仕事のこと①

仕事のことを書きます。
備忘録的にというか、決意表明というか。


今の会社には、6年前新卒で入社した。
就職活動はうまくいったのかはよくわからないけど、まあ失敗ではなかったと思う。
当時は経団連の決定で、12月から説明会解禁、4月から面接開始、のはずだった。
うちの会社はだいぶフライングしていたから、3月31日には内定をいただいたけれど。

昔から、工作とか手芸とか、自分で何かを作ることが好きだった。
コラージュしてアルバムを作ったり。
大学もハンドボール部の傍ら、学内フリーペーパーのサークルに入った。
自分で企画を考えて、撮影して、記事を書いて、誌面として出来上がる瞬間がとても嬉しかった。

だから仕事も、自分の手で作ったもの、完成形が目に見えるものが良かった。
出版や広告代理店にも興味はあったけど、狭き門と激務にビビって結局受けなかった。
第一志望は印刷業界。
しかしこれも、上位数社を除いてほとんどが中小企業。
おまけに紙媒体は衰退産業。
ということで、全然違う業界でも「完成形が目に見える」を軸にいくつも受けた。

その中で、1番最初に内定が出たのが今の会社だった。
内装デザインの会社で、自分が手掛けた空間が目に見えるのが良かった。
人も良かった。
まだ面接が始まってない企業もいくつもあったけど、志望度が高い企業を残してあとは全部辞退した。
その後、第一志望は最終面接で落ちたり、ちょうど部活が廃部の危機で面接が投げやりになったり、逆に面接官に励ましてもらえて泣いたり、なんか色々あったけど、結局最初に内定が出た今の会社に落ち着いた。

募集要項には営業職、デザイン職、技術職の3種類しかなかった。
文系の私は当然営業職で受けて、営業職で採用された。
でも蓋を開けてみれば、内定者には人事とか事務アシスタントとかマーケティングとか色々いた。
詐欺だと思った。
まあ、営業やりたかったからいいんだけど。

面接の時から、採用されたらはじめの数年は必ず首都圏勤務だと言われていた。
働く場所にはあまりこだわりがなかった。
というより地元を離れることに、それほど抵抗はなかった。
母にもそれは話していた。
なんとなく、母の地元に残って欲しそうな思いは感じながら、敢えて話した。
まだ他の企業も受けている時は、母も応援していた。
他の企業が全て区切りがついて、今の会社に入社することを決めた時、母は「よかったね」と言いながら泣いていた。
それは母にも、予想外の涙だった。

入社してからは、楽しかった。
初めての一人暮らし、初めての東京、沢山の同期。
はじめの半年はほぼ研修で、今思えば学生の延長みたいなものだった。
10月からは本配属になって営業は数字目標もあったけど、実際は上司がコントロールしてくれていたし、直接矢面に立つ機会も少なかった。

2年目を迎えた。
急に1人で案件に対応することが増えた。
ひと案件あたりの金額も大きくなった。
日々をこなすことに精一杯で、丁寧に確認する余裕もなく、小さなミスが重なって、やがて大きくなっていった。
今思えば大したことないことも、対処方法がわからずにパニックになった。
毎週末現場から電話がかかってきて、そのたびに上司に助けを求めた。
1週間で6食しか食べられないこともあった。
たまに20時台に事務所を出られる日は、奇跡かと思った。
23時過ぎまで事務所にいると、最寄りの駅に着く頃には日を跨いでいて、何故だからわからないけど泣きながら帰った。

そんな感じの期間が約5ヶ月。
今思えばたったの5ヶ月。
お盆休みまで何とか走りきって、休みが終わって東京に戻る日。
とにかく憂鬱だった。

休みが明けて数週間経った時、直属の上司から呼び出された。
新規開拓専門のチームができて、上司がそこの責任者になるから、お前もやってみないか、ということだった。

うちの会社は顧客の殆どが既存顧客。
営業といってもルート営業で、その大半の業務が見積作成や手配、納品調整。
新規開拓まで手が回る営業マンは少なかった。
新規開拓専門チームに入れば、逆に見積や手配はしなくてもいい。
土日の現場に怯えることもないし、毎日残業する必要もない。
上司には数日考えさせてくれと言ったが、話を聞いた瞬間にほぼ心は決まっていた。

私は、逃げてしまった。



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