熾火 ※創作大賞に参加しています。
熾火
1998年10月(1)
まだ夜も明け切っていない頃、疲れの取れない身体を持て余していた昌行は、このまま起きてしまおうかと考えていた。すると、部屋のドアを誰かが叩いたような気がした。その音の主は、父の義和だった。
「明日までに今月分の返済があるんだよ。すまないが、10万円ほど用立ててはくれまいか」
何だって? 昌行は耳を疑ったが、それ以上に、新築して10年ほどになろうとしているタニナカ・ベーカリーの店舗兼家屋の返済が、それほどまでに逼迫していることに驚いた。いや、そうではない。昌行は谷中家の財政の窮状を知っていたはずだった。
山手線に接続する私鉄沿線の商店街で、谷中義和と妻・峰子は、先代から続くタニナカ・ベーカリーを手堅く経営していたのだが、狂乱地価という時代のうねりに飲み込まれ、借地権の更新に合わせて大きな賭けに打って出た。当初はあくまでも「増改築」程度の計画だったところだが、昌行の知らぬ間に、猫の額ほどの土地の上に5階の「ビル」を建てる計画に膨れ上がっていた。その図面を見せられるまでの間、信用金庫や銀行の支店長クラスが日参し、「どうか私どもにご融資をさせてください」と平頭していた。それを見聞きしていた昌行が、数十年にわたり地道に商売をしてきた父母を誇らしく思っていたことは間違いなかった。しかし、大学院への進学も視野に入れていた昌行は、その不安をついに伝えることができないままでいたのだった。
数回の院試を経たものの、結局は進学を取りやめた昌行は、母校の桐華大学近くに借りていたアパートから、実家の空き室に戻っていた。新築なったタニナカ・ベーカリーの売上が好調だった時期は、10年もなかったかもしれない。階上に入っていたテナントが退去してしまった後の新しい契約は決まらず、カレー・ショップを開いたことは傷口を更に広げただけではなかった。次男の昇が何とも病名のつかぬ病に倒れていたのだった。にも関わらず、昌行はサプライ・システムズの勤務を続けていた。そう、「にも関わらず」――。
1998年10月(2)
正直なところ、昌行は月にいくらを返済をしているのか、そのためにどれくらいの売上げが必要であるのかを、昌行は知らずに過ごしていた。より正確には、知ろうとしてはなかったというべきであろう。この日昌行が用立てた10万円が、どの程度の足しになっていたのか、もちろん見当はつかなかった。父には父の、自分には自分の人生があり、それぞれに歩んでいると昌行は思っていたのだが、ひとつ所に住まわっている以上、それは勝手な思い込みに過ぎないことを感じるようになっていった。
現金で10万円を用立てるには、さすがに銀行に立ち寄る必要があったため、昌行はこの日、出社が遅れることを申し入れた。10万円を父に渡して出社した昌行は、上司の谷津に声をかけられた。
「谷中くん、よりによってこんな日に遅刻とは君らしくないな。まあいい。あとで社長から話があると思うので、そのつもりでいておいてな。私も同席するから。」
やれやれ。何があったって言うんだ。谷津部長からの一言を、怪訝な面持ちで昌行は聞いていた。「社会人」としてのスタートが遅かった昌行にとって、このサプライ・システムズは2つめの勤務先だった。昌行は、この勤務先が受託していたパソコンのユーザー・サポート業務のほとんどを、谷津の下で取り仕切っていた。そしてこの部門は、サプライ・システムズ社を実質的に支えていたと言ってもよかった。
「失礼します、谷中です。今朝方は出社が遅れてしまいまして、大変申し訳ありませんでした。」
「さっそく急な話で申し訳ないんだが、谷中くん、君には新設の部門長として社外常駐してもらおうと考えているんだ。君の後任には、須永くんを充てようと思う。」
谷津が昌行に語りかけた。谷津が話し終えるのを待って、安斉社長が話を継いだ。
「谷中くん。サポート部門をここまで育ててくれたことを評価し、感謝もしている。もう3年目にもなることだし、次の部門を手掛けてはもらえないかな。」
「過ぎた評価をいただき、ありがとうございます。しかしながら、単刀直入に伺います。この異動、何か別の意図があるようにも思えるのですが。差し支えなければ、それを聞かせてはいただけませんか。」
安斉からの目配せを確認し、谷津が口を開こうとしたが、それを制して安斉が語った。
「実はね・・・、君が育ててくれたサポート部門は1年後に閉鎖せざるを得なくなったんだよ。」
昌行は突然のことに言葉を失った。
1998年10月(3)
昌行が2社めの勤務先としてサプライ・システムズへと転職したのは、1996年4月のことだった。「30歳程度まで」とあった求人広告に応募した時、昌行は、既に31歳だったが、3月が誕生月なので、新年度には32歳になってしまうことになる。それでも何とか滑り込んだ昌行は、今後拡張されるというサポート部門への配属を希望した。
1995年11月に、A社のオペレーション・ソフトが発売されると、個人向けパソコンの市場が爆発的に拡大した。それと併せるように、パソコン・メーカー各社にとっては、ユーザー問い合わせの窓口拡大が急務となっていた。サプライ・システムズは、B社のサポート窓口業務の一部門の受託に成功し、部門を急拡大しているさなかにあった。
