今日のメモ
自分の中にはいろんな自分が住んでる。否定的な自分、肯定的な自分、自由な自分、統制的な自分。どれが優位と言われれば否定的な自分がよく顔を出す。「~やったらあかんやろ」「~やったら嫌われるかな」みたいな。でも肯定的な自分でも、やっていいこととやったらダメなことの区別はついてる。ただ人からどう思われるかが分からないし、気になるから否定的な自分を出す。統制的な、真面目な自分の方が社会では生きやすいから。でもふとした瞬間に自由な自分が出ることがあって、それを抑えるのが難しい。感情が顔に出るから特に。抑えようとはするけど、でも我慢は罪。結局のところ、人は他人をそこまで気遣ってくれるわけじゃないし。だからこそ、自分で抑える術や、出し方、タイミング、相手を考える必要があるし。
というか、感情を出してしまうというのも、社会に対する甘えなのかもしれないと思うときが多々ある。人からすれば、自分の感情とかそんな興味を持ってくれるわけじゃないし。暗い人より明るい人の方が接してて楽しいだろうし。上手な感情の出し方と、甘えをどこに出すか、それが問題。
自分は昔から親の顔を伺って生きてきたから、甘えることが難しいし、慣れてない。どうしても抑えられなくて溢れてしまったときに、バーンと爆発してようやく甘えることが多かった。というかそれも歳を経るごとに「甘える年じゃない」とか「甘えるのは情けない」とか、そんな体裁を考えてしまって甘えられずにお酒に走ることが多かった。
自分でもお酒はやめたいと思うけれども、でも結局やっちゃうことがある。28歳で体がもたなくなってきて二日酔いになるまで飲むことはほとんどなくなったけど、やはり昔の習慣で自分の体調を押して飲んでしまうのはある。それは楽しいし、お酒があると素直に感情を出せるから。というか、普段抑えてる感情を出すタイミングがそこしかない。親はなんでも電話するんやでとは言うものの、自分が出せないので電話することはない。だって、親にどう思われるかを考えて生き続けてきているから、多分親の前で素直に感情を出すことはもうないのかもしれない。
感情を出すことほど難しいことはない。もちろん、社会の中で生きていく中で生の感情をそのまま出してしまうと社会的リスクがあるし、得策ではない。だから、笑うにしても仮面を外すようなことはしない。というか、会社で本気で笑うことはない。面白いなと思っても、どこか一歩引いてしまう。だいたい会社の笑える話と言えば、誰誰がこうした、あいつはああだ、みたいな他人を貶めるような笑いしかない。する方はいいかもしれない。でもされる方の感情を考えると悲しくなってどうもうまく笑えない。人間の本質的に、生存するためには欠点の多い人間を非難しそれをもってコミュニティの中にいる他者と絆をつなぐというのがごもっともな戦略らしい。
世界が優しさであふれてほしいと願っているものの、現実問題自分の現実はそんな甘くない。社会的にも精神的にも生存圏を確保していくのは生きやすくするうえで大事なことだし、今まで生存圏を譲ってきたがために、譲ることしか知らない。でもそうして自分を切り取って他人に優しくしていると全部全部取られていくような気がして、外に出るときはずっと不機嫌な顔をしてしまう。自分を守らんがために。自分はよく優しいねと言われるから、親から受け継いだ優しさは多分あるものの、それを見せる相手を選んだ方が今は得策なんじゃないかなと思うときはある。というか疲れた。
親の言われるがままに生きて、自分で選ぶことをあまりしてこなかった自分には難しい話。この人なら受け入れてもらえるかも、という打算的な思いで優しくすることが多かった。自分の優しさをフックに他人を釣るようなもの。それは選んでいるというよりは選ばれるのを待っているだけなのかもしれない。というか、選ばれる側に立つにしても自然体でいてようやく選んでもらえるようになるのが一番いい。自然体でいたい。相手と話すのに考えたくない。
今日は疲れたのでここまで。雑記でした。
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