【その灯りを恐れなかったのは誰か?】 #1
「群ゆ……ゆ……」
トビーは眉間にしわを寄せてページを睨んだが、どうしてもその言葉を思い出せなかった。諦めて、隣に座る桃色の髪の少女に問う。
「アイリス、これ何だっけ」
「『群雄割拠』」
「ああ、そうだった。駄目だなあ。こないだ覚えたばっかなのに」
トビーは座ったまま背を伸ばした。
彼がいま読んでいるのは、エルガルディア全土を束ねる《神珠教団》の聖典のひとつであり、各地の神々の逸話を集めた物語群である。教会付属学校ではこれを教材として字の読み書きを教えているそうだ。アイリスが学校から借りてきてくれた。
「疲れて、ぼーっとしてるんだよ。休憩したら?」アイリスはぼそぼそと言った。
「だね。そろそろお湯も沸いたかな。蜂蜜湯でも作ってくるよ」
食卓を立ち、台所へむかう。かまどに火は入っていないが、載せられた鍋のなかの水はしっかりゆだっていた。鍋の底に沈んでいる小さな赤い霊珠のおかげだ。湯沸かしの術を封じた霊珠は、クレイグ家にとって家屋に次ぐ値打ち物である。
生き物の魂は、術の源でもある霊素という力からできている。この霊素が高密度に凝縮し、結晶化したものが霊珠だ。きわめて高純度の霊珠ともなればそれ単体で意思を宿し、『神を宿した霊珠』……すなわち神珠と呼ばれる。神珠教はそうしたものを崇める教えなのだ。
(この霊珠にも、神様の魂とか宿ってたりしないかな)
だったら高く売れそうなんだけど、などと考えるが、それはないかとすぐさま打ち消す。一時間かけて鍋を沸かすのが精々の神様なんていないだろう。
二つの杯に湯をそそぐ。そこへ冒険者がお土産にくれたクヴァシル産の蜂蜜を、片方を多めにして混ぜる。零さないように気を付けながら、そそくさと食堂へ戻った。
「あちちち……。気をつけなよ、猫舌なんだから」
「うん。ありがとう」
アイリスは素直に受け取った。「知ってるなら冷ましてきてよ」くらい言えばいいのに、といつも思う。弱小宿屋の小さな食堂だが、そんな彼女がいるだけで少し華やぐ気がしている。
アイリスは親同士の繋がりでできた友達だ。同世代の友達なら他にもいるが、その中でも一番の仲良しを聞かれれば、お互いの名前を挙げるだろう。
他の子供たちが輪になって遊んでいるとしたら、そこからするりと離れ、木陰から静かに眺めている。トビーは小さい頃からそんな性格だった。そういう立場が好きなのだ。それはアイリスも同じで、だから自然と二人きりになる機会が多かった。
母を亡くし、家計が苦しくなってから、トビーは学校に通っていない。その代わり、こうしてアイリスが勉強を教えてくれるようになった。リディア一の優等生で、かつ一番の仲良しが教師なのだから、この方が幸せかもとトビーは思う。
「よーお、坊ちゃん。今日からまた世話になるぜィ」
アイリスと肩を並べて湯をすすっているところを呼ばれ、トビーは振り返る。
食堂の入り口から馴染みの男が顔を覗かせていた。槍使いの冒険者だ。
「あれ? もう素寒貧になっちゃったの?」
「へへ、まあな。これ買っちまったからさ!」
槍使いはきらきらした笑顔で、背中に隠していた武器を見せた。青銀に輝く鋭い槍。素人目にも高価なものだと分かる。
「氷霊銀の槍だ! かっちょいいだろ? 一月分の稼ぎが全部吹っ飛んだけどな!」
「あらら」
「ま、一流の冒険者ともなれば、装備も一流にしなきゃならんからな。もちろん俺様の腕前なら武器を選びはしねえがんげうっ」
「ちょっと、トビーちゃあ~ん?」
槍使いを押しのけて、筋骨隆々の女性が現れた。仲間の拳闘士だ。
「アンタが余計なこと言うから、このバカが真に受けちゃったじゃないのよ。どうしてくれんのさ」
トビーは爽やかに笑ってみせた。
「いつもご利用いただき、ありがとうございます。また会えて嬉しいですよ」
「ちぇっ、可愛い子だよ。そこのお嬢ちゃん、今からツバつけときな。このアホよりよっぽど将来有望だ」
急に話を向けられたアイリスはびっくりした様子で拳闘士から目を逸らし、俯いた。その頬が仄かに染まっている。拳闘士は軽く口笛を吹いた。
「あらま……、こっちはホントに可愛いね」
「お客さん、晩御飯はどうするの?」トビーは言った。「今日は珍しく魚があるから、なんか作るよ」
「おや、お詫びのつもりかい?」
「まさか。純粋なサービス」
「そうかい。そんなら頂こうか。あたしら部屋にいるからさ、できたら呼んでおくれよ」
「いででで! やめろこの馬鹿力!」
拳闘士は槍使いの耳をつまんで引きずっていった。トビーはそれを見送り、再び湯をすする。
「やれやれ、騒がしくなるな」
「……冒険者の人と、仲がいいんだね」
「うちみたいな貧乏宿が生き残るには、お金のかからない武器が必要だからね。気安さはそのひとつさ」
「仲良くするのは、お仕事ってこと?」
「そうだよ。まあ、普通に付き合っても楽しい人たちばかりだから、嫌なわけじゃないけどね」
「ふうん……」
アイリスは何か言いたげに沈黙した。彼女は頭の回転が速いが、言葉を紡ぐのは遅いタイプだ。トビーは急かさずに待つ。
「じゃあ、あのずっと泊まってる修道女の人とも?」
「ん? レイチェルさんのこと?」
「こないだ、一緒に買い物してるとこ、見たよ」