それからほぼ3年が経った。問い合わせ時間の拡張や、電話回線数の増強等、B社の要望には、概ね応えてきた。しかし、B社のサポート体制が一新されることが決定され、サプライ・システムズが受託していた部門は、統廃合されることとなったのだ。昌行には、自分が在籍する部門の閉鎖が現実になるとは、考えが及んでいなかった。
「それならばせめて・・・」
昌行は、自分の手で拡張した部門の幕引きは、自分の手でしたいと思ったのだ。しかしその仕事は、後輩の須永陽平が担うことになっていた。ぼくが幕引きするとなると、情が絡んでくると判断されたのかな、須永さんには申し訳ないことになったなと思いながら、昌行は自席に戻った。
昌行が自席に戻るのを、須永は待っていたようだった。
「谷中さん、ちょっといいですか」
「そうですね、手短に話しておきましょうか」
入社の年次では昌行が先だったが、須永は昌行より年齢が上だったので、昌行は後輩扱いはせずに敬語で接していた。須永とは、単に業務を引き継ぐことだけではなく、サポートを担当している派遣社員たちが不安にならないようにすることを打ち合わせなければならないだろう。どうやら受けた指示以外にも、やるべきことは多そうだなと思った、須永に応えて喫茶コーナーへ向かった。
1999年8月
定例の部門間会議のため、昌行は常駐先からサプライ・システムズの本社に顔を出した。急な異動から、既に8か月が経つ。昌行が本社に顔を出すその度に、後任の須永の評判が、派遣スタッフの間で悪くなっていることを昌行は耳にしていた。谷中さんがいてくれていたら、こんな風にはなっていなかったのに、と言われているようだった。
しかし、須永の評判がよくないのは、ひとり須永だけの問題ではなかった。別の正社員がうっかり、この部署は閉じられる、会社自体も危ないらしいと話してしまったことで、派遣スタッフの間に不安が広がったためだ。
「須永さん、寡黙だからなあ。」
会議を終えて、昌行は直帰した。もう自分には何もできないことが、昌行にはつらく感じられた。
異動先で昌行を待っていたのは、やはりユーザー対応の窓口業務ではあったが、いわゆるクレーム対応と呼ばれるものが相当の比率を占めていた。一件一件に、いや、一瞬一瞬に前回までとは異なる判断と決定が求められる。
それに加えて、昌行は年下の社員たちの案件を引き取った個別対応が日課となってしまっていた。残業時間も長くなる傾向にあった。
一方、谷中家にあっても、昌行は微妙な立場であった。義和が返済の用立てを依頼してきたのは、あの時以降一度もなかったが、家族たちの心はささくれだっていた。昌行は帰宅すると、タニナカ・ベーカリーとカレー・ショップの新商品やセールなどのアイディアを、家族たちと語り合った。しかし、起死回生となるようなアイディアなど出しようもない。売上げが低迷してきていたのは、谷中家だけではなく、それは商店街全体に及んでいたのだ。こうして、昌行は仕事と家族との間で、確実に疲弊していった。
大きな事件は、2000年2月に起こった。1999年末に閉鎖したサポート部門にいた契約社員の一人が、自死したのだ。あくまでも個人の問題が原因と伝え聞いていたが、斎場で必死に案内に当たっていた須永の表情は、何かを物語っているものとして、昌行の目に焼きついていた。この頃には、既に昌行は業務に関わるB社の新製品情報に関心が持てなくなっていた。また、この前調子がよかったのはいつだったか覚えがないんだよなあ、と同僚を笑わせてみるものの、その笑顔には力が感じられないようになっていた。
2001年6月
2001年となり、世紀をまたいだことになるが、昌行の置かれている状況は変わることはなく、疲労は募っていった。6月のある朝、目を覚ましたものの、昌行はそのことを強く後悔した。なぜ、目が覚めてしまったんだろう、あのまま目が覚めなければよかったのに・・・。そう感じたのだろうか。いや、そうではない。そのように感じることすらできていなかった。全くの虚無感。戸惑うことすらできず、昌行は携帯電話の電源を切り、固定電話のモジュラーケーブルを引き抜いた。何もしたくないとさえ、意志できなかったのだ。その日から昌行は、一週間無断欠勤を続けた。
それから何日が経ったのか、昌行は覚えていないが、母の峰子から、上司の谷津が訪ねてきたことを告げられた。社としては、昌行を休職扱いとするので、一刻も早く産業医の診察を受けてほしいということだった。しかし、昌行が電車で一時間をかけて、その産業医を訪ねることができたのは、実に一か月を経てからのことだった。訪ねた先では、即座にメンタルクリニックの受診を指示された。その足で向かったクリニックでは、「うつ状態」と診断され、抗うつ剤が処方されることになった。
