地獄行きオクトーバー (10/10)
血の跡は、三階建ての廃ビルの中へと続いていた。もとは何かの事務所だったのだろう。
わたしは割れたガラスドアから入っていく。
砕けたコンクリートの破片を踏み、砂にする。
(及川のやつ、あの夜から様子がおかしかったんだ。心ここにあらずって感じでさ。そのうち職場にも来なくなっちまって。何度かあいつのマンションにも行ったけど、反応はなかった)
階段をのぼる。血の跡は途中で消えていた。それでもわたしに迷いはなかった。こういう時、お姉は絶対にいちばん高いところに行くはずだ。
(心配だったから、管理人さんに事情を話して、部屋を開けてもらった。そうしたら……部屋中、ドン引きするくらい君の写真だらけだったんだ。すぐにわかった。あいつは抱いちゃいけないタイプの愛情を、君に向けてたんだって)
思い出す。ジャック・オ・ランタンとの戦いの時に感じた気配。いつの間にか部屋から消えていた飲みかけのミネラルウォーター。ラヴ・クラフターとの戦いで、いきなり背後から抱きついてきた誰か。
わたしは恋愛だとかに興味がないし、自己評価も高い方じゃない。だから自分がそういう対象として見られることなんか、これっぽっちも想像していなかった。
でも、お姉は違ったんだ。
(オレはさらに調べた。あいつが君たちの家の近くにわざわざ別のマンションを借りてたことがわかった。一昨日の夜、オレはそこに行った。そうしたら……あいつは既に死んでいて。マリアがノートパソコンを叩き壊してた。君の家を隠し撮りしたデータが、そこに入ってるって)
あの日、わたしが気絶している間に、家を掃除したとお姉は言った。おそらくその時、盗撮されていることに気が付いたのだろう。
わたしの部屋のカーテンを開けさせようとしなかったのも、視線を感じていたからだ。
そしてそのまま、視線の主のもとへ向かった。
(マリアは何も誤魔化さなかった。ただひとつ、『ミナには秘密にして』とだけオレに願った。ストーカーされてたなんて知ったら気分を悪くするだろうからって。オレは同意した。でも、考えたんだ。もしエクソシストである君がこの事件を知ったら……君たち姉妹に、何が起こるのかって)
わたしが問い詰めても、お姉は言い訳しなかった。もし、わたしが真実を知ったなら、きっとお姉を見逃していた。お姉はそれを望んでいなかった。魔族に味方したことを教会に知られたら、わたしの立場が危うくなる。わたしが「エクソシストを続ける」と言った時、お姉は本当に嬉しそうにしていた。だから自分がそれを阻んではいけないと……そう考えたのだろう。
お姉は、宇宙一のお姉なのだから。
(ミナちゃん、まだ間に合う。マリアとしっかり向き合うんだ。オレは、君たち姉妹が殺し合うとこなんか、見たくねえんだよ……)
階段をのぼりきった。
わたしは屋上のドアを開けた。
風が出迎えた。ひしゃげたフェンスの傍に、お姉が立っていた。
「くるのが早いなあ。まだ治りきってないのに」
「ここから飛んで逃げるつもりだったんでしょ。そうはいかない」
お姉は観念したふうに薄く笑い、頭を振った。
「浦野っちには、会った?」
「うん。ぜんぶ聞いた」
「あんにゃろめ。昔っから口が軽いんだから」
お姉はフェンスに背中を預け、天を仰いだ。
わたしは、言葉に迷っていた。ごめんなさいって謝るべきだと思ったし、事情はちゃんと教えてよって怒るべきだと思った。人を殺すのはやっぱりダメだよって言うべきだと思ったし、いつもいつもわたしのためにありがとうって言うべきだと思った。
色々な思いがいっぺんに湧き出て、どれも決められなかった。
もういいや。思いついた端から口に出していこう。姉妹喧嘩って、たぶんそういうものだ。
そう思った時だった。
あいつはいつも、わたしたち姉妹を引き裂くために、地獄からやってくる。
『マリアよ。吾輩は怒り心頭である』
夜に響く、どっしりと貫録のある低い声。
お姉がフェンスから背を放した。ほぼ同時、フェンスの向こう側に、巨大な二本の触手がそそり立った。五年前のあの日と同じ触手が。
お姉にサキュバスの力を与えた上級魔族。地獄の女衒、男爵!
