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仮説:断れない我

押しに弱い質である自覚は、高校生くらいの時からあった。

夏休みに帰った実家で、たまたま地元に遊びにきていた、初対面の女子から勢いでアプローチを受け、文通相手になったのが自覚の始まりの様な気がする。

それ自体は迷惑では全然なく、甘やかで充実した経験だったのだが、一方で、「自分ちょろいわ」という自分の押しへの弱さも悟ることになった。

人からのお願いを、ちゃんと断らないと失効にできない面倒な性格であり、断る際にも謝絶ではなく延期にしてしまいがちなのが、弱さの始まりの様に思う。

もうしばらく会わなくていいと思う知り合いからの飲みの誘いも延期にしてしまう。そこは既読スルーでいいだろ、と自分でツッコんでしまう。

これはなんなのだろう。
人に必要とされる自分でいたい、というエゴなのだろうか。

よっぽど興味が向かなかったり、義理を果たす必要のない相手の場合は、迷いなく断れるのだが、応援したい場所や人が主催者の場合は、仕事とかでさえ無ければ予定を調整して駆けつけたいと思う。

ただ、年々忙しくなるにつれ、その習性にも折り合いをつけないと自分で自分の首を絞めることになるのは先日学んだばかりだ。

「行けたら行くわ」と煙に巻くか、官公庁の伝家の宝刀「前向きに検討します」を発動して身を守る必要がありそうだ。


そもそも、この断らずに受けてしまう癖も、幼少期由来のもののような気がする。

小さい頃、家庭での学習課題が親から課された時、「やりたくない」「できない」という逃げ道はなかった。

気持ちが乗らなくても、子供としてそこは「はい!」と良い返事を返すのが世渡りというものである。結果的に自分の気持ちが追いつかず、手をつけなければ後で叱られることにはなるのだが、その場しのぎで良い返事を返す習慣は思えばあの頃の名残のような気がする。いいかげんな習慣である。

社会に出れば尚更そうである。

上司の命令には「はい」か「イエス」で答える、なんて笑えない冗談が平気で通じる世の中である。そこには「今手一杯でちょっと・・・」という情状酌量の余地は往々にしてないのである。

職場がそうだから、プライベートの予定も断れないのかというと、そういうわけではない。むしろ積極的に開放感を求めて、良さげなイベントには参加したくなる。気持ちの上では。ここが厄介なところである。

気持ちは逃げたい、だから外部の予定に飛びつく。けれどこの場合、身体が一番求めているのは精神的な弛緩と、身体的な休息、つまり「ぼーっとすること」である。

活動を続けた自分が一番必要なものは「頭を空っぽにすること」
その感覚を代償する上で、人は酒に頼ったりするのだが、酒では脳は休まらず、肝臓に負担をかけ睡眠の質も低下する。つまり追い打ちをかけている。

疲れるとより判断が鈍る。身体に余計な疲れが溜まり、澱むと、何が必要で、何が必要ではないかの弁別能が落ちる気がしている。
雪玉が転がりながら膨れ上がるように、鈍くなった精神には余計なものがどんどん付随していく。


これが、断りにくさに繋がっているのではなかろうか。

エネルギーの鬱滞からの、判断力の低下。

感性が研ぎ澄まされていれば、会うべき時に会うべき人がわかり、行くべき機会を逃さなくなっていく。

まずは、健全な警戒心として、余計な人に会わなくなる。

次に、健全なコンパスが、ふさわしい方向を指し示す。

こういう流れになってくるのではないか。

今はまだ、実証ができていないので、これは仮説に留める。

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