2000年からの数年間、「こころ」を病む勤労者が激増していた。その当時は、「うつは心の風邪」という、いわばキャンペーンが張られていたようなものだった。「風邪」であるというのは、いくつかの含意があるように昌行には思われた。まず、風邪であるので誰もがかかりうる病気であるが、適切な治療が行われば回復が可能であること、しかしその一方で、死に至る病も含めた「万病の元」でもあるということを、昌行は感じ取っていた。「死に至る」とは、すなわち自死のことである。
昌行は、精神科の臨床について、いささかの関心があった。それは、弟の昇が「精神病」あるいは、精神分裂病と当時呼ばれていた統合失調症の疑いがあることと関係があった。昌行は、自分の症状についても本を読んでいた。様子を伝えに出社した際には、脳内の伝達物質のバランスが乱れていることがこの病の原因であると、淀みなく谷津と安斉に説明してみせた。
しかし昌行は、復職を焦っていた。できる限り早く復職するべきだと考えていたのである。2000年代の始め、サプライ・システムズのような中小の企業では、未だメンタルヘルスについての知見は共有されておらず、復職についてのプログラムは未整備の状態であった。結果、昌行の復職は見切り発車でしかなかった。加えて、昌行は休職の制度がいかなるものであるかの知識も十分に持っていなかった。制度上では、もっと十分な休職期間と傷病給付金が得られたのだが、それを活かし切ることはできなかったのである。
結局のところ、昌行は2001年の5か月間のみ休職をして職場に戻った。サポートの現場からは退いて、社内での教育にあたる部署に配属されたのだが、年度替わりに再び体調を乱し、再度の休職を余儀なくされた。この時、社からは完治させてから復職することを言い渡されていた。
2002年6月
2002年4月から、昌行は再度の休職期間にあった。この年、昌行は社内のメンタルヘルスの支援体制が脆弱なことに思い至り、自費で初級産業カウンセラーの養成講座を受講することを決めていた。これから半年の間、毎月一回、東京の飯田橋の講習会場で、午前中の座学と午後の演習に取り組むことにしたのだ。
座学は大教室で、演習は小グループに別れ、それぞれの小教室で10名程度の受講者と、2人の指導者とで行われる。午前中の大教室では、隣り合った同士で語り合う姿もあった。同じ勤務先から受講に来ているだろうことが推察された。
6月、3回目の座学が終わり、昼食に向かおうとする昌行を呼び止める声があった。
「あの、谷中さんですよね・・・」
昌行を呼び止めたのは、桐華大学で3年後輩の千々和雅実だった。
「10年以上経ってるから、わかりますか? 千々和です」
昌行は、すぐに彼女だとはわからなかったのだが、それは母校の英文学科に学んでいた千々和雅実だった。
「中学の教員、辞めたんです。今はフリースクールに勤めてて。フリースクールってご存知ですか。でも、どうして谷中さん、こんなところに来てるんですか?」
手短な挨拶を交わしたあと、雅実は午後の演習後に落ち合うことを昌行と約し、同僚らしき女性たちと昼食に向かっていった。事情を把握しきれないまま、昌行も一人昼食に出かけていった。
この講習では、カール・ロジャーズの来談者中心療法を主として学ぶことになっていた。コールセンターという心理的に負荷の高い職場では、メンタルヘルスケアの向上が不可欠だと昌行は感じていた。それを上長たちに具申することもなく、彼は受講を決めたのである。
昌行には心理の臨床についての関心が元々あった。木村敏や河合隼雄らの著作を数冊読んでいたものの、今回のロジャーズの名前は、初めて見聞するものだった。
コールセンターの業務に高い適応力を見せていた昌行は、この演習でもその能力を発揮した。本当は経験者ではないんですかと、受講生も指導者たちも、昌行を称えるようになっていた。その上で、この日は思いがけない再会があった。演習を終えた昌行は、雅実と落ち合うため、約しあったコーヒーショップへ向かった。
「うつ病なんですね・・・。お辛かったでしょう」
「さっそく勉強したことを応用してるんですね」
カウンセリング講習で学んだ「共感」を見事に示した雅実に、昌行からはしばらくぶりの笑顔がこぼれた。
「あら、ホントですね。でも谷中さん、自腹だったんですね。えらいなぁ」
昌行から発症までのおおよそを聞いた雅実はこう続けた。
「それで、私は谷中さんに何ができるんですか。何をすればいいの?」
虚を突かれた昌行は、言葉を失ったが、時々こうして会ってくれるとうれしいと継いた。
「そんなことなら、お安い御用ね!」
昌行は声を上げて泣いてしまいそうになった。
2002年12月
自身がメンタルを患った経験を活かして、職場環境を向上させようと昌行は考えていた。テクニカル・サポートなどのコールセンター業務は、心理的・感情的な負荷が大きい。単なる愚痴を言ってガス抜きするだけではなく、もっと上手に仕事とつき合えないかと昌行は考えた。彼が学んでいた産業カウンセリングとは、職場にあっては産業医への「つなぎ役」を果たすものと考えていい。事前に「黄信号」を察知して、早めに適切な対処をしようというのが、その職責の一つである。
