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白狼の子たる修道女 - 《嘆きの声で歌うのか?》前編
(この作品は逆噴射小説大賞2020参加作品を改稿の上、約8000字の短編として仕上げたものです)
農夫の胸の裂傷はひざまずく修道女の祈りによって光につつまれ、致命のものではなくなりつつあった。たおやかに組まれた祈りの手は魔物の血にまみれている。
「もう大丈夫です。あとは自然に治りますよ」
修道女レイチェルは耳にかかった金糸雀色の髪をかきあげて、微笑んだ。
通りがかりの修道女の奇跡の御業に、村人たちはざわついた。農夫をふくめ、感謝の意を述べる者はいない。悪意でなく、戸惑いゆえだ。
レイチェルは立ち上がった。長老が手を伸ばした。
「あ、あんた、どうなさる」
「魔物の巣をつぶします。森の奥ですよね」
「よしなされ! 襲ってきたのは赤肌の魔物ばかり……、きっと《アビスの血の池》が湧いたのじゃ。無限に相手することになりますぞ」
「今つぶさなければ、皆さんが危険です。攫われた人もいるのでしょう。私は行きます」
「じゃが……」
「大丈夫ですよ。おいしいお酒を用意して、待っててくださいね」
彼女は小首をかしげて微笑むと、長い髪をなびかせて、去った。村人たちはどよめきながら見送るしかなかった。
レイチェルは村を出て、黄昏を背にした森へむかう。その途中には、赤肌の小鬼の死体が数匹ぶん、転がっていた。彼女が殺したものだ。
彼女は歩きながら再び手を組み、祈る。
「「「アギギャーッ!」」」
森の暗闇から三匹の小鬼が飛び出した。
祈りの手をほどく。彼女の髪から色が抜け落ち、淡く光りだした。
彼女は白い風と化し、右手で手近な一匹の頭を、左手でもう一匹の頭を、すべりながら掴み、かち合わせた。二匹の頭蓋は半分ずつ砕けた。
「アギャーッ!」
三匹目が血に濡れた粗雑な剣を掲げて飛びかかる。
レイチェルは身を屈め、あぎとを開く。二対の牙が伸びた。すばやく頭を振り上げ、小鬼の首に噛みついた。大きく振りまわし、遠心力で胴体を引き千切った。
二つの死体を放り、一つの生首を吐き捨てて、彼女は森の奥へすすむ。
憤怒の底で、攫われた村人を想った。
「待ってて。こいつらみんな殺すから」
彼女はそう決めていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
辛いとき、歌はいつもソフィーを慰めてくれた。けれど今、小鬼たちに拘束されたソフィーの口から漏れるのは、苦悶の喘ぎと嗚咽だけだ。
「痛い……痛いよ……」
さんざん泣き叫び、嗄れ果てた声で、彼女は呻いた。彼女の右膝から下は、無残にも斬り落とされていた。
足の切断面から流れる血は、森の奥にぽっかりと口を開けた赤黒い水たまりに流れ込んでいく。最初、それは子供がやっと通れるほどの大きさしかなかった。攫われた人々の生き血と残骸が注ぎ足されるたび、それは生き物のように蠢き、今では大人が通れるほどになっている。
これが《アビスの血の池》。数百年前に滅びた魔王が遺せし魔界の扉。赤肌の魔物はここより出でて、人を殺めるという。詩人の歌でしか聴いたことのなかったそれが、母を喰らい、友を喰らい、ソフィー自身を喰らおうとしている。
(殺して。はやく殺してよ)
小鬼たちがそんな願いを聞くはずもないと分かっていたから、声にはしなかった。彼らは嘆きを求めているからだ。簡単には殺してくれない。
ソフィーはただの村娘だ。畑を耕し、家畜を育て、薬草を摘む。都が大市の時期になれば、出かけて行って春を売る。やがて兄弟同然に育った田吾作と結ばれ、子をなし、せまい村の中で一生を終えるだろう。
そんな娘にも、ささやかな夢はあった。ソフィーは歌うのが好きだし、得意だった。毎年の収穫祭に訪れる旅の吟遊詩人の歌を、小さい頃からよく真似てきた。「あなたみたいになりたい」と言えば、竪琴を奏でる手で頭を撫でながら、「きっとなれるよ。気持ちを忘れなければ」と言ってくれた。
(気持ち……あたしが歌をうたう、気持ち……)
彼女はそれを思い出そうとした。
