【考察】「人生」とは、変えなければならない何事かなのか?
こんにちは。
正直ぼくは、うんざりしています。「今のままの君でいて」にも、「(今すぐ)人生を変えよう!」という掛け声にも。ぼくはそのどちらにも与したくはありません。そう考える理由について、これから書いていこうと思います。しばらくおつきあいください。
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今でこそ、「自分探し」ブームは過ぎ去りました。しかし、それは姿を変えて、今もなお、ぼくたちに「呪いの言葉」を吐き続けているように思います。それが、「◯◯で人生変わった!」「人生を変える魔法の◯◯」といった、一連の言葉たちです。疑問なんですが、そんなに人生変えたいですか? それに、そんなに簡単に人生って変わるもんなんですか?
あと一つ、ここに付け加えたいのが、「自己肯定感」を上げようというものです。これについては、別の機会を捉えて、「自己肯定感なんて言葉はいらない(仮題)」として、稿をまとめたいと考えています。
「人生を変えよう」という掛け声は、とどのつまり、今・ここに、現に生きている自分は、取るに足らない、否認すべきものとして受け止めることの刷り込みに他なりません。それらは、「成長願望」とは、また異なるものと考えています。今、ぼくたちが考えなければならないのは、今ある自分自身を否認し、廃棄して、「別の自分」を求めることではなく、今ある自分自身をしっかり受け止める「覚悟」なのだと思います。そこから地続きの、シームレスの「自分」を思い描くこと。それが「成長」であり、「成熟」ということなんだと思うのです。
もちろん、それでも今・ここに、現に生きている自分自身を受け止めきれない場合はあるでしょう。その場合は、独りで抱えることなく、専門的な訓練を受けているカウンセラーの利用も含めた、信頼できる他者との関わりを求めてみるのがいいと思いますので、予め申し上げておきたいと思います。
また、ぼくが言わんとしているのは、社会の構造や矛盾を指弾するのではなくて、自分の問題に目を向けるべきだということではありません。そのことは、指摘するまでもないかと思いますが、敢えて申し述べておきたいと思います。
では、なぜぼくは、「人生を変えよう」という「魔術」にかかってはいけないと言おうとしているのか。それを述べていきたいと思います。
いくつか理由がありまして、それを整序立ててお話しする力が、今のぼくには足りていませんが、以下、ランダムな「メモ書き」程度ではありますが、書き連ねていきたいと思います。
1)人生は、そう簡単には変えられない。変えるのなら「命がけ」になる。その覚悟があるのかどうか。
2)今・ここに、現に生きている自分を軽んじることにはならないか。
3)「魔法のアイテム」なんてものは、ない。
4)自分を変えようとすることは、「他者支配」の欲望に転化する危険がある。
これらについて、少々述べて、稿を結びたいと思います。
1)人生は、そう簡単には変えられない。変えるのなら「命がけ」になる。その覚悟があるのかどうか。
人生、あるいは「人」は、簡単には変わりません。まず、ここから始めましょう。20歳の方なら20年分の、60歳の方から60年分の「歴史の重み」があるはずです。
人生とは、パソコンや携帯電話、ゲームのように、リセットしたり再起動したりすることは、できないのです。少なくとも、できるとは思わない方がよい。「変わる」のであれば、それこそ「命がけ」になる危険性をはらんでいるものと思った方がよいでしょう。
1冊の本を、それこそ10分程度の速読をして、「さあ!私は生まれ変わったぞ!」という方があれば、ぼくは止めません。止める権利はぼくにはありませんので、むしろ「祝福」を贈りたいと思います。おめでとうございます。
2)今・ここに、現に生きている自分を軽んじることにはならないか。
前にも触れましたが、現実の矛盾に目を閉ざせと申し上げるつもりは毛頭ありません。しかし、「人生を変えよう」コールには、今・ここの人生を、容易に否定する契機をはらんでいると思われます。否定し、克服すべきものとしての「今・ここ」。それは、「さあ、リセットボタンを押しましょう」という呼び掛けでしょう。
自分を変える、あるいは、自分が変わるためには、「今・ここ」の自分を、勇気を持って抱きかかえることから始めるより他はないと思うのです。それこそが、「自己肯定」というべきものなのだろうと思っています。
3)「魔法のアイテム」なんてものは、ない。
