地獄行きオクトーバー (9/10)
「甘いぜぇ、甘ちゃん!」
サキュバスが回転した、と思うと、強烈な蹴りがわたしの側面を打った。わたしは十数メートルも吹っ飛ばされた。錆びたドアを砕き、大量のコンテナが積まれた倉庫のなかへ。
わたしは姿勢を整え、ブーツで床を滑りながら、スカートの中から秘密兵器をばら撒いた。大量のロザリオだ。追撃をかけようと突っ込んできたサキュバスが、そのひとつを踏んだ。
「いッッッだああああッ!? 何これ、画鋲!?」
そんな甘いものじゃない。釘だ。踏んづけると、足の甲を貫くくらいの釘を伸ばす聖痕強制器具。イエス様と同じ痛みを味わえ。
わたしは撃った。サキュバスはけんけん移動でコンテナの陰に逃れた。
「くっそー。この陰湿エクソシストめ! 人道に悖るぞ!」
「魔族相手だからいいんだよ」
ああ、いつもの調子で返事しちゃった。もっと殺る気を引き締めなきゃ。
わたしはコンテナの反対側から回る。クリアリングしつつ角を曲がった。サキュバスの姿は見当たらない。どこかに隠れたみたいだ。息を止め、周囲の気配を探る……。
ヒュン。横から何か飛んできた。わたしは振り向き、撃った。赤錆びたスパナだった。床に落ち、ざらついた金属音が反響した。
直感した。これは囮だ。
背後、息がかかりそうなほどの距離に気配を感じる。
わたしは正面に向けて銃を撃ち、その反動で肘打ちを繰り出した。
手応えはなかった。首をひねって映した視界の隅、ブリッジ姿勢をとるサキュバスの姿がちらと見えた。サキュバスは床に手をついたまま両足を持ち上げ、わたしの胴を挟みこんだ。
「どっせえーいッ!」
サキュバスはバック転する要領で動き、わたしを放り投げた。わたしは背中からコンテナに叩きつけられ、床に落ちた。
「くっ……うぅ」
サキュバスが近付いてくる。わたしは歯を食いしばり、意識を強いる。視界に散る星々を一秒で追い払い、立ち上がった。
わたしはスカートの中から一本のペットボトルを床に落とした。
高く蹴り上げ、銃で撃つ。
破裂したペットボトルから溢れた液体が、サキュバスに降り注いだ。
「あっつァ!? 聖水かァ!?」
サキュバスが怯んでいる。わたしは照準を合わせ、引き金をひく。
カチリ。弾切れだ。舌打ちし、自分の未熟さを呪う。
銃を放り捨て、突進する。サキュバスは聖水をぶるぶると振り払い、ファイティングポーズをとった。
走りながら、わたしは右の踵を六十度に傾けて床を叩く。ブーツの爪先から仕込みナイフが飛び出した。わたしはその足で蹴り上げた。
「うおっと!?」
サキュバスは背を逸らして躱す。もう片方の足からもナイフを出し、回し蹴りで首を狙う。サキュバスは後ろに退く。
わたしは舞うようにして連続回し蹴りを繰り出す。その流れの中で両腕を伸ばし、予備の銃を取り出した。正面に構える。引き金をひく──その直前、サキュバスに両手首を掴まれた。銃弾は逸れ、床を穿った。
「だから甘ちゃんだってぇの……よッ!」
サキュバスの足払い。わたしは宙をくるりと回され、仰向けに床に倒された。まずい、と思ったけれど、サキュバスは素早くわたしの腰に跨り、両手を抑えつけてきた。
「馬乗りいただき。あたしの勝ちね」
サキュバスは淫靡に目を細めた。二つの巨大な乳房がわたしの眼前で揺れている。
それを見たら、なんか、凄く、頭にきた。
わたしは腹筋と背筋にありったけの力を込め、腰を跳ね上げた。
「あんッ?」
サキュバスがわずかに揺れる。乳房も揺れる。わたしは怒りのままに跳ね続けた。
「わたしのっ、体がっ、薄いのはっ」
「あんッ、あッ、いいッ」
「こうやってっ、必死にっ、体脂肪っ」
「んふッ。ちょ、すごい突き上、げッ」
「絞ってるっ、からだっつう、のっ!」
「あひィんッ!」
サキュバスが浮いた。わたしは体を横にして、一瞬の隙間にねじこんだ。そのままサキュバスとともにゴロゴロと転がっていく。コンテナにぶつかって止まった時、今度はわたしがマウントをとっていた。
銃は放してしまっていた。わたしは拳を握り、左右から顔面を殴りつけた。何度も、何度も。
「ぶげっ! ぐえっ! ちょ、顔はナシ、ナシ!」
「ばか! ばか! お姉のばか!」
なんか視界がかすんできた。二回も背中打ったからだ。
ジャラリ、と音がした。サキュバスの左手が、長い鎖を掴んで、引っ張っていた。積み上げられたコンテナが崩れ落ちてきた。わたしは止むを得ずマウントを解いて回避する。耳障りな轟音が倉庫内に反響し、聴覚を塗りつぶした。
周囲を警戒する。埃が舞っていてよく見えない。サキュバスはどうなったろう。コンテナに潰されたのだろうか?
