「本当の自分」なんてのは、ないんですよ。

新年あけましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。皆さま方お一人お一人にとりまして、よき一年となりますことをお祈り申し上げます。

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さて。新年早々穏やかではない表題としてしまった。Twitterのタイムラインを見ていて、ちょっとカチンとしたことがあったので、ここはお許しいただければと思う。少々おつきあいくださいますと幸いです。

よく「ほんとうの民主主義とは!」とか、「ほんとうの愛」などと言って現状を批判している「つもり」になっている方がいらっしゃる。ぼくもしたことが全くないということではないのだが、できる限り慎みたいと考えている言い方であり、考え方であると思っている。

中でも耳障りなのは、「ほんとうの自分」というヤツである(穏やかでないな・・・)。結論から言うと、表題のように

「ほんとうの自分」というものは、いま・ここ以外のどこにもない

のである。少なくとも、そう考えながら生きていった方がいいと思う。目の前にある何事かやら、今生きつつある事柄は、「偽り」であるとどれだけ否認しようが、それが「現実」であることは動かしようがない。それでも「ほんとうの◯◯!」というのは、悪くすると、ただの現実逃避でしかなくなってしまう。

仮に、である。「ほんとうの自分」とやらが、いま・ここの自分以外にもあるのだとしよう。それならば、なぜその「ほんとうの自分」を出したり、生きたりしないのか。そう問うことは厳しすぎるであろうか。「偽りの自分」に固執し、それを生きていることの方が苦しくはないか。もっと楽に生きても=「ほんとうの自分」とやらを生きてもいいのではないか。そう思ってしまう。

しかしながら、一個人は、複数の、場合によっては矛盾した役割関係の束として存在しており、それを平野啓一郎は「分人」と名づけた(ただし、それに先んじて、社会学では複数の役割を前提とした「役割葛藤」という概念がある)。

矛盾した役割を負っている個人が、特定の役割に固執し、その特定の役割を「ほんとうの自分」と考えているのであれば、確かに場面場面の「諸」自分が「ほんとうの自分」ではない可能性はある。いや、むしろ高いと言った方がよいだろう。しかし、その場合であっても、個々の(場合によっては矛盾している)諸役割関係というものは、紛れもない「ほんとう」であることを否定できるものではない。

この状態にどう対応するのがいいだろうか。いくつか選択肢はあるだろう。例えば、ある役割を「ほんとう」と見なし、それを中心と見なして他の諸役割を従とする。つまり、支配下に置くマッチョな戦略を取る。しかし、こうした「弾性」に欠く戦略は、早晩破綻を来たすだろう。

ぼくが提案しようとしているのは、役割間の矛盾や葛藤を受け入れるという戦略である。これはこれで、矛盾や葛藤に耐えるという勁さが不可欠ではあるが、どれも否定しなくてもいいという利点があるだろう。少なくとも、自我の一貫性というような「呪縛」とでもいうべきものからは自由でいられるように思う(だからといって、聖人と極悪人とが同居していていいというわけではないんだけどさ・・・)。

そろそろまとめよう。ぼくたちが必要としているのは、その時々の「いま・ここ」の自分や役割を、否定や排斥することなく、丸ごと受け入れようとする「哲学」であり、「戦略」なのである。

こんなところで、どすか??

すたんど


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しょうじ@マチナカ読書会
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