、どんなふうに心にスペースを作ったり、元気を取り戻す工夫や方法を、お持ちですか?

そして探求はつづく。

(これも同じ場所に咲いてた子たち^_^旬の花は凛として命に溢れています)

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