英雄の歌をうたうとき、ソフィーは英雄だ。想い人を待つ姫を歌えば、恋とはこういうものかと憧れた。農民の歌も好きだった。つらい労働の毎日を愚痴りながらも、秋が来れば楽しげに踊る能天気な連中の歌。ソフィーの辿るだろう未来を祝福してくれるようだった。
それでも一番好きだったのは、鳥の歌だ。高らかに空を飛び、平原を、山を、海を越えて、どこへでも行ける小さな旅人。羨ましかった。たとえ翼がなくても、この足であちこち旅をして、たくさんの歌を作るんだ。自分も彼のような詩人になるんだと、希望を抱かせてくれた。
そのはずだ。
そのはずだった。
駄目だ。思い出せない。だって足がないのだ。もう旅なんかできない。
それどころか、畑仕事だってもう無理だ。家畜を引いてあげることも。薬草を摘みに行くことも。
義足があれば何とかなるかもしれないが、金がいる。村にそんな余裕はない。欠けた躰が好きな男もいるだろうか? それを希望と言って良いのか。
何より、気持ちを忘れてしまった。ただ一人の肉親だった母も、自分の歌を誰よりも楽しんでくれた友も、目の前で切り刻まれ、血の池に飲まれていった。詩人だって二年前から来ていない。村人たちはどこかで野垂れ死んだのだと噂している。
もはやソフィーには嘆きしかない。こんな気持ちで何が歌える。
「だから、もう殺してよお!」
我慢しきれず、彼女は泣き叫んだ。
そして当然、小鬼がその願いを聞くことはなかった。彼らもまた嘆いている。
小鬼が石斧を振り上げた。次は左足か。耐えがたい痛みがまた増える。それでも死に近づくならば、今のソフィーには救いになるだろう。
ソフィーは霞んだ目でそれを見上げた。
その時、遠くで風を切る音がした。
何だ、と思う間もなく、すぐ近くでドスッと鈍い音。それは斧を振り上げた小鬼の頭に剣が突き刺さる音だった。
「アギ……ゲ……?」
小鬼は何が起きたのか分からない様子で、白目を剥き、ゆっくりと倒れた。ソフィーは呆然と目で追った。
「アギッ!?」「アギャッ!」
小鬼たちが騒ぎ立てる。飛んできた方向を、一匹が指さした。
その先から、また何かが飛来した。矢じりのような鋭利な石だった。その殺意は森の黄昏を一直線に裂き、指さす小鬼の目に突き立った。
「アギャーッ!?」
小鬼は仰け反り、絶叫する。ソフィーを虐げていた小鬼たちが戦闘態勢をとった。
ソフィーは小鬼が指さした先を見る。
背の高い木々に区切られた闇の中。白い人影がぼんやりと揺らいでいる。精霊か、あるいは亡霊か。最初はそう思った。
人影は紺色の修道服を着た女性だった。スリットから覗く黒タイツの足を交互に動かし、力強い足取りでこちらに向かってくる。
憤怒に染まった紫色の眼差しで、こちらを見ていた。
背筋が粟立った。
それは農民なら誰もが怖れるけだもの――狼の眼差しだった。
「来なよ。アビスの残り滓ども」
狼は──否、白い髪の修道女はそう言った。囁くように小さかったが、不思議とその声はよく通った。
「アギ……ッ!」「アギゲーッ!」
小鬼たちは怒りを露わにし、修道女に向かっていく。修道女は木陰に隠れた。
二匹の小鬼が挟み撃ちにしようとその木に近付き、それぞれに剣と斧を振り下ろす。だがそれらは虚しく空を切った。修道女の姿はなかった。
「ギ?」「ギギ……?」
小鬼たちは揃って首をかしげた。彼らは頷きあうと、左右に分かれ、周囲を探しだす。
右側に向かった小鬼はぎゅっと剣を握りしめながら、木をひとつひとつ調べていった。その禿頭には怒りに膨張する血管と、冷や汗が浮かんでいる。
五つ目の木の影を覗こうとした。そこから伸びた腕が彼の頭を鷲掴みにし、引きずり込んだ。
「アギ……アギゲッ!?」
二度の打撃音と、短い断末魔。他の小鬼が急いで向かう。
「ギッ!?」
斧の小鬼が覗き込むと、やはり修道女はいなかった。凄まじい形相で頭を砕かれた仲間の死体があるだけだ。
小鬼は湧き上がる恐怖を敵意で塗りつぶす。あの修道女はかならず近くにいるはずだ。一体どこに……。
小鬼は周囲にくまなく目を振り分けた。それでも敵は見つからず、ふと、上を見た。
剣の切っ先が迫っていた。それが最期に見たものだった。