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草履

草履

俺は草履フェチだ。
少し前の季節、秋の昼下がりの草履の話を聞けば、如何様にして俺が、草履フェチであると気付いたか判っていただけるかもしれない。
どの草履でも良いというわけではなく、妻の脱ぎ捨てる草履が好きなのだ。

日に日に大きくなる妻の腹を見ているうちにどうしてか、着物を着た妊婦の妻を見たくなった。
俺は小さな大正ロマンを謳った写真館と建長寺の近くにある料理屋を予約しておいた。

その日は朝から少し肌寒かったが、よく晴れており、何もかもが清々しい。

横で眠る妻を眺めているうちに、俺の欲していた、何もかもが俺の手に入った事を確認したくなり、妻を無理矢理起こして抱いた。

そうして、2人して風呂に入って身支度を済ませ、鯵の干物と梅茶漬けを親父、お袋、祖父そして、妻と食べ、昼前の10時をすぎる頃、祖母の遺品である着物と、俺が新しく用意した草履が、桐の箱へ大事にしまわれてることを確認して写真館へと妻と車で向かった。

写真館に着き、しばらく待たされた後、妻の髪のセットと化粧をする間、化粧部屋の外で待つよう言われた。

吹き抜けの周りは回廊となっており、歩いてみるとギシギシと音が鳴る。

その日の客は俺と妻しか居なかった。

妻はもじもじしながら、一緒について来て欲しいと言い、その事を写真館の女に言うと、あっさりと承諾された。

素肌に白い長襦袢だけを纏って化粧されてゆく妻がとても美しく、とりわけ、我が子のいる腹の出っ張りが、それ以外は、この世の何もかもが陳腐であり、これほどまでに清らかなものはないと確信した。

髪のセットと化粧が済み、いよいよ着物の着付けである。

俺はそれまで女の着付けを見たことがないので内心とても楽しみにしていた。

桐の箱から朱色のオレンジがかった草履を出してやり、白い足袋の妻のあんよ(足)に履かせてやった。

昼下がりの陽光が窓から差し込み、草履に当たる。
妻のぎこちなく歩こうとする足袋のあんよが底はかとなく美しく思えた。

そうして楓の大きなテーブルのある板の間の部屋へと通され、

ご主人様はここでお待ちください

と告げられる。

楓のテーブル部屋の右側に着付けをする為の六畳ほどの和室があり、襖が雑に開かれている。

ご主人様はここでお待ちください。

またそう言われて、妻を写真館の女が襖の奥へと手招く。

草履を無邪気な子供のように脱ぎ捨てて、妻が和室へ入ると同時にぴしゃりと襖が閉められた。

陽光に照らされ脱ぎ捨てられた草履を丁寧に揃えてやってると、着付けをしている絹擦れの音が聴こえてきた。

冬がすぐそこまでやってきている鎌倉の古い写真館で、さっきまで俺の目の前で無邪気に喜んでいた妻が脱ぎ捨てた草履を見つめながら妻の絹擦れに聞き耳を立てていた。

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クリーム色がかった白地に花や鳥が刺繍された祖母の如何にも高価そうな振袖は、祖母が亡くなるまで誰かが着るのを見た事がない。
祖母が写真の中で若かりし頃それに金色の帯を締めて着て、祖父と建て替える前の貧相で今にも崩れ落ちそうな平家の我が家の門前で、幸せそうにはにかんでいるのを見ただけだ。

閉められた襖の向こう側の無邪気な顔立ちで白く手足の長い妊婦の妻がその着物を着付けされる姿をぼんやり想像した。

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障子の開けられた窓際へ目をやると、窓の横に鏡台があった。
鏡を覗くとそこには秋の陽光に照らされた大正ロマンのような写真館の内装には似つかわしくない白地に黒でBALENCIAGAとデカデカと書かれたパーカーに色褪せたジーンズを履き黒いキャップを被った浅黒い男が突っ立っている。

俺の後ろには襖の前に妻の脱いだ朱色の草履がちょこんと置かれているのも見える。

ご主人様と言われた事が何故か誇らしかった。
俺は妻と産まれてくる子のご主人様。

そんな事で浮かれる俺は阿保である。

そうこうしているうちに、すっと襖が開けられた。
着付けをしてくれた中年の女が出てきて、

奥様お綺麗ですね

と言う。
その後ろで妻が嬉しいそうに笑顔で巾着をぷらぷらとさせているのを鏡越しに数秒見つめた。
くるりと振り返って、にやにやしているのを写真館の女に悟られぬよう、草履を気にするフリをして、俺は襖に近寄り、妻のあんよに大事そうに草履を履かせてやった。

こうして、俺は草履フェチである事に気付いたのである。

俺は妻の脱ぎ捨てる草履が好きだ。

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