触手がしなり、フェンスを上から超えてきた。そしてお姉の両腕を拘束した。お姉はもがいた。
「ちょっと! 何すんのよ、セクハラ上司!」
『吾輩のもとに苦情が殺到しておるのだ。貴様と思しき淫魔が、祓魔士と組んで魔族を殺しておるとな。聖職者に与することは大罪である。よって就業規則四十九条に基づき貴様を処断し、その様をアップロードすることで謝罪動画とする』
触手が引っ張る。お姉がフェンスに叩きつけられる。触手は物凄い力でべきべきとフェンスを引き倒して、そのままお姉ごとビルの下方へ消えていった。あっという間だった。
「お姉ッ!!」
わたしは慌てて駆け寄った。こじ開けられたビルの縁から下を覗き込んだ。
地面に黒い渦が巻いている。地獄の門だ。触手も、お姉の姿もなかった。すでに地獄に引きずり込まれたらしい。
「ああ、お姉……お姉……!」
せっかく整理した心の中が、ひっくり返されたようにグチャグチャだった。
どうしよう。まただ。またお姉が地獄にさらわれてしまった。しかも今度はお姉の意志じゃない。男爵は処断すると言った。理性的に思えても奴は魔族だ。本当に殺されてしまう。わたしの仕事を手伝ったせいで!
いやだ。いやだ! グチャグチャになった頭の中で、その声だけは確かだった。
わたしはまだ、お姉に何も返せていないんだ!
考えろ。五年前のわたしとは違う。
お姉は立派だって褒めてくれた。わたしが自分自身の意志で生き方を決められるようになっていたからだ。
だから、自分で考えて、自分で決めるんだ。
──無理だ、娘よ。生者と聖者に地獄の門をくぐることは叶わぬ。
──覚悟があるならば、自分の手で拾え。
──ありがとう、おねえちゃん。
わたしは決断した。
「神様。神父様。ごめんなさい。赦しはいりません」
振り返る。ビルの縁ぎりぎりを背にして立つ。首にかけていたロザリオを引きちぎり、捨てる。
そして呼吸をひとつして、
顎の下に、銃を押しつけた。
「これでわたしも地獄行きだ!!」
わたしは自分の頭を撃ち抜いた。
◆
落ちる。
堕ちる。
わたしの死体が墜ちていく。
人としての命が消えゆく中、その感覚だけがある。
周囲には、この世の悪徳の全てを混ぜたような赤黒い血の奔流が荒れ狂っている。
地獄の門の中だ。
鼓膜が潰れそうな轟音の中から、いくつもの不快な囁き声が聞こえた。
英語だかイタリア語だか、よくわからないけど、たぶんアレだ。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」。
うっさいな。わたしはお姉を必ず助ける。これは希望じゃない。
わたしは奔流に手を伸ばし、血を引き寄せた。
地獄の血は顎の下の傷をふさぎ、修道服を赤黒く染めた。
どうやらわたし、吸血鬼になったみたいだ。
ドラキュラ伯爵がキスしてくれたお陰かな。
うなじがひりつく。出口の気配。
わたしは堕ちながら振り返った。
赤みがかった闇の大地。遺跡のような場所がみえる。
真下には、お姉の姿。四本の長い触手に四肢を拘束され、高く掲げられている。さらにカメラを構えたもう一本が、その様を撮影していた。
わたしは両手を伸ばし、いつものように二丁の銃を握った。
銃も生まれ変わっていた。銀色だった装飾が赤黒に染まっている。グロック地獄カスタムといったところか。
引き金をひく。ダダダン、ダダダンと、血染めの三点バースト射撃が触手に突き刺さり、穴を開けた。
「ぬうッ!? 何事……ッ!?」
男爵の呻きが聞こえる。わたしは残りの二本にも撃つ。触手が四本とも千切れ、お姉は解放された。すれ違う瞬間、カメラにも撃って破壊しといた。
わたしは膝を折って着地。すぐに立ち上がる。まっすぐ前をみる。