2000年前後には、心理職資格の制度化が本格的になるなどの大きな動きがあった。産業カウンセラーと言っても、立場上では補助的なものと考えてよく、勤務者に精神科やメンタル・クリニックの受診を助言する程度のことがせいぜいであったとも言える。その意味では、昌行はこの資格には過大とも言える期待を抱いていたと言ってよかった。昌行は、よくも悪くも真面目な理想家だったのだ。この制度を職場で活用できれば、自分がうつ病になった経験も活かせるものと考えていた。
一方、雅実は大学を卒業した翌々年に、故郷の長崎で教職に就いていた。1991年のことである。しかし、雅実もまた重責の下で体調を崩してしまう。結婚した後に知己を得て、神奈川のフリースクールに移ったのは、昌行がサプライ・システムズに就いた1996年のことだった。念願していた通りに教職に就いている雅実が、昌行にはうれしかった。
「谷中さん、勉強はどうですか?」
「この前なんか、ロールプレイングでクライアント役の人の悩みを解決しちゃったよ」
そう言って、昌行は笑ってみせた。実際、昌行は実習で高い適応力を見せていた。それは、コールセンターの業務で受けていた訓練が生きたからかもしれない。昌行は、知らないうちに他人に話を聞く力が身についていたのだ。
「このままプロになっちゃうのもいいかもしれませんね」
「いやいや、カウンセラーの開業だなんて、とてもとても。それより、復職できても、この実習を活かせるとは限らないだろうしね」
「いいカウンセラーさんになれそうな気がするんですけどね。もったいないよなあ」
「ありがと」
昌行の心を、温かいものが満たしていた。
2002年冬――。その産業カウンセラーの資格試験が実施された。雅実は午前中、昌行は午後の実技試験を受験した。
「お待たせしました」
「ちょっと待ったかな。どうでしたか?」
「上ずった答えしかできなかった。『自分の経験を活かして、メンタルヘルスの向上に役に立ちたいです』なんて言っちゃったしね。筆記はよくできてたんだけどなあ。千々和さんはどうなの?」
「わかりませんよ・・・」
「あのね」
「何でしょう?」
「今、職場に復職を打診しているんだ。」
雅実は、うれしそうにして見せたが、口には出さない不安も抱えていた。
2003年2月
明けて2003年、2月に資格試験の結果が通知されたものの、昌行は合格には至らなかった。同期の受講グループの仲間は残念がり、受験資格が継続する来年の再受験を勧めてくれた。
昌行の心身の様子は、相当程度に安定しているように見えた。年末の試験に際して雅実に告げてあったように、昌行は職場に再度の復職を打診していた。今度こそは・・・。昌行には期するものがあったが、その復職の決定は、いささか拙速と言わざるを得なかった。
2003年度になって、昌行は再度の復職を果たしたが、彼を待っていたのは別のサポート窓口の対応要員としての辞令だった。昌行は、半年と経たず変調に見舞われた。その業務は、対応件数の出来高によって会社の売上げが上下する契約だったので、雇用形態を問わず、スタッフたちには、一件でも多くの対応件数がサプライ・システムズ社から強く求められていた。
昌行は、その窓口の構成メンバーの中にあっては、年長の部類だった。一定の勤続年数があり、「ベテラン」と見なされていたため、十分な事前の研修もなされなかった。
ある日、年下の上長から、対応件数のことで苦言が呈された。
「谷中さんくらいのベテランで、会社の事情もおわかりのお立場なら、対応件数に見合った給与に引き下げてもらうような打診があってもしかるべきと思うんですけどねえ」
屈辱であった。自身が新人研修を担当した相手から、そのようなことを言われるとは。この日を境にして、昌行は通勤の電車の中で、しばしばめまいを感じるようになった。通勤途上で社に連絡を入れて、欠勤を願い出ることが重なった。
さらに12月。ついに昌行は社長の安斉に呼び出されることになった。
「谷中くん、どうだろう。体調もよくないようだし、この際離職して、完治を目指してみるのがいいんじゃないかな。それが君のためなんだと思うんだけどね」
口調こそは穏やかだったが、昌行にはいわゆる最後通牒と感じられた。そうだよな、こんなポンコツには用はないよな・・・。
「お気遣い、ありがとうございます」
昌行は2004年1月末で退職した。人事に掛け合ったものの、自己都合扱いの退職でしかなかった。
実は、2003年の6月頃から、昌行は転職活動も進めていた。確かに再度の休職に入る時、「復職は完治してから」が再復職の条件だった。4月の異動については自信がない、再考してほしいと度々申し入れたものの、この復職は完治を意味しているから、是が非でも異動は受け入れてもらうと、はねつけられていたのだ。
退職が先になってしまった昌行の転職活動は難航した。そのことは、昌行をさらに蝕んでいった。
2004年2月
谷中家にあって、昌行は三男一女の長男であった。既に病を得ていた次男の昇、デザイン系の専門学校を卒業して、雑誌広告のレイアウトをしていた妹の咲恵、さらに末弟の滋があった。昌行が職を失った2004年2月には、滋は妻・由美子と住んでいた。また義和の母・光江は施設にあった。
