とりとめのないこと2023/01/07
真新しい年がはじまった。木曜日の午後、ホテルの受付で「あなた宛ての書類が届いていますよ」と呼び止められた。
少し大きめのゆうパックのようなものを受け取り、差出人を見ると、妻からだった。
ブロツキーのWatermarkに感銘を受けた去年の暮れ、僕は妻に「ブロツキーって知ってる?詩やエッセイを書いていて、水と光が時間と愛そのものに感じられたんだ」と話していた。
妻は小説をあまり読まないけれど詩をとてもたくさん暗記している。
ちなみに彼女の夢は詩を歌う小鳥になることらしい。
ダンボールの封筒を開けると、小さくて薄い本と手紙が入っていた。
ブロツキーのノーベル賞受賞講演の日本語版の本とブロツキーの短い詩Angelを書写してくれた手紙だった。
『私人』は、最初の方の数ページで僕の心を捉えた。
辻邦生さんが『薔薇の沈黙』でマルテの死≒「固有の死」と論じていたのを思い出す。
当時の近代化してゆくパリを見て、誰のでもない死から固有の死を掬いあげようとした。
現代の均一、無機質で平板な空気は個人を丸呑みして社会機能の一部に取り込む。
文明が発達すればするほど、「人間らしく」なればなるほど、残忍なカタチで、そうやって他者の領域を自分たちの領域、自分たちの共通概念が通用する領域つまり領土へと変えて支配と隷属の関係を強いる。
近年の紛争、戦争やジェノサイドは民族、宗教やイデオロギーの違いを受け入れられず、支配と隷属の関係を作ろうとするものばかりではないだろうか。(例外的なものではルワンダのジェノサイドがあるかもしれない)
芸術は「固有の生と死」への賛歌ではないだろうか?
「固有の死」が「個」であろうとすることならば、ブロツキーが述べているように文学や芸術が残忍でエゴ剥き出しの「人間らしさ」を立ち止まって見つめ直す何らかの契機を生むこともできるかもしれない。
だからこそ、僕はあらゆる状況の子どもたちに芸術に触れる機会の公平と、識字能力を伸ばす機会の公平が必要であると考える。
自分の頭で自分を大切にし心と頭でよく考え、他者と自分との差異を受け入れられる大らかさや想像力は愛を広げていくと思う。
赦す気持ちというのは非常に難しいけれどとても単純でもあり、健康な体と心、勇気が持てれば可能でもある。
互いに主張し合うのでなく、優しく肩をトントンして、「ねえねえ」とさえ言えれば、そしてその問いかけに耳を傾けるほんの少しの余裕があれば、良いのではないだろうか。
父親と母親が理想的な家族のカタチであれそうでないカタチであれ、子どもは誰かひとりからでも良いからたくさんの愛情をもらわないと心が育ちにくくなってしまう。
陽当たりの良いふかふかの土があれば、どんなカタチであっても木や花は育ち花芽をやがてつけるだろう。
芸術とは、ちいさな種が元気よく芽を出したくましく育つための肥料だったり、平和とは土や水や空気、陽の光かもしれない。
「なにをこんな幼稚なこと、馬鹿げてる、綺麗事」と言われるかもしれないけれど、そんな当たり前を享受できない子どもたちが今も冬の寒さに凍え、明日食べるものすら絶望的だったりする。
平和とは、そうしたとても優しくて平易なところから始まるのに、どうして難しく考え、支配し合おうとするのか。
「人間らしい」文明的生活を維持するために優しさを忘れて愛を蔑ろにしているのかもしれない。
誰だって、どんな極悪人だって、暖かい陽の光の下で、安らかな漆黒の夜の眠りの中で、いつだって、「私の大事な〇〇」と言われながら「個」としてちゃんと抱きしめてほしいのだ。
そうじゃないと心は壊れてしまったり冷たく固まってしまう。
論理ではなく、心でちゃんとそうしたものを欲する気持ちをわからなくちゃいけない。
余裕のないひとは一生懸命にいまを生きるしかないけれど、少しでも余裕のあるひとが片手を差し出してあげたらいい。
抑圧されていたり、紛争のただ中にいるひとたちはなかなか声があげられなかったりもする。
外側のひとたちが、その声に耳を傾けなきゃいけない。声というのは、権力者たちに抑圧されているひとたち全てだ。
どうして他人を傷つけるのだろう。
宗教や政治的イデオロギーが気に食わない、平和を脅かすからやられる前にやる、自分たちと同じ考え、同じ言葉、同じ民族以外は排除しないと存在そのものが脅威……。
気の遠くなるくらい昔からの因縁などなど。
色々あるだろう。
そうやってイザコザが内紛や戦争へ発展していくと、「この国の、この集団の考え、やり方、方針は間違っている」、と思っていても、相手に銃を向けないといけない。
向けているかどうか、後ろで見張っていて、向けなかったら反逆罪とされる──内側から声を上げる難しさ──軍国主義、全体主義の恐ろしさは日本の軍国主義時代を振り返れば、よくよくわかる。
そうした時代が日本にもあった。
いま、僕の世代で旧日本軍の話をきちんと実際に聞けるひとというのは非常に稀なのではないだろうか?
僕は幸運にも曽祖父が長生きをしてくれたおかげで子どもの頃、聞くことができた。
論理的思考力以前に、まず、文字を読み、自分なりに考え感じる力を育むのはもちろんのことだけれども、あった事実をきちんと書き残し、反省して次へ繋げなければならない。
極悪人と書いたけれども、戦時中、曽祖父は敵地のひとたちからは極悪人だろう。
「ずいぶんひどいことを日本軍はしたんだよ」とも言っていたことから、心の傷は計り知れない深さだったろうと思う。そうして、敗戦後、社会の価値観がガラリと変わったりもした。
心が壊れない方がおかしい。
いわゆる「学校」では、都合の悪いことを曖昧にして綺麗事だけ、あるいは、誰かにとって都合の良いこと、あるいは「論理」だけを教え込もうとしがちかもしれない。
自分なりに「違和感」を見逃さないようにし、声を上げる勇気を持つ、自分なりに考える力を子どもの頃から鍛える。
家庭で歴史を語り合う。
ひとには優しくトントンってしてあげる、何か言いたいことあったら肩トントンして聞く、いきなり、バチンってやらず。
みんながそんな風に育っていったら、そもそも支配と隷属の構造だって、もしかしたらもっと違うものになっていて、支配という概念が違うものだったかもしれない。
なんでなんだろう。そんなにトントンしてどうしたの?って聞き合う時間がないのだろうか?
何でもかんでも極端に面白おかしくないと振り向かない、あるいは、即物的に役に立つこと以外、しらんぷり、なんでなんだろうか。
とりとめもなく、考えていたら、胸がなんだか締め付けられて苦しくなった。