見出し画像

『未来の回想』 読書会 #2 (2023.9.24)


三人で読む


〈今回の本〉は、1929年にロシアの作家シギズムンド・クルジジャノフスキイによって書かれた『未来の回想』という「SF小説」。
今回も主催3人での読書会となった。

シギズムンド・クルジジャノフスキイ/秋草俊一郎訳
『未来の回想』(松籟社、二〇一三年)
戦争、革命が続くロシア。混迷極める社会をよそに主人公マクシミリアン・シュテレルは時間にとり憑かれ、タイム・マシンの制作にすべてを捧げる。
著者のクルジジャノフスキイも作品と同時代を生きた。激しい時代を背景に、彼は作品の中で人を、物や文字や時間、空間などと同列に配置する。生前に彼の作品が書籍化されることはなかったが、演劇や朗読会を通じて作品を読み続けた。

「九(5号)」より


ちょっと難解だった。平易なことばで書かれているし、130数ページとさほど長くもない。一応ストーリーもあって物語は進む。だから、読めそうな気がした。

しかし、一度目に読んだときもそうだったけど、ストーリーを追っているつもりがわからなくなる。理解が追いつかない。「時間切断機」と呼ばれるタイム・マシンの話は特に、ただ文字を追うだけだった。
わたし以外の二人は読めたのだろうか。感想がとても気になった。

読書会当日。誰も自信をもって読めたとは言わない。あずさんも、夫も、何度も挫けそうになりながら読み進めたという。
それでも気になることがたくさんある。互いにわからなかったところや気になるところを伝え、自分の考えを言い合ううちに、「なるほど、そうかもしれない!」と盛り上がっていく。そして最後は力を合わせて読んだ気になり、思わずみんなで拍手。

いつもならスムーズに読み進められなくなると途中で放り出してしまうことも多いが、今回は読書会ということで読み切れ、そうしてはじめて全体の印象が見え、発見があり、愛着がわくという読書体験ができた、とはあずさんのことば。だから、読書会で読めてラッキーだったという話になった。


躓きの読書


だが、なにか濁った、どろどろとした感覚が、指と思考にまとわりついていた。シュテレルは寝台に横になっていたり。初めのうちは数字と記号の回転がゆるやかになっていき、次いで黒い、目の詰まった生地の目隠しがーー眠りだ。

p45

文章のひとつに足をとめたシュテレルは、行末を切り詰められ、感嘆符で上げ底されたそれを見た。

ソヴィエトの権力万歳!
資本主義の破滅万歳!

p60

「シュテレルは徐々に眠りに落ちていった」でも「シュテレルは『ソヴィエトの権力万歳!資本主義の破滅万歳!』と書かれた貼り紙を見た」でもない。

すべてを既知のこととせず、主人公のシュテレルがこの世のものと一つひとつ出会っていく様が記述される。既成概念の枠に収まらない描写はすらすらとは読み難い。
一文ごとに主人公の呼び方が変わり、多様な比喩が使われるのも、読み進むたびに躓く理由だった。ことばが身体になじまない、距離をとられ続けているような感覚になる。
句点が打たれるたびにそれまでの連続性が断たれるかのような文章はまるで、時間切断機のようだった、という感想もあった。


この本を選んだのはわたしだ。二人は「自分ではこの本は選ばなかった」と言った。なぜこの本を選んだのだろう。
恥ずかしいけれど、きちんと理解できていなかった。もともとストーリーを追うのもあまり得意ではない。でも、冒頭から惹かれるものがあった。ぞわぞわっとした違和感があった。その違和感がどうにも気になった。躓かせたり、誤読さえ誘導するような書き方。おそらく著者はわざとそんなふうに書いている。


「わかる/わからない」を越えて


夢を見ているような描写。周りのものへの独特な着眼点。生物と無生物を分け隔てなく扱う記述。まるで実体験に先んじて、ことばが先にあるかのような、あるいは一度も眠ったことのない宇宙人に、眠りというものを一から説明しているような、そんな書き方。
しかしことタイムトラベルとなると、いくらことばを尽くされても理解ができない。