タニナカ・ベーカリーと、併設されたカレー・ショップの経営は芳しくなかったものの、綱渡り的に営業は続けられていた。この両店舗は、義和・峰子夫妻と、弟・滋に加えて、アルバイト学生で切り盛りされていた。滋の妻・由美子も勤務の傍らで様々なアイディアを捻出して経営をサポートしていた。
しかし、昌行は自身の病のために、その「蚊帳の外」にあった。そのことは、昌行を疎外されていたことを意味している。義和に頼まれて返済資金の一部を用立てた日から、いつしか6年近くが経っていた。
弟の昇が、どうやら統合失調症であるらしいことが否定し難くなっていたのもこの頃だった。当時はまだ「精神病」「精神分裂病」と言われていたが、やがて呼称が「統合失調症」と変わることを、昌行は情報として既に得ていた。昌行ができる家族へのサポートは、主にこの側面に集中していた。
谷中家の人びとがある種の限界を自覚したのは、2004年の秋だった。奇行が目立つようになっていた昇が、誰か俺を止めてくれと大声を上げながら、4階の窓に向かって突き進んでいったのだ。その場に居合わせた滋が羽交い締めにして事なきを得たが、昇の自宅療養は、これ以上続けることはできないと、誰もが思った。幸い、由美子には看護師を務める妹があった。その彼女の助言もあって、昇は精神科に入院することになった。皆が疲弊していた。そして翌2005年、光江が逝いた。
2005年7月
祖母の光江が逝いた。享年91歳なので、もはや大往生と言えるのだが、昌行は自身の病のため、特老に入っていた光江の最晩年の記憶はほとんどなかった。かえって、遠ざけてさえいた。
葬儀は夏であった。そこに集まった谷中姓の人びとが、義和から見た場合の本家筋にあたることを、この時改めて昌行は理解した。気忙しく、かつ気丈に立ち振る舞っていたのは、むしろ峰子であった。義和の弟・秀明に献杯のあいさつをさせた上で、本家の連中と顔をつないで回っていた。その峰子に比して、義和や秀明は、何とも頼りなげに昌行には映った。そして「次」、つまり義和が逝く時には、自分が峰子に代わって遺族を代表してあいさつするだろうと直感していた。
さて谷中家は、一家全員が法華経系の仏教団体・桐華教会に入信していたが、中でも光江が熱心な信徒だった。昌行の記憶には、仏壇の前に端座して、静かに「南無妙法蓮華経」の題目を念じていた姿があった。光江には学はないものと昌行には思われたのだが、幼い昌行の鼻炎が治るよう、「鼻の流通がよくなりますように」と常々念じていた姿が思い起こされた。そのおかげとは思えないものの、長じた昌行が鼻炎に悩まされることはなかった。
「ああちゃん、流通なんて小難しい言葉、どこで覚えたんだよ。冷たくしてて、ごめんな」
にぎやかな語らいの場にあって、幼い日と同じ呼び方で、昌行は一人静かに光江に語りかけていた。
初期の胃がんのために入院していた光江に、桐華中学合格の報を携えて、母と見舞ったという記憶も昌行にはあった。峰子と光江は、この進学について熱心だった。元来「おトラ婆さん」だった光江が、すっかり大人しくなってしまったのは、退院後のことだ。そのような思い出もまた、去来していった。光江の死去は、谷中家にとってはむしろ求心力として作用したことは、間違いなかった。
しかし、谷中家の人びとにはこの辺りまでが限界だったのかもしれない。昌行の預かり知らぬところで、ベーカリーの店舗ビルを競売にかける話が進んでいたのだ。義和・峰子夫妻と滋がその話の中心にあったが、桐華教会が支援している朋友党の区議や都議、また、同じ桐華教会の信徒であった弁護士らとの協議が進められていた。もうこれ以上はがんばる必要はない、生活保護の受給を選択することは恥ずかしいことではないと諭されていた。協議の中心課題は、まさにそこにあったのだ。
2006年3月
谷中家の4人の兄妹のうち、実に2人が病床にあった。長男の昌行はうつ病が既に5年間回復せず、次男の昇に至っては10年以上も精神病(のちの「統合失調症」)であって、光江の葬儀の時期には精神科病棟に入院していたのだ。谷中家を公私に渡って支援していた人びとは、生活保護の受給を開始してはどうかという点で一致していた。問題は、入院している昇の扱いであり、所帯構成をどうするかという点だったが、昇の退院後に受給が開始できるよう準備を進めることになった。
実は、この検討に際しては、昌行は実質的にはほどんど、いや、全く関与していないと言ってよかった。うつの状態が思わしくなく、光江の葬儀に際しても、無理を押して参加したのであった。また、昇は主治医の許可を得て、一時退院しての臨席だった。
2000年頃からの「うつは心の『風邪』」というキャンペーンの含意とは、「風邪」であるので「治るもの」という点にあったはずだが、昌行の病状は改善されなかった。同じところを行き来しているように昌行には見えていた。派遣登録をしたり、アルバイト要員としてごく短期間働いたことはあったものの、すぐに勤務不能になってしまっていた。そのことは、昌行の自己評価を著しく損ねていった。