「ああ……。よく手伝ってもらったりはするね。子供だけだと何かと大変だろうって。ナメられてるみたいで、ちょっと癪だけど」
「癪でも、断らないんだ」
「面倒なことにならなそうな善意は受け取ることにしてるからね。相手に迷惑がかかるってんなら僕だって遠慮するけど、レイチェルさんはしたくてしてることだって言ってるし。何気に力もあるから、助かるのは確か」
「あの人、力持ちなの? そうは見えなかった」
「意外だよね」トビーは頷く。「あの人と付き合ってると、意外だって思うことが多くて、けっこう楽しいよ」
「……そう」
アイリスは再び沈黙した。今度は言葉を探している風ではなかった。どことなくしょげているように見える。トビーは理由が分からず、困惑した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「うぅ~ん……、うううぅぅ~~~ん……」
行きつけの酒屋の中、金糸雀色の髪の修道女レイチェルは頭を抱えて唸りながら、二つの酒瓶を交互に見比べていた。
彼女はウィスキーが好きなので、仕事を終えた後の夜の相手は大概がそちらである。とはいえ他の酒類が嫌いなわけではない。特に北方の地で作られたスイート・ベルモットなどは、この地方ではあまり見かけないが好きだ。そしてそれが……目の前にある。
「ああ、神よ……なにゆえ私にこのような試練を与えたもうたのですか」彼女はぶつぶつと呟いた。「せめてこれがあることを事前に知っていれば……うぅ」
あまり実入りのない仕事の後ということもあり、予算は少ない。連れて行けるのは一本のみ。貴重なベルモットにすべきか。しかし、ここに来るまでに気分はすっかりウィスキーになっている。ならば素直にウィスキー……でもベルモットも……。
まずい、とレイチェルは感じた。大いに迷いなさいと神は言うが、長く迷いの中にいる者には悪魔がやってくる。その気配がした。悪魔はしたり顔で『どうせだから二つとも買っちゃえば?』と囁くに違いないのだ。『混ぜたらきっとおいしいよ』『宿代が足りなくなってもトビーさんなら許してくれるよ』とも。
「ううぅ……! 去りなさい、悪魔よ! 私は二度と同じ失敗はしません……!」
ぶんぶんと誘惑を振り払う。店員が訝し気に彼女を見た。
……数分後。彼女はベルモットの瓶を胸に抱き、緩んだ顔で酒屋から出た。
「うふふふ……今夜はよろしくお願いしますねぇ……」
苦しく迷い抜いた末の決断は、一種の恍惚すらもたらすものである。レイチェルは瓶に頬ずりしながら、うきうきと帰途に就こうとした。
ふと、気付く。周囲がざわついている。
「……? 何でしょう」
彼らの視線を追い、振り返った。
原因はすぐ見えた。男が何かの袋を抱え、鬼気迫る形相で走ってきている。盗人だろう。右手にはナイフを握っており、止めようとする者は誰もいないようだった。
いや、男のさらに後方にひとり、追いかけている者がいる。
孔雀緑の髪を長い三つ編みにまとめた、白い鎧の女騎士。前髪の左半分を後ろに撫でつけ、痛々しい火傷の痕を堂々と晒している。しなやかな走りは鎧の重さをものともせず、盗人との距離を着実に縮めていた。
凛々しい怒りを灯した瞳がレイチェルを捉える。
綺麗な人だ。レイチェルはそう思った。
「君、そこは危ない!」
女騎士はレイチェルに向かって叫んだ。男の進路上にレイチェルが立っていたからだ。男も避ける様子はない。
レイチェルは考える前に決断した。
男が突進してくる。レイチェルはす、と足を引いて躱す。そうしながら、胸に抱いていた物を両手で握り直し、男の額に思い切り振った。バリン、と割れる音が響き、中の液体が飛び散った。
「アひ」
男は白目を剥いて倒れた。
「まあ。やりすぎちゃったでしょうか」
「大丈夫か、君!」
女騎士が近付いてきて言った。
「私は大丈夫です。むしろこの人のほうが……」
「そうか、良かった」
彼女は地面に膝をつき、倒れた男の様子を見る。
「うん、こいつも大丈夫。軽い脳震盪だ。孤児院への援助物資を盗むような奴はもっと痛い目に遭っていいくらいだろう」
「まあ! ひどい人ですね」
「うむ。だから貴女も、こんなバカたれを殴ったことを気に病む必要はない」
女騎士は再び立ち上がった。少しだけ上の位置から、レイチェルをまっすぐに見る。
「私はアルティナ・グレーテ・フラムシルト。災難だったな。貴女は勇敢だが、そのために損害を受けることになろうとは」
「損害?」
レイチェルはきょとんと首を傾げた。そのとき、自分が両手で握っていた物が、ガラス瓶の首だけであることに気付き、不思議に思った。胴体はどこへ行ったのだろう?
次に彼女の目は、硝子の破片と、微かだがかぐわしい香りを霧散させる液体が、男と共に地面に散っているのを捉えた。そして悟った。すべてを。
レイチェルは絶望に膝から崩れ落ちた。
「お、おい? どうしたのだ?」
「ああ……神よ……。私は、なんという罪を……!」
「おい、しっかりしろ! 君の行為は正当なものだ! 罪などではないぞ!」
「お酒……私の、大事な、お酒が……」
「お酒?」
「ああぁ……ああああぁぁーッ!」
修道女は地に這いつくばって嗚咽した。女騎士はただ眉根を寄せた。