数十メートルは離れた場所で、黒いローブを着たタコ怪人がわなわな震えていた。異様に長い触手に対して本体は小さく見えるけど、三メートルは超える長身だ。これが男爵の本体か。
男爵は真っ赤な頭に埋め込まれた黒い瞳で、わたしを睨みつけた。
「地獄に堕ちてまで何用だ、祓魔士よ! 配信中の凸はマナー違反であるぞ!」
「知らないよ。お姉を害するもの、わたしの名においてみんな死ね」
わたしは銃を男爵に向けた。ダダダン、ダダダン。両目を貫くはずだった血染めの弾丸は、触手にガードされた。
「不届き者め! 部外者だが、地獄安衛法第十三条の事由に該当すると判断! 吾輩が直々に処断してくれようぞーッ!!」
千切ったはずの触手が、一斉にずるりと再生した。男爵は七本の触手を凄まじい速度で振るった。
わたしは前進しつつ、向かってくる触手のうち二本を撃つ。魔族となったわたしの眼は触手の弱い部分を正確に見抜き、両腕は三点バーストの反動に耐えて狙いを正確に撃ち抜く。触手がまた千切れる。撃ち抜けなかった触手は舞うように躱し、すれ違いざまにブーツの仕込みナイフで断ち切る。
なんか皮肉だ。魔族を殺すために磨いた技が、魔族となったことでより研ぎ澄まされている。身も心も、今こそが最高のコンディションだと歓び叫んでいる。わたしは銃も足も止めることなく前進し続けた。
男爵の触手も相当なものだった。撃っても切っても次から次へ再生し、まるで無限だ。でもわたしの銃も、わたし自身の血を弾丸に変えて撃っている。つまり死ぬまで無限だ。だから負けない。
撃つ。舞う。切る。撃つ。舞う。切る。ひたすら繰り返す。やがて不純物が混じった。撃ち千切った触手から散った粘液が、わたしの目に入ったのだ。
「う……ッ」
「貰ったぞ!」
すかさず触手が襲い来た。わたしは直感で躱そうとしたけれど、まず右腕に、次に左腕、胴体と、触手に絡めとられてしまった。
「このまま圧殺してくれる!」
ぎゅう、と、締め付けられる。骨が軋む。
わたしは動けない。そして動じてもいない。必ず来てくれるって、信じているから。
「うちの妹にィィィ! 何してくれとんじゃこのボゲェェェッ!!」
お姉の絶叫が、わたしを飛び越えていった。猛禽のように飛ぶサキュバスの手には、紫色の刀が握られていた。ドスじゃない。ソウル・日本刀だ。
紫の軌跡が縦横無尽に閃いた。わたしを拘束していた触手はすべて斬り落とされた。
わたしはお姉と並び立つ。わたしは銃を。お姉はポントウを構える。
「お姉。二人であいつヤっちゃおうよ」
「そうね。ヤっちまうか。二人でね!」
わたしたちは駆け出した。行く手を阻む触手を撃ち、斬り伏せながら、ただ前に向かって突き進む!
「ぬううーッ! 理法の通じぬ野蛮姉妹め! かくなる上はッ!」
男爵から紫色のオーラがほとばしった。お姉のそれとよく似ているけど、もっと濃密なエネルギーだ。それは男爵自身の体を作り変え、さらに大量の触手をローブの下から湧き出させた!
「触手八倍拳である! 五十六本の我が拳で、姉妹ともども塵と化すがよいわーッ!」
さっきの八倍もの量の触手が向かってきた。
知ったこっちゃない。わたしたちはひたすら進んだ。撃って撃って撃って撃って、斬って斬って斬って斬って、ただただ道をこじ開けた。無数の肉片が、粘液が、わたしたちに降りそそいだ。青色の血も降ってきた。グロック地獄カスタムはそれを吸い、弾丸にして撃ち返した。わたしはハチャメチャに笑いたくなった。全能感の、さらに向こう側の感覚が、わたしに満ちていた。
わたしは叫んだ。
「お姉、行ってッ!」
「あいよォ!」
お姉は跳んだ。放たれた矢のように。
男爵の触手がそれを追う。わたしは全ての弾丸を、お姉を守るために撃ち尽くした。血染めの三点バースト射撃は触手を貫き、その奥の触手も貫き、その奥の触手も貫いた。一撃三殺。その乱射。五十六本、皆殺し!