その頃昌行は、日本の社会とは人を使い捨てるものなのだとい点に思い至った。「即戦力募集」とは、聞こえはいいが、それは「弊社では従業員に教育を施しません」ということとほぼ同義だったし、派遣が最先端の働き方であるという思い込ませは、不安定で辞めさせやすい職場へと変化してしまうするきっかけとなっていた。使いたい時にだけ集め、用が済んだらそれで終わりだという。人材の「材」の字とは、材料の「材」であり、廃材の「材」であると昌行には感じ取られていた。
昌行が再就職のために奮闘していた頃とは、若くて安くて、不安定(=辞めさせやすい)な人材活用へとシフトしていた時代であった。昌行の時給は、職場を移る毎に減っていったようなものだった。
やがて昇の退院が決まり、それと前後して競売や退去の日程も決まっていった。転居先を決めるのに尽力したのは、咲恵と滋だった。所帯の構成も、義和・峰子・昇の3人所帯と、昌行の単身所帯とを分けることが決まった。滋はそのまま由美子と暮らし、咲恵も新しくアパートに転居することになっていった。そして2006年3月、弁護士にベーカリーの鍵を明け渡して、谷中家の人びとは、それぞれの居に移っていった。荷物をまとめる暇はなかった。それはほとんど、夜逃げとも言ってよいものだった。
2007年4月
谷中家の人びとが、ベーカリーを営んでいた区内で転居した上で、生活保護を受給する生活に入ってから一年が過ぎようとしていた。腰の高さほどもある大きさの犬を連れて散歩に出る人びととすれ違うような住宅街の一角にあるアパート・岸野ハイツの一室を昌行は借りていた。周囲には、同じ岸野の表札がかかっている家が立ち並んでいる。岸のハイツの大家もやはり岸野姓であった。
アパートの管理会社の担当者は、いかにも二代目社長といった風情で、家賃のやり取りも地元の信金の口座への振り込みを指定されていた。つまりは、代々住み着いている、この土地の名士たちが住む住宅街ということだ。隣家の人々とは、朝にゴミを出す時あいさつを交わす程度だったが、商店街でのしがらみが煩わしかった昌行には、むしろそれが心地よく感じられていた。そして昌行の病状は、この頃少なからず安定していたように見えていた。
弟の昇も、統合失調症特有の幻視や幻聴があるものの、返済の重圧からの解放されていることを感じているようだった。滋は少しの間だと言い訳をして、働きには出ずに気ままに振る舞っていた。咲恵は一人、クレジット・カード会社のコールセンターで派遣社員として働いていた。
この前後、義和は白内障の検査や補聴器の調整などで、いささか頻繁に病院に通っていた。2007年の4月のある日、義和たちのアパートを訪れていた昌行は、検査入院することになったと義和から告げられた。
「最終的には、心臓のバイパス手術が必要らしいんだよ。しばらく入院することになるんだけど、よろしく頼むよ」
父の口調は穏やかだった。しかし、その穏やかさとためらいのなさに、昌行はいささか反感を覚えていた。この一年余り、峰子の外出時に義和と昇の食事を手配していたのは昌行だったからだ。義和は、この生活に入ってからというもの、家事のほとんどについて口も手も出さなかった。齢七十を超えると、こうも動きが鈍くなるのかと、昌行は呆れていた。しかし、昌行をより呆れさせていたのは峰子だった。敬老会に入って、詩吟やらゲートボールやらで、文字通り飛び回っていたからだ。
そして昌行は、この頃はまだ社会復帰への意欲が持続していた。1枚配って5円というチラシのポスティングをしていたが、暑い盛りだったために、あまりの辛さと効率の悪さで続けられるものではないと判断していた。
その後義和は、近隣にある中規模の総合病院に入院していったが、日を置かず心臓の専門病院に転院することが決まった。心臓のほぼ半分が壊死していたのだ。
2007年7月
2007年7月、谷中義和は転院して心臓の手術を待っていた。
「昨日、病室の窓から花火が見えてねえ」
足繁く義和を見舞っていた妻の峰子は、アパートに戻って昌行に楽しげに語った。ちょうどその頃、昇は何度目かの再入院をしていた。排尿に手間取っていたため、カテーテルを挿入したのだが、尿道を傷つけてしまって高熱が出たためでもあるが、統合失調症の病状がよくはなかったことが第一の原因である。ベーカリーを畳んでアパートに移って以来、常に昇を気遣っていた峰子の表情には、開放された穏やかさがあった。
一方で昌行は、2004年に産業カウンセラーの受講者で集まった際、姿を見せなかった雅実を思っていた。その後も連絡が取れていないのだが、昌行にとっての雅実は、3年を経てもなお、単に同窓の後輩である以上の存在であった。その思いはまだ、雅実に伝えられてはいないままだ。しかし、タニナカ・ベーカリーからの退去や、光江の死去などの事情が昌行にはあったので、いつしか連絡が取れていない状況を受け容れてしまうようになっていた。
峰子を始めとして、昌行の弟妹たちが義和の入院先から呼び出されたのは、8月4日の夕刻だったが、この時は特に何事もなく帰路についた。
「お父さん、元気そうじゃないか。よかったね。手術って、いつになるんだ」
滋が口を開いた。37歳になっているとはいえ、末っ子の滋はこのような時、空気を変えてくれる。「退院したら、温泉にでも行きたいね」と、滋は笑ったが、「ああ、それは無理っぽいよなあ」と続けたのだった。
