「どちらかor」ではなく「どちらもand」でいいんじゃないの?映画のバリアフリー。
映画大好きな私は20代に聞こえなくなってからも、あの手この手で映画を楽しんできました。
だから「映画のバリアフリー」というテーマには敏感。新しい情報やツールを知れば、試してみたり、、。
そんな私、友人のシェアでこんな記事に目が止まりました。
おー!私が愛用している字幕メガネやアプリのことじゃん!
でも、読み進めていくうちに、ちょっと頭の中が「???」に。
うーん。
もしもこの記事が
「アプリやメガネを使った鑑賞も悪くないけど、それより字幕付き上映を進めましょうよ」と言いたいのだとしたら、
つまり、字幕付き上映は、アプリやメガネを使う鑑賞よりも、さらに先、さらに上にあって、それこそが目指すべきゴールってことだとしたら、
ちょっとなんか違うんじゃないかな、と。
なぜなら、字幕付き上映の拡大と、アプリ活用による鑑賞の拡大は、対立するものでも、競い合うものでもなく、並行して進めるべきものだと思うから。
確かに、聴覚障害者にとってなんの道具もアプリもなしで、全ての映画を字幕付きで観れるようになるのがベスト、というのは分かる気がします。
でも、実際は難しい。字幕付き上映があったとしても期間限定になることがほとんど。なぜなら必要としている人が絶対的に少ないから。
それは、そもそも日本語字幕って何のために、誰のためにつくのかを考えると自ずと明らかになると思います。
スクリーンに字幕が焼き付けられ、なんの道具もなく、音声を日本語で読める字幕付き上映といえば、誰もが思い浮かべるのは「洋画(外国語映画)」でしょう。
洋画が字幕付きで上映されるのは、今の日本では「英語音声では分からない」人が多い(ほとんど)ので、「英語がわからない」ことが標準(standard)になり、そういう人にとって必要だから「日本語の字幕」をつけるわけです。
でもこれは「バリアフリー上映」とは呼ばれません。「英語ができない」ことはできないことが標準だから、「バリア」とはみなされてないのです。
つまり「英語が分からない可哀想な人のために、そのバリアをなくすための字幕をつけてあげるよ」とはならないわけです。
一方、日本映画の場合は、「日本語がわかる、聞こえる」人が標準だから、字幕がないのが標準になる。
「日本語がわからない、聞こえない可哀想な人のために、そのバリアをなくすための字幕をつけてあげるよ」というバリアフリー上映になるわけです。でも「他の人にはいらんものを特別にやってあげるんだから期間限定でも文句言わないでね」っていうわけです。
もちろん、社会に日本語字幕を必要としている人がいる、日本語字幕がないと映画が観れない人がいる、ということを知ってもらい、理解を広げ、字幕付き上映を拡大させることは大事な課題。
でも、、実際は社会において、字幕を必要としない人の方が多くて、そういう人にとって「字幕は邪魔、不要」なのだから、字幕付きを標準にするのはかなりハードルが高い。
作品の中に聴覚障害者が出てきて、実際の聴覚障害者が演じていたにも関わらず、日本語字幕付き上映は限られた劇場で限られた日時だけだったということもあるくらいですし。
一方で、私たち聴覚障害者が映画を楽しむにはもう一つ、道具(メガネやアプリ)を使う手段があります。
これは、データを事前にスマホにダウンロードし、視覚障害ならそのスマホとイヤホンで音声ガイドを聞けて、聴覚障害ならそのスマホと字幕メガネで字幕を見れて、いつでもどこでも誰とでも鑑賞できるのです。
対応する映画もどんどん増えてきていますし、何より「いつでもどこでも」という、私たちに選択権がある、選ぶ自由があることの嬉しさは何物にも代え難いものです。
でも、字幕メガネとして使うスマートグラスはまだ高価で誰もが気軽に買えるものになってません。
また貸し出しをしてくれる映画館もまだ限られています。
そんな現状だからこそ、アプリやツールよりも字幕付き上映!でもないし、字幕付き上映よりもアプリやツールでの鑑賞!でもなくて、「どっちも!」なんです。
字幕やガイドへの理解・啓発による字幕・音声ガイド付き上映の拡大
メガネ等ツールの貸し出しの定着や、入手しやすさへの補助(日常生活用具みたいな)などによるアプリやメガネを使った鑑賞の拡充
その2つは、どちらも同じように大事なミッションなのです。だから、どちらも広がって欲しいのです。
ただ残念なことに、スクリーンに焼き付ける字幕にしろ、字幕メガネでの字幕にしろ、音声ガイドにしろ、「必要なこと」は分かっていても、その制作コストが理由で見送られることもあるようです。
「障害者差別解消法」における「差別的な取り扱い」や「合理的配慮の不提供」の禁止が今年の4月から民間事業者も義務化され、映像等への字幕や音声ガイドもいずれ義務化していくと思います。
でも、国も、「差別はダメだよ!」とか、「配慮しなきゃダメだよ」とかいうだけで、そのための負担を民間に丸投げするんじゃなくて、できる支援があるべきじゃね?って思います。
「やらなきゃ」という気づきと、「やれる!」という資源(技術、費用)、、そのどちらもがあって初めてバリアフリーな環境・社会になっていくに違いありません。
ということで、映画の楽しみ方の話から始まっての結論。
いろんなことが、「or」でどっち??って限定されるのではなく、「and」でたくさん並んでて選択できることが理想だなぁ、、ということで、今日はこの辺で。