それではなぜ、このような「自分を変えよう=人生は『簡単に』変えられる」という言説が流通している=供給されているのでしょうか。それは、端的に言って、「商売」になるからでしょう。つまり、「売れる」からです。
「この本を読めば!」「このセミナーに参加すれば!」「このノウハウを身につければ!」、あなたの人生は、劇的に変わる。しかし、凄腕のカウンセラーさんでも、飛び切り効き目のある精神科のお薬でも、人生は変わりません。自分の人生を変えられる「もの」があるとすれば、くどいようですが、それはあなた自身の「覚悟」をおいて他はないと思われます。
4)自分を変えようとすることは、「他者支配」の欲望に転化する危険がある。
続けます。これから述べようとすることは、あまり馴染みのないことだろうと思います。いささか回りくどい言い方になると思いますが、それはぼくの「筆力」に由来するもので、あなたの読解力のせいではありませんのでご安心ください。ただし、ぼくがこの稿で言わんとしていることは、ここからですので、できれば最後までおつきあいくださいますと幸いです。
自分を変えたいと思ったときに起こること、起こり得ることとは何かについて考えてみました。それは、自分が分裂し、引き裂かれるということです。
つまり、変えたいとする「対象」としての自分と、変えようとする「主体」、あるいは、変わった後でもなお残る自分とに分裂します。そのことがいいことなのか、悪いことなのかは、今のぼくにはわかりません。
しかし、次のようなことは言えるのではないか。つまり、「変えたい」「変えよう」としている自分には、特権的な地位が与えられるということです。そして、この地位を獲得した「自分」が変えたいと思う対象は、変えたいと思っている対象としての自分だけにはとどまらず、自分の「外」にも向かうのではないかというのが、ぼくの考えであり、仮説です。この仮説については、ぼくは仏教から着想を得ました。
こうした精神の作用について、仏教は「他化自在天」と命名しています。これは、「他」をして自分の思いのままの支配下におこうとする働きを指しています。そして、この「他化自在天」には、「第六天魔王」「奪命者」という、恐ろしい別名があるのです。
ちょっと大げさに、この稿全体をまとめようとすると、
自分を変えたい=他化自在天の働き
であるので、気をつけた方がいいと申し述べたいと思うのです。
それでは、この「囚われ」から逃れる術はないのでしょうか。これも、やはり仏教の知見をヒントに、ちょっとだけ書いておきます(正確には、「ちょっと」書くのが、現時点での「限界」です)。それはつまり、「同苦せよ」ということになろうかと思います。
「同苦」とは、苦しみに囚われている他者への深い共感と、その苦しみを抜こうとする「慈悲」の精神作用です。そう、「同苦」とは「慈悲」の異名なのです。自分を、「他」に対して開いていくことが肝要なのだと言われているように思います。
仏がこの世に出現した本当の理由のことを、仏教では「出世の本懐」と言うと聞きます。これを端的に言うと、衆生(=民衆、あるいは「生命」の全体と理解していいと思います)に仏知見(仏の智慧)の開示悟入(かいじごにゅう)、すなわち、仏知見を「開き・示し・悟らせ・入らしむ」ということとぼくは理解しています。これは、別の言い方をすると、菩薩道の実践ということになります。
菩薩とは、成仏して彼岸に行ってしまうのではなくて、此岸(=現実世界)にあって、衆生の教化に当たろうとする人々のことと聞いています。要するに、自分だけを手っ取り早く「変えて」事足れりとするのではなく、人々と共に在って、人々の仏性=善性と成仏の可能性を信じ抜き、実践する人のこと、例えば「不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)」などが挙げられますが、こうした教説にもヒントが詰まっているのではないかと考えます。
そろそろ結びにしようかと思います。軽々しく「人生を変えよう!」を唱えることへの、ぼくの違和感の正体が、この稿をまとめることを通じて明らかになってきたように思います。これを書こうにも、読んでくださるだろう「あなた」がいたからこそできたことなので、心からの御礼を申し上げたいと思います。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!
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