「こんな時なんだけど、いいかなあ」
言葉を継いだのは、咲恵だった。「いろいろ片づいたら、紹介したい人がいるんだよ」
それを峰子はうれしそうに見やっていた。タバコに火を着けた咲恵は、「できれば30代の内に結婚したいんだよね」と言った。
「何だ、お母さんも知っていたんだ」
続けて滋が、おどけて言った。平穏を取り戻しつつある家族たちの表情を見て、昌行は安堵していた。
「次は昇の退院だね」
峰子が語った。一進一退を繰り返している昇を見ていて、統合失調症は治る種類の病気ではなく、一般的には寛解と呼ばれる状態を目指すべきものであることを峰子に説明してはいるものの、それが受け容れられると昌行は考えてはいなかった。じっくり取り組むしかない、長期戦だ。昌行は、そう考えていた。この時昌行は自覚できていなかったのだが、谷中家にあっては、昌行は常に長男という役割を負っているし、峰子も弟妹たちも、それを受け容れているのであった。
2007年8月(1)
心臓疾患の手術のために入院した谷中義和を、妻の峰子は頻繁に見舞っていた。2007年8月4日には、峰子と、入院中の昇以外の子らの計4人が呼び出されたが、その時は幸い大事には至らずに済んでいた。手術の日取りがなかなか決まらないようだったが、峰子が義和を訪ねている間、2人は静謐な時間を共有していたに違いない。
8月15日の午後、病院にあった峰子から、緊急の連絡があった。昇のほかにも、義和の弟妹たちを連れて来るように言われているとの用件だった。4日のことがあったので、今回は昇に病院から外泊の許可が下りた。4人の子らと、義和の弟・秀明、妹の美津子と芳恵らの全員が揃ったのはその日の深夜だった。その日以降、当番を決めて義和の入院先で誰かが寝泊まりすることを皆で決めた。
「奥様とお子様にご説明いたしますので、部屋を移ってくださいますか。」
担当医からの申し出があったのは、8月17日の21時頃だったはずだ。義和はいま、集中治療室で眠っている。開胸したものの、心臓が半分以上壊死していた。手術は無事に済んだというが、あとはご本人次第だと執刀医は語った。予定を繰り上げての、緊急の手術だったらしい。
この席上でも滋が沈黙を破った。
「あの、『ブラックジャック』みたいに直接心臓を握ってマッサージするってどうなんでしょうかね?」
担当医の顔が若干曇ったように昌行には思われた。しかし、滋は真剣に聞いていることを昌行は理解していた。峰子からも言葉がない。このままでは散会になってしまうが、まだ肝心なことが話されていなかった。昌行は意を決して、その場を引き取るように担当医に尋ねた。
「要するに、どうなれば父は生還して、どうなると死亡ってことになるんでしょうか?」
さすがにこれは峰子から訊かせるわけにはいかない。これは自分の役割だ。昌行には、そう確信していた。
「夜が明けるとご家族の皆さんが集中治療室に入れるようになります。朝7時です。その時に目を覚まされていたら・・・」
そうなのか。やはり自分が口火を切ったことが正解だったと、昌行は確信を深めた。
あと9時間は長いなと、その時皆が思っただろうが、そのように口にするものはいなかった。交代で寝泊まりするようになって既に3日めなので、皆が疲労し始めていた。口数の少なくなった滋の前で、努めて明るく振る舞おうとしていた秀明や美津子にも、困惑の表情が浮かんでいた。
「コンビニでおにぎり買ってくるわ。お腹空いてるでしょう」
美津子が言ってくれた。深夜3時だった。
「みんな、食べないとだめよ」と、美津子は続けた。
外の様子がわからなかったので、今が何時頃なのかについては時計の表示だけが頼りだった。そして8月18日の午前7時が谷中家の人びとに訪れ、集中治療室に招き入れられた。
2007年8月(2)
「ぼくたち家族は、朝7時に開いた集中治療室への入室が許され、父・義和と対面することになりました。ぼくの心持ちは、自分でも驚くほど静かでした。少なくとも、生きていてほしいと強く念じているようなことはなかったと思います。今にして振り返ると、そこで行われたのは、父がもはや生きているという状態ではないことを確認する手続きだったのでしょう。儀式ではありませんでした。担当者の口からは、ドラマのよう『ご臨終です』といった言葉はなかったのではないでしょうか。しかし、ぼくたちの間には、父が帰らぬ人であるとの認識が共有されていきました。
始めに泣き出したのは滋で、続いて咲恵が泣き崩れました。おかしなもので、先に泣かれてしまうと、ぼくはますます冷静というか、平静になっていきました。母の峰子が泣いていたかは覚えがありません。
しばらくして、ぼくは滋の後ろに立ちました。そして、滋越しに父のまぶたを広げて、『こいつがあんたを必死に支えてきたんだ。勘違いするなよ、ぼくじゃなかったんだからな』とひと芝居打ったのです」
昌行は、後日ブログでこのように綴っていた。
