【100分de名著を語ろう】2023年4月度『新約聖書』福音書③祈りという営み、ゆるしという営み
こんにちは。
本日(23/04/20)21時より、clubhouseにて「100分de名著を語ろう」定例ルームを開催いたします。今回は、第3回の放送内容「祈りという営み、ゆるしという営み」についてご参加のみなさまと話し合うことをベースとした会となります。話し合いの便を図るための「レジュメ」をご用意しておりますが、今回は私的に作成したブログへのリンクもご案内いたします。約3300文字のものとなりますが、ご覧くださいますとうれしく思います。
1)「祈り」と「願い」
まず初めに、「祈る」と「願う」という二つの行為をめぐって考えてみたい(略)その本質はむしろ、似て非なるものなのではないかと思うのです。
ハンナ・アーレントにおける「労働」と「仕事」(『人間の条件』より)
労働 「いのち」に祝福をもたらすもの
仕事 ものやサービスを作り出すもの
イエスにとって祈るとは、神の慮いを受け取ること
自分のことで心をいっぱいにするのではなく無心になろうとすること
2)「目覚めている」ということ
「祈る」とは目覚めている状態にほかならない
他の人の悲しみ、苦しみを映しとる、このことこそ、イエスに宿っていたもっとも特出したはたらきでした
イエスは弟子たちの弱さを受け容れているのです
3)神と人とは「取引」の関係であってはならない
私たちの内なる世界に「無」の場所、つまり、神の場所を準備することにほかなりません
「神殿」とは「神の家」です。そこを取引の場所にしてはならない、というのです
自分の行為と引き換えに、神が何かをしてくれるように願う、それは、神と「取引」をするのと同じこと
しかし、単に良く、優れた人になろうとするとき、人は苦しむ人、悲しむ人の姿が目に入らなくなるものです(略)いつしか自分の「弱さ」からも目を背けるようになります
愛が求めるのは、優れているという状態ではなく、等しいということだというのです
4)「善い行い」は隠されなければならない
あなた方の父は、あなた方が願う前に、必要とするものを知っておられるからである
しかし、あまりに強く願うとき、神への信頼は揺らいでいるのかもしれません
5)「人をゆるす」ための掟
重要なのは「神の掟」と「人間の造った戒め」あるいは「人間の言い伝え」の関係です
6)誰かをゆるすことは、自分がゆるされること
誰かを裁こうとするとき、私たちは自分の中の罪——自分が不完全であること―—を忘れているということなのです
7)神を罵りながらも、神に近づいていく
イエスは、決して「裁く」ことをしない人
問うべきは「信じる」とはどのような営みか、ということです
私たちは誰も他者の信仰を判定することはできないし、してはならないのだと思います
8)追記①(別建てのブログとしました)
このnoteをまとめている最中に、「書き忘れた!」と気づいたことがありましたので、別建てのブログを起草いたしました。
9)追記②
※4月22日(土)以降、さらに追記があった場合は、ツイート等でお知らせいたします。
今回のレジュメは以上となります。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。ときどき課金設定をしていることがあります。ご検討ください。もし気に入っていただけたら、コメントやサポートをしていただけると喜びます。今後ともよろしくお願い申し上げます。