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『文学と悪』①/ジョルジュ・バタイユ(訳:山本功)

読書会で課題本になっている本について稚拙ながら書きたいなと思いました。

身の程もわきまえず恐縮ですが、『文学と悪』について、長々シリーズっぽく続けて書いてしまうと思うのでお時間とご興味がある方がいらっしゃれば読んでもらえると大変喜びます😃

裏表紙よりあらすじはコチラ↓


わたしたちは世界史がつい先ほどまで「善」の通俗化としての残忍な悪「悪」の通俗化としての残忍な「善」にとりかこまれていたのだということを忘れるべきではない。
文学にとって至高のものとは、悪の極限を掘りあてようとすることではないのか。
エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジェネという8人の作家を論じる。

文学の表現しうる「悪」とは。
文学と「悪」の関係性。
そもそも「悪」ってなんやねん。

そんな本(?)です。

ジョルジュ・バタイユで言うと一番有名なのは『内的体験』でしょうか。

小説で思い浮かぶのは『眼球譚』です。

こちらは光文社の新訳も出ています。

これは学生時代、恥ずかしながら読む子が尖りに尖っていたころ(?)、
澁澤龍彦→マルキ・ド・サド流れで手に取った覚えがあります。
もうね、本当にうんざりするくらい暴虐と放埓と淫蕩の限りを尽くしたやつ。

最近の漫画で言うとこういううんざり感。
(好きだけど)

(↑とにかくうんざりしたい方にはおすすめ)

バタイユの小説っていうとエログロなイメージですが『文学と悪』によって、
なぜそういった小説を多く書いたのかちょっとわかった気がしました。
バタイユの取説っぽいです。

序章にて、
「文学とは、無垢のものではなく、もともと罪深いもので、ついには自分の正体を暴露せざるをえないものである。」
と言い切っています。

そもそも文学って性質が悪だよねから始めるところが面白い。
というか、悪性によって書かれたものこそ文学性を有しているといった考え方なのかな。
バタイユってオー・ヘンリーとかと性格の相性悪そうですよね。

(優しい世界づくりに定評があるオー・ヘンリー。)

さてそんなところから始まる第1章はエミリ・ブロンテです。

エミリ・ブロンテは敬虔なキリスト教徒の家庭に生まれ、
厳格な雰囲気の中で育ちつつも心の中で着々と「悪」を養っていたと。
その表出が『嵐が丘』に描かれるヒースクリフというキャラクターなのだと。

p.18「自分の精神の孤独を守り続けて、そこに彼女の想像からうみ出された亡霊どもをひそかに養い育てていたのである。」

『文学と悪』

心で悪魔を飼うみたいなワードはついこの絵が浮かんじゃってニヤニヤしてしまった読む子でした。

『行け!稲中卓球部』より

社会という合理的であることが重視される場所において、役割を自覚し、
自身の中の野性的・本能的ともいえる少年時を抑制することが大人たる態度である。

このバランスが崩れて、抑制された少年が大人の社会で爆発すると、
ヒースクリフのようにパラメーターが残酷さに極振りされたキャラが生まれるってことらしいです。

まさに闇堕ち。

そもそも彼は根っこが悪じゃないからこそ、あれほどまでの暴力的な悪を発露することになった。

つまり善なしで悪は生まれ得ないというところも重要ポイントでした。

光がなければ影も生まれないというか。
光が強ければまた影も濃くなるというか。

思えば強すぎる善の意識によって、いわゆる「悪」が生まれてしまうというケースは結構散見されますよね。

強すぎた聖性の意識が生んだ悲劇『モイラ』とか、

敬虔な教徒が家族にいることで厳格な家庭環境から歪んじゃった殺人鬼エド・ゲインとか。
(映画『羊たちの沈黙』バッファロー・ビルのモデルになった実在の人物です。)

私はこういった心の中の「悪」、
大人の中で息をひそめつつも確実に存在している「少年時」という「悪」を暴露するものとして
文学を捉えているのだなと読みました。

これに加えエミリ・ブロンテの場合、
その純潔さから愛欲についての認識も独特なものに仕上がったとバタイユは指摘します。

『嵐が丘』におけるキャサリンとヒースクリフの激情の中にある愛情。

p.22「まるで悪こそ、情熱をさらけ出してみせるのにもっとも強力な手段だといった工合にである。」

『文学と悪』

バタイユは各大人の自我こそ、
恐ろしげな子供(=衝動性、瞬間への偏愛)の上に浮かぶ小島にすぎないと考えており、
たいていの大人はそのような不安を解消しようと努めることによって社会に身の丈を合わせていくとしています。

そして優れた文学とは、この大人の自我が引き裂かれる瞬間があることを教えると言います。

まさしくキャサリンとヒースクリフは大人を求められる社会で、大人の自我を否定したからこそ狂おしいほどの激情を表現できたのです。

↑『ガラスの仮面』で北島マヤがキャサリンを激しく演じていたよね。

『嵐が丘』で表現される愛欲は、
バタイユの述べている

p.15「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか。」

『文学と悪』

という意見にも符合しますよね。

また『バタイユ入門』(著:酒井健)では

p.196「文学とは、何も解決することなく最後まで引き裂き状態に自らをゆだねたい、それもはっきりと、幸福なうちに、ゆだねたいとする欲望に我々が与える声のことなのである。」

『バタイユ入門』

と定義しています。

ここでいう「幸福」は一般的な幸せではなく
法悦」に近いもののように思いました。

法悦の、殉教の中で得られる宗教的歓喜って部分が、
まさに引き裂かれつつ、死に限りなく近づいていると言う点でバタイユの説くエロチスムと交わる部分がありますよね。

ちなみにバタイユ著の『エロティシズム』の表紙はまさに法悦を題材にしたベルニーニの作品、『聖テレジアの法悦』の写真がデザインされています。

『聖テレジアの法悦』wikipediaより

そういったある種倒錯的な中に身を委ねつつ出す「うめき声」のようなものに文学性が宿るってことなのかな。
だとしたらバタイユの認める文学への到達ってとても難しそうです。

文学界の海原雄山かよ

「悪」による文学とは、
善への抵抗と、(善性を持つからこそ)その抵抗に対して生まれる苦悩と嫌悪感によって
自我が引き裂かれる恍惚において絞り出されるもの。ってまとめでしょうか。

さすがバタイユ。
このねちっこさが癖になりますよね。

次回はボードレールに触れた第二章について書ければいいなと思っております。

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