私は電子渦を作動させるスイッチを入れましたーーすると時間はまず脳をつかんで私を引っぱりこもうとしました。渦を巻く漏斗を通って、ねじのように引き抜かれた脳は、神経索で肉体をひっぱりました。苦しげに圧縮され、扁平になりながらも、体はそこを通過するのを拒みました。どうやら、また少し引っぱられた神経繊維がちぎれ、脳から吊り下げられていたバラストを落としてしまったようです。指は流れていきましたが、スイッチと調整器は離しませんでした。瞬間ーー私は自分を目撃しました……あるいは、自分を目撃しなかったとも言えます。

p108

シュテレルにとってタイムトラベルは現実の体験だったが、シュテレル以外の者にとっては未知の体験だった。「眠り」のことならなんとなく「あぁ、眠りのことか」とピンとくるが、タイムトラベルとなると途端に理解が追いつかなくなるのは、誰もそれを体験したことがないからだ。

これは読書会を経てわたしが思ったことだが、著者はこの作品を、著者自身を含め、それを体験したことのないひと、あるいはそれを「本当には知り得ていないひと」にむけて書いたのではないか。「それ」というのは、タイムトラベルのことだけでなく、この世界のありとあらゆることを指す。

わたしたちは歩き、息を吸い、ことばを使うが、そうしたことをことばで説明し名付けてみても、どこか物足りない。ことばにするとこぼれ落ちる無数のことがらがある。体験する世界とことばの間にある大きな隔たり。現実はほんとうにそうだと言えるのか。


クルジジャノフスキイの生きた時代のロシアは、そうしたことに気がつき、目を向けた時代でもあった。のちに「構造主義」と呼ばれる考え方の土台が形成された時代。構造主義とは、いまこの生きている世界が当たり前ではなく、それとは別のかたちがあり得たことを示唆する考え方だ。詳しくは書けないが、そうした別の可能性に、著者には並々ならぬ憧憬とリアリティがあったのかもしれない。

読み進めるたびに躓き、違和感が生まれるのは、この物語がわたしたちに、知ったつもりでいるが実は何もわかっていないこと、当たり前と思い込んでいるだけで、当たり前のことなど何もないということを気付かさせてくれるからかもしれない。それゆえ、わかるとかわからないといった感想にはあまり意味がない。


なぜタイムマシンだったのか


物語の終盤で、シュテレルが聴衆に向かってタイムトラベルの話をする。しかし難解な彼の説明を聴衆はなかなか理解しない。ようやく肝心なところに差し掛かった矢先、進行者により話を中断させられる。そのとき話そうとしていたのは、タイムトラベルの果てに偶然見つけたある新聞記事の話だった。

その新聞は実在した『イズヴェスチヤ』で、日付は「1951年7月11日」とあった(話をしていたのは1928年頃なので、シュテレルは20年後のロシアにタイムトラベルをしていたことになる)。
そこに書かれたことを話そうとして、行く手を阻まれた。いったい何を見、話そうとしたのか(ちなみに著者のクルジジャノフスキイは1950年に亡くなっている)。

シュテレルのタイムトラベルの話は出版予定でもあったのだが、これも編集者によって中止が告げられる。最後のページにとんでもないことが書かれていたからだ。この最後のページをめぐって物語はますます謎めいていく。

そして、青い車に乗った猫背の男の登場。この男は、「キオスクに貼りつけられたポスターに、数百回は映りこんだであろうその顔を知らないということはありえなかった」といわれるほど有名な男で、おそらく政治家なのだろうが、ロシアに詳しくないわたしたちにはわからない……この男が物語の最後(未来)に大きく関わるのに、その肝心なところがわからない……!

