見出し画像

人の振り見て我が振り直さなかった26歳の話

 休日出勤をしたある日曜日のこと。
空腹と闘いながら会社でパソコンのキーボードをカタカタと叩いていたら、突然電話が鳴った。
休日にかけてくるとはけしからん客。
しぶしぶ電話を取ると、30分前に昼御飯休憩に行った先輩からで、「財布を会社に置いてきたので、財布の入っている鞄ごと店まで持ってきてほしい」と言われた。
自席に財布の入った鞄を置いて、スマホだけを持って昼食に行ったらしい。間抜けめ、と思いながら私は走ってやよい軒に鞄を届けに行き、先輩は無事無銭飲食でお縄につくことを免れたのであった。
当時24歳だった私は、29にもなって財布を忘れるなんてアホの極みだと思っていた。

 しかし、新しい部署に異動したときに事件は起こった。
当時、職場の隣のビルの中にある某回転寿司チェーンで、私は一人でたらふく海老、鯛、いくら等を好き勝手に食べていた。
平日に外食できるって最高。
満足感を噛みしめながら、そろそろ会計をしようと席を立った時、妙に手提げが軽いことに気づいて不審に思った。開けて中身をのぞく。黒い長財布がない。会社に置いてきたのだ。
電話して会社の誰かに届けてもらおう、と真っ先に思った。しかし己は異動して間もない身、しかも周りは全員自分より年上。更に当時所属していたチームは全員男性。そして私の財布は女子更衣室のロッカーの中。駄目だ。詰んだ。
「食い逃げ」「無銭飲食で逮捕」「前科者」「解雇」など、物騒な単語が瞬く間に浮かんで、暑くもないのにブラウスの腋がじんわりと湿っていく。
ともかく、こうしていても仕方がないので店員に事情を説明せねばならない。
通りがかった店員に社員証を見せ、
「自分は隣のビルで働いており、怪しい者ではないこと」
「財布を忘れてきてしまったため、すぐに取りに戻って支払いをしたいこと」
「私を解放して戻ってくるかどうか不安だと思うので、代わりに社員証以外のもの(スマホとハンカチしかないが)を何でも置いていくつもりでいること」
の三点を、つっかえたり噛んだりしながら伝えた。店員は私の挙動不審な様子を見て哀れに思ったのか、曖昧な微笑を浮かべながら「何も置いていかなくて大丈夫ですよ、お待ちしております」と告げた。
優しい。
これが「走れメロス」の世界だったら、セリヌンティウスが来ずに即刻死刑になっていたところだ。
「ありがとうございます!急いで戻ります!」
食後で脇腹が痛くなるなか、最後の死力を尽して、私は走った。私の頭は、からっぽだ。何一つ考えていないーーーわけはなく、ひたすら無銭飲食未遂の状態を解消するべく走った(途中脇腹の痛みに耐えかねてエレベーターを使った)。
10分後、財布を握りしめて店に戻ってきた私に「お会計ですね」と店員は何事もなかったかのように声をかけてレジに誘導した。クレジットカードを差し込んでからレシートを受け取るまでの時間が妙に長く思えた。レシートを受け取ったあと迷惑をかけたことを改めて謝罪し、店を出たあとは走って会社に戻った。

 半年後にこの話を職場でしたところ、一回りほど年上の先輩から「私は美容院で現金がギリギリ足りなくて、取りに戻ったことがあるよ」という体験談が返ってきた。財布があっても中身が足りないパターンもあったか……。
以来、私の財布には2枚のクレジットカードと3万円の現金が常備され、飲食店入店前には鞄を探って所在を確認するようになった。
おわり。

いいなと思ったら応援しよう!

麻田の雑記帳
最後まで読んでくださってありがとうございます。 いただいたサポートは、書籍の購入に使わせていただきます。