「いい責めだったわよ、聖職者ちゃん」
「!」
うなじに寒気。振り返ろうとするわたしの体を、サキュバスは後ろから四肢を絡め、拘束した。まるで蛇が巻きつくかのように。
「しまっ……」
「お返し」
かぷり。サキュバスがわたしの耳を噛んだ。「ひゃうっ」と、自分でも信じられないくらい高い声が出てしまった。
「んふ。いい声ね。もっと鳴いてちょうだい」
サキュバスは修道服を裂き、わたしの肩をはだけさせた。
首から肩にかけ、ゆっくりと、それでいて激しく、キスを繰りかえす。濡れた舌と唇がわたしの肌をなぞる。柔らかな牙が神経に突き立つたび、女王蜂のような痛覚に貫かれ、わたしの胸は跳ねた。
「んっ……んん、ぐっ……ぅ……」
「飛んじゃいそうでしょう? あたしはサキュバスで、あんたは噛まれフェチだものね。吸いつくしてあげるわ」
サキュバスは行為を続ける。唾液と吐息がわたしの膚を湿らす。脊椎から下腹へ、恐怖を覚えるほどの快感が熱を伴って降りてくる。単なるテクじゃない。サキュバスならではの魔力が、わたしの体躯から立つ力を奪っていく。
スカートの上から腿を撫でられた。それだけで、膝が折れそうになった。このままじゃ本当に気絶してしまう。わたしは喘ぎ声を飲み下し、魔を退ける言葉を必死にひりだす。
「ひ……、『人は神の言葉によりて生きる』。『主を試みてはならない』。『主を拝み、主にのみ仕えよ』!」
「ッ!?」
イエス様が悪魔の誘惑を退けられた時の言葉。それは聖なる被膜となってわたしを覆い、いかずちの如く淫魔を弾いた。
わたしはしなるように床に崩れた。目の前に銃があった。無意識の内にそれを拾い、振り返り、撃った。祝福されし9mmパラベラム弾が、サキュバスの脇腹を吹き飛ばした。
「うっ」
「あ……」
サキュバスはよろめき、コンテナに背をつけた。血がべっとりついた手のひらを見る。
それからわたしを見て、微笑んだ。
わたしはただそれを見返した。
サキュバスは走った。ドアを開け、倉庫の外へ。
「待て……まって!」
ふらつきそうになる足を無理やり立たせ、追った。
外に出る。サキュバスは……お姉は血の跡を残しながら、廃工場のゲートに向かっている。
わたしは追いかけた。
ゲートを出て、木々に囲まれたアスファルトの道をひた走る。
灯りのない夜道は、火照った体をよく冷やしてくれた。心臓が小さくなったと感じるくらいに。
全身が痛い。
冷たさのせいか。戦いの反動だろうか。それとも、痛がっているのは心なのか。
もし、ここで足を止めたら、どうなるだろう?
お姉は命に関わるほどの傷を負っている。それを癒すため、男の精気を必要とするはずだ。また誰かが犠牲になるかもしれない。
それだけは止めなくちゃ。
わたしは走る。アスファルトには血痕が点々と続いている。
わたしが流させた、お姉の血。
街が近付いた。ぽつぽつと電灯があらわれる。
その中のひとつに、人影が寄りかかって座っていた。
お姉ではない。乱れたスーツ姿の男性だ。汗をかき、惚けたように宙を見上げている。
「大丈夫ですか!」
わたしは声をかけた。男性はゆっくりとわたしを見上げた。
「ああ……ミナ……ちゃんか」
「どうして、わたしの名前……」
言いかけて、気付く。この人は浦野さんだ。チュパカブラの夜、白塗りオールバックのドラキュラコスをしていたお姉の同級生。前髪が下りて、印象がまったく違うから気付かなかった。
「浦野さん。お姉に会ったんですか」
「ああ。『悪いわね』って、唇を貪られた。すげえテクだったよ。相変わらず……いや、昔以上だ」
当時もそこまでは行ってたのか。いや、そんなことはどうでもいい。浦野さんは殺されずに済んだみたいだけれど、他の人はどうなるか、まだわからないのだ。
「ごめんなさい、浦野さん。わたしがきっちり責任をとらせます。エクソシストとして……いえ、妹としても」
わたしは駆け出そうとした。
「待ってくれ。オレの話を聞いてくれ」
浦野さんが手を伸ばした。憔悴しているけど、瞳には強い意志の光がある。
「君達らしい二人組が廃工場の方へ行ったって聞いて、オレ、追いかけてきたんだ。君に伝えなきゃいけないことがあると思ったから」
「わたしに?」
「あいつが殺したのは及川だ」
及川。数秒の時間をかけて、わたしの脳は引っ張り出す。首からカメラをぶら下げたミイラ男の姿を。
「覚えてるか。オレの会社の後輩。でも、マリアがあいつを殺したのは私欲じゃない。君のためだ」