ハードボイルド書店員日記【177】
「俺もひとつ訊いていいすか?」
春の襟足が目立ってきた週末の昼。外国人に「イングリッシュブック?」と訊かれ「ノー」と返す。渋い顔をされた。気持ちはわかる。少し前に店長へ提言した。答えは「これ以上荷物を増やしても人員が」だった。私がやると伝えたが、仕入れと返品も大変だしと返された。
先日訪れた某観光地のお店は、村上春樹の洋書フェアを開催していた。ワンフロアで同じくらいの広さだ。いろいろ面倒なのは知っている。でも何屋なのかを考えれば自ずと最適解へ至るはずだ。他では買えぬものを扱ってこその専門店だろう。
店内を巡回し、棚を整える。今度は若いカップルの女性に声を掛けられた。
「英検のテキストは?」
「こちらでございます」
「テストの形式が変わるって本当ですか?」
書店員に訊くのか。しかしこの質問は想定内だ。
「3級以上の級における英作文問題が1題から2題に増えるようです」
「英作文?」
「ライティングだよ」
どこか投げやりな男性。一応頷いてみせた。
「それに合わせ、準2級以上はリーディングの出題数が減るみたいです」
「俺が話した通りでしょ」
ドヤ顔に内心安堵する。絶対訊かれるだろうと旺文社のサイトで調べておいたのだ。
「ではごゆっくり」
「二次試験の面接はこれまでと同じですか?」
言葉に詰まる。たしか一緒だったような。
「準1級だけ少し変わるんだよ。No.4の質問に話題導入文が追加される。答え方に変更はない」
眠そうにつぶやく。彼からしたら、なぜ俺の言うことを信じないのかという心境だろう。
失礼します。去りかける背へ第二の矢が放たれた。尤も先端には鏃の代わりに吸盤が付いていたが。
「何でしょう?」
「この前『マキャベリズム』って言葉を聞いて」
「ええ」
「定義わかります?」
英検を受けたい女性とマキャベリズムを知りたい男性。悪くない組み合わせだ。
「わかりません。しかしこれを読めばあるいは、という本をご案内することはできます」
「こちらです」
講談社学術文庫の「君主論」を手渡す。他にも何冊か出ているが、読んだのはこれだけだった。
「いい意味じゃないんですかね」
「そうかもしれません。私も時々思い出すことが」
口に出して即後悔した。
「たとえば?」
「107ページを」
こんなことが書かれている。
「もし傭兵隊長が有能であれば君主は彼を信用できない」
「なぜなら彼は自らの雇主である君主を圧迫したり、雇主の意図に反して他の者を圧迫したりして、常に自らの権力の強大化を目論むからである」
「言わんとすることは理解できます。ただ」
細い首を傾げ、ついでに彼女の様子を窺っている。準1級の過去問に見入っていた。
「つまり私は正社員ではないわけで」
「なるほど。だから社員や店長を圧迫し、自分のやりたいように」
「まさか。でもそういう風に受け取られるケースも皆無ではないのかなと」
洋書の件が頭を過ぎった。
端整な顔に親しげな笑みが浮かぶ。
「実は俺も似たような境遇で」
「そうでしたか」
「○○○○ご存知ですか? 喫茶店の」
「ありますね。△△の2階に」
「そこでバイトしてます。人手不足だから何でもやるけど、最近は社員の仕事である仕入れとかも任されて」
目が細められ、眉間に深い皺が刻まれる。
「店長には『この書類にサインしろ。そうすれば明日から社員だ』と言われています。ただ俺はグルメライターを目指していて来月から専門学校に通うんです。バイトを続けながら」
「ええ」
「正直悩んでます。いまのご時世に正社員という響きは捨てがたいので。けどずっとあの仕事を続けたいかと訊かれたら」
「たぶん店長の狙いは」
「俺が社員になれば、晴れて引け目ゼロでこき使える。口を滑らした感じでそんなことを」
いかなる文脈で「マキャベリズム」が出たか、なんとなく想像できた。
「どう思います?」
「答えは私ではなくマキャベリに」
194ページを開いた。こんなことが記されている。
「運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである」
「それゆえ運命は女性と同じく若者の友である。若者は慎重さに欠け、より乱暴であり、しかもより大胆にそれを支配するからである」
はは、と乾いた笑いが漏れる。
「そんなに若くもないですけど」
「お若いですよ」
その発言の残酷さを知らぬ程度には。胸の内で付け加えた。
「とりあえず学校頑張ります。この本買いますね」
彼女の元へ戻るのを見送った。
正社員を目指す気はない。でも少しだけ考えてみるか。