それはさておいて、、、主人公のシュテレルがなぜこれほどまでにタイムマシンをつくることにこだわったのかという話にもなった。
現実に起きた不幸な出来事を阻止するため未来や過去に行くというのならわかる。しかしシュテレルにとってタイムマシンの制作は目的そのもので、異様なまでに時間に執着していた。
それは、ただ、「いま、ここ」から逃れたかったからではないか。著者のシギズムンド・クルジジャノフスキイも主人公と同じ戦争や革命の動乱が続くロシアを生きた。わたしたちは主人公に著者の姿を重ねた。


破滅から逃れるために


クルジジャノフスキイは、厳しい社会状況下で創作活動を続けた。しかし、訳者あとがきに詳しくあるように、どの作品も本になることはなかった。「クルジジャノフスキイの実験的な作品群は、ソ連政府の指導のもと、社会主義リアリズムを推進しようとする出版界ではうけいれられなかった」(p137)のだ。本書も60年間、まったく日の目を見ることがなかったという。

作中、作家たちが自らを「イヌ」と大真面目に呼び合い自嘲する場面がある。表現者にとって厳しく困難な時代であったことに、わたしたちは想いを馳せた。
すると、近寄り難い文章も、人にはほとんど興味を示さず時間にばかり執着する主人公の性格も、そうであるしかなかったのだろうと思え、理解できそうな気がしてくる。

シュテレルについて印象的な描写がある。

みずからの過剰さに苦しんでいたシュテレルが他⼈に求めていたのはただひとつのものーー節度だけだった。それゆえ、この教師(壁掛け時計)と⽣徒の相性は最⾼だったのだ。

p9


人とは違う発想や思考は理解され難い。それをことばや絵画にして表現することもほとんど許されない時代だった。だから、ただひとり、紙に文字を書き連ねた。紙もペンも文字も、それそのものに脅威はない。壁掛け時計と同様、道具としての節度をもって、持ち主に仕えるだけだ。書いたものを引き出しにしまっておけば、作者が咎められることもない。そうするしか方法がなかった。そうして自己の破滅を遠ざけ、著者は生き抜いたのかもしれないーー。


空想広がる読書


時間やタイムマシンの仕組みについて正確には理解できずとも、書かれたことから妄想や想像が広がり、読書会が終わりに近づくにつれ、わたしたちは熱を帯びていった。

たとえば、戦争中に前線を散歩していた主人公は、突然「空間に対する時間の摩擦」に気が付く。時間は常に空間に遅れ、それゆえ「秒とインチのあいだに摩擦が生じる」という。このことから、戦争や革命といった大変動が、「空間に対する時間の摩擦の増大」として説明できると主人公は考えた。
ほとんど理解できないが、ちょうどそのとき読んでいた書家の石川九楊著『わが書を語る』にあった、「書は時間と空間の表現」であるというフレーズを思い出した。
書く速度が遅くなると、筆の動きを思い通りにコントロールできるようになる。それを「時間が徐々に空間に転じ」てゆくと表現していた。時間と空間は反発しあうのではなく、混じり合うのだという。
シュテレルの言う「空間に対する時間の摩擦」が少なくなればなるほどなんだかうまくいくということが、かなり大雑把だが理解できそうな気がした。

他にも、空間による見かけの時間の話(時計の秒針と短針を取り替えたシュテレル少年のエピソード)から着想を得た夫は、これまでにない「時計のようなもの」をつくってみたいと言っていた。普段とは違う脳の一部が刺激されたわたしたちは、妙に興奮しながら話を続けた。そうして最後、拍手で終わったのだった。




最後に、訳者のあとがきがnoteで読める。また、シギズムンド・クルジジャノフスキイの研究者、上田洋子さんの解説が『クルジジャノフスキイ作品集 瞳孔の中』で読めるらしいので、いずれそちらも読んでみたい。


木谷恵(九店主/読書会主催)+ 佐野梓(読書会主催)


※ この記事は、わたし(木谷恵)の原稿をもとにあずさん(佐野梓)に修正、補足をしてもらい、書き直しを重ねたものです。主語である「わたし」は仮に木谷恵を指しますが、あずさんの文章も含まれ、構成も相談して書きました。そうした意味で、共同執筆としています。

いいなと思ったら応援しよう!