感謝と祈り、書くこと、生きること
拙著『Book Cover』の感想をぽつりぽつりとSNSやDMでお聞かせくださる方々に恵まれた。
たぶん、ほとんどの小説書くひとは出版物にするとき、死ぬ気で書いてると思う。
このことを書きたい、書かずにしていられない、書かずにして死ねない、書いたら死んでもいい
すごくしんどかったけど、自分の言葉が引用されて感想をお聞かせしてもらうと、すごく救われた気持ちが沸き起こる。
見ず知らずのたった数人のひとたち。読んでもらったことで僕が書かずにいられなかった色んなひとの色んな気持ちが掬い上げてもらえた。
だから本当に中心を掴む感想を聞かせていただくと本当に本当に救われるのだとはじめて知った。
拙い文章なのに誤字も直しきれてないしそれなのに本当に感謝しかない。
主人公の両親の時代のひとたち
社会の中で使い捨てのようにボロ雑巾になりながらも必死だったはず。
彼らは第二次ベビーブーム世代であり、その時代に仕事と家庭を両立させる国や行政の支援がしっかりと他人事でなくなされていたら、少子化カーブは今とかなり違ったはずだ。
子育て支援だけでなく、移民難民受け入れ体制や海外実習生の方々のためのしっかりとした法整備等、決して他人事ではなく自らの生きる社会のフレームワークを作ることにもっと本腰を入れて取り組まないと、このまま斜陽は続くだろう。
戦争のこともそう。
ロシアウクライナだけでない。
ジャーナリズムの弱さは国によるジャーナリストたちの保障が弱いところからも来ている。
「同じ時期、日本メディアの記者たちも同様の問題を抱えていたが、日本には同じ真似はできない。日本の場合は、政府の姿勢も世論も含めて、メディアが取材で負うリスクはすべて自己責任であるという考え方が主流である。こうなってくると、メディアは報道よりも、まずリスク回避を優先させがちになる。」
—『ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在 (PHP新書)』福島 香織著
国力の衰退というよりも日本の国としての衰亡を目撃しているように時々憂う。
勝者のための搾取と消耗しか考えない政策や外交がいつまで許されるのだろうか。
静かな独裁国家は悲鳴に耳を塞ぐ教育で成り立ってもいる。
あまりあっという展開もないし、読みにくい文章であったり重いテーマだったりするが、色々なひとたちに読まれるようにもっともっと書きまくって精進しないといけない。
☆
僕はこの物語に20人登場させている。
中山一家3人
喫茶店店主1人
喫茶店のウェイトレス一家4人
喫茶店の客一家3人
その友人1人
偶然出逢う一家4人
主人公の友人たち2人
エピローグの2人
ひとりにつき、ひとりのモデルではなく、ひとりにつき複数の実在する僕の身近なひとたちや彼らを取り巻く社会風潮を取り込み、その人物を想像し、とても拙い虚構の街に放り込んだ。
彼らの物語の元となる物語も二年前にショートショート『漁港』『湖』として書いている。
漁港を書いたときからとても苦しかった。
湖でさらにその苦痛に拍車がかけられた。
だから、繰り返しになるけれども、彼らの言葉を掬ってくださり、物語そのものを捉えて、物語の人物たちについて語って聞かせていただくと、虚構の街で生きる虚構の住人たちが羽ばたくのを感じたり、それによって僕自身が苦痛から本当に救われる感覚になる。
言葉、ロゴスを大事にしようと思った。
読んでくださってありがとうございます。
☆
昨日の未明、ある見知らぬとても若いひとたちがあちら側へ行ってしまったのを偶然知ってしまった。また、ある遠い外国では捕虜の兵士を敵国兵士が残忍に処刑したことを知った。
色々なことがよぎり、立ち上がれないで嗚咽した。まったく僕とは無関係なひとたちなのに。
本当に彼らの意志で彼らはそうしなければならなかったのだろうか?
愛というのは、永遠であり、それは互いに愛し合えている場合もあればねじれる場合もある。
拙著の中山みちやマリの関係のように。
けれども、愛は永遠だと僕は考える。たとえねじれていても。
ねじれて、追放されたり離脱したとしても、そこから這いあがろうとする熱は、他の誰かを暖かくしてあげられたりもする。
自立しようとマイペースにでもしなければいけない。
誰かに忖度したり、迎合したり、依存したりすることなく、孤独としっかりと対峙し、飛び立ちたい、這い上がりたい、生きたい、という想いを絶対に忘れたらいけない。
そしてそうした想いを他者が簡単に欺いたり踏みつけたりしちゃいけない。
その空間が苦しすぎるなら、別の現実の空間へ離脱し、自立したら良いのだ。
例えば最もわかりやすい例が、紛争地域で徴兵を免れるために国外へ脱出すること。
離脱することを簡単に責めたりなんてしてはいけない。
生から死への飛躍ではない。
生の連続性を保つためにどこか別の空間へ自立しに行けば良い。
あるいは、書き続けるか。
書いてじぶんでじぶんに折り合いをつける。
踏みつけられたり、身近なひとから存在を無視されたり、欺かれたりしたとしても、どんなことがあっても、生きて生きて生き抜かないといけない。そこからなんとか離脱し、孤独になって対峙したら、ほかの誰かに手を差し伸べてあげられるほど強く逞しくなっているかもしれない。
僕はそのように考える。
誰かが教えてくれた。
読むことは愛すること、書くことは生きること。
みんな孤独だ。その孤独を精一杯抱きしめて書きたい、生きたい、と思った。