「捕まえたァ!」
「ぬうッ!?」
お姉はついに男爵の本体に跳びかかり、押し倒した。
つまり馬乗りだ。
「知ってるわよぉ。タコの触手って一本だけナニになってて、あんた服の下にソレ仕舞ってんのよね」
「き……貴様……」
「八倍ってことは、ナニも八倍よね。ってことは八倍吸えるわね? んふふ、素敵」
「や、やめ」
やめるはずがなかった。お姉は鮮やかにローブを脱がせると、せっせとおッ始めた。男爵の嬌声と、グチュグチュとした水音があたりに響いた。
「わーお。触手怪人陵辱……」
わたしは五年ぶりのお姉の艶姿をしっかりと見つめ、目に焼きつけた。
うっとりしちゃうくらい、素敵だ。
コトが済み、べとべとになったお姉が立ち上がる。男爵は陸揚げされたみたいにピクピクしている。
「あー、スッキリした。さすがサキュバスの元締め、ずいぶん溜め込んでたわね」
「おの、れ……何たる屈辱……いっそ殺せ……」
「殺さないわ。あんたには一応感謝してるのよ。復讐に手を貸してくれたんだもの。だからこれくらいで済ませてあげたいの」
お姉は振り返り、許可を求めるようにわたしをみた。
わたしは肩をすくめた。お姉が無事なら何でもいいや。
「ぬうう……よかろう。吾輩は契約を重んじるが、地獄では力こそが至上である。自由にするがよい……」
「今までお世話になりました。退職届、あとでちゃんと出すからね」
わたしたちはその場を後にした。
遺跡は小高い丘に建っていたようだ。わたしは地獄の大地を見回した。乾いた血のような砂、枯れた木々。空には闇と雷鳴。黒い暴風が吹き荒れて、亡霊たちの嘆きをわたしたちの耳に届けてくる。
「すっごい所だね。地獄って」
「当たり前でしょ。あんた、本当によかったの? 後悔してももう遅いのよ」
お姉が言った。わたしはただ首を振った。
「後悔なんてしないよ。お姉だってそうだったんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「お姉はずっとわたしを守ってくれた。だからわたしもお姉を守りたかった。そのためにやれることをやった。それだけだよ。後悔なんて、するわけない」
「うーん……」
お姉は困ったように眉をさげた。
ずいぶん長く、その顔をしていた。わたしはだんだん不安になった。それでも最後には、いつものように、パッと笑ってくれた。
「ま、ミナが自分で選んだことなら、姉として大事にしないとね。なっちゃったからには、魔族の先輩として、いろいろ教授してやろう」
「お願いね」
わたしも笑った。そして言うべきことを言った。
「お姉、さっきはごめんなさい。わたしのためにしてくれたことなのに」
「ああ。うん」
お姉はポリポリと頬をかく。
「あたしもごめん。あの、及川くんだっけ。本当は殺すつもりなかったのよ。でもなんか、本人を前にしたらカッとなっちゃって。お腹も空いてたしさ。だから100%あんたのためってわけじゃないの」
「それでも、ごめん。そして、ありがとう」
「ん。こっちこそ、ね」
お姉は照れくさそうにした。こんな顔をみたのは初めてだった。
「現世はもう日付変わったかな」
「そうねぇ。十一月か。ハロウィン、終わっちゃったわね」
「来年は、二人で現世を出歩こうね。そんで近所のガキども片っ端から精通させよ」
「あらま。言うじゃない、この淫猥シスターめ。神への信仰を捨てて吹っ切れたってわけね」
「信仰か。……そうでもないけどね」
お姉は不思議そうに首を傾げた。わたしは含み笑いで誤魔化した。そして両手を組み、心の中で、遥か遠くなってしまった天に言葉を捧げた。
神よ、感謝いたします。わたしの隣にお姉がいる。一年中ハロウィンだ!
(了)