日が高くなっていった。事務的な手続きが進み、遺体は葬祭場へと移されていった。生前つき合いがあった主だった人たちへの連絡が行き渡り始めたのか、あいさつに訪ねてくる人もあった。火葬の予定は混雑していたので、約一週間先となったその日までは、冷凍されての安置ととなった。その約一週間は、特に桐華教会関係の訪問者たちから、丁重なあいさつが述べられていった。
ところが、問題は葬儀の費用だった。この前年には、光江の葬儀を一般的な形式で出せたのだが、今回は違っていた。生活保護の範囲では、実は通夜と告別式を出せる費用は支給されなかったためであった。この頃既に桐華教会では、過度な規模での葬儀を出すことはしなくなっていたのだが、それでも血縁関係者に声をかけない訳にはいかない。昌行たちは検討を重ねて、告別式に相当する「送る会」を、桐華教会の地域施設で行うことを決めた。幸いなことに、教会の施設長は顔見知りであったため、この申し出はむしろ快諾された。一度は入院先に戻ることになった昇にも、送る会の前後には、外泊許可が下りることになった。
火葬までの約一週間をどう過ごしていたのか、谷中家の人びとにはあまり記憶がない。慌ただしかったのか、静謐だったのか。暑かったのか、そうでもなかったのか。
一つ確実に言えるのは、義和が入院した後の約3か月というものは、峰子との間に初めて訪れた、夫婦水入らずともいうべき時間であったということだ。義和と峰子の人生とは、仕事と育児に追われての日々であったことを、昌行はある痛切さを持って思い返していた。その3か月があったことは、もしかすると2人にとっては幸福なことだったかもしれないと彼は思っていた。
葬儀の当日を迎え、峰子の兄妹たちも何人かが上京してくれていた。ただし、荼毘に付している間、休憩できる控室を用意することは、支給額の範囲ではできなかった。峰子は悔しい思いをしているだろうことを想像することしか、昌行にはできなかった。
2007年8月(3)
斎場には主として親戚筋の者たちが集まっていたが、それ以外の弔問者には、控え室が用意できない事情を話して帰ってもらうこともあった。
火葬が終わり、遺骨を収めた後で、親類縁者はタクシーに分乗して桐華教会の地域施設へと向かった。「送る会」の会場には、斎場への来場を遠慮してもらった教会や商店街の知己たちが、既に集っていた。
「あとはよろしく頼みます」
峰子は昌行に耳打ちした。
遺骨や遺影を会場の前方に配すると、「送る会」が始まった。始めに、故人を送るために法華経の一部が読誦された。教会は仏教系の団体だが、僧侶の姿はなかった。友人同士で一切が執り行われるようになったのだ。続いて何人かが挨拶を述べた後、最後に遺族を代表して、昌行が返礼の挨拶を述べた。
「本日はお暑いところ、父・義和のためにこうしてたくさんの皆さまにお集まりいただき、本当にありがとうございました。母・峰子に代わりまして、私・昌行が一言御礼のごあいさつを述べさせていただきます。
ご承知おきのとおり、私どもはタニナカ・ベーカリーの店を畳んで、昨年より福祉によって生活をするようになりました。また、義和には4人の子がありながら、遂に孫を抱かせることは叶いませんでした。しかしです。そのことは、義和が幸せではなかった、負けであったということを意味するものでしょうか。私はそうは思いません。
入院して3か月の間、義和と峰子は何に追われることもなく、夫婦水入らずの時間を、ほとんど初めて過ごしていました。また、手術のあとも、全く苦しむことなく、極めて穏やかに逝きました。そのことは、義和は勝ったということの証しなのだと、私は確信しております。
この父の姿が示してくれたものは、人間は人生を諦めて、負けを認め、受け入れることがない限り、人としての尊厳を失うことはないという、厳然とした事実だと思います。父は満足して霊山へと旅経ちました。日蓮大聖人からも、お褒めをいただいているものと思います。
皆さま方に置かれましては、どうか、晴れやかに父を送っていただき、今後も変わらぬご指導を私ども谷中家にいただけますよう、心からお願い申し上げ、あいさつとさせていただきます」
人びとが会場から掃けたあと、滋が昌行に語りかけた。
「愛知の連中が、いいあいさつだったとすごくほめてたよ。いつ、あんな原稿書いたんだよ」
「いや、書いてなんてないよ。その場で思いついたことだよ」
「マジか。かなわんなあ」
「何泣いてんだよ」
「泣いてねぇよ」
滋は微笑んだが、その目には光るものがあった。もちろん、昌行も涙声だった。
熾火Ⅱ
プロローグ
それは一時的なことかもしれないが、谷中昌行のうつの症状は、父・義和の死去のあと、半年ほど経って若干軽快化しているように思われた。2005年から続いた、祖母・光江の死去、家業からの撤退、そして義和の死去といった大きな出来事のの連続は、むしろ昌行を躁に近い状態にさせていたのかもしれない。
そんな中、2008年2月のある日、昌行は不意に読書を再開するようになった。彼が通っていた桐華中学・高等学校は中高一貫の男子校で、国語科以外にも、理科や社会科の教員たちから、熱心な読書についての指導があった。それがきっかけとなったのか、昌行は少なくとも20代の10年間、熱心に読書をしていたのだった。
しかし、30代半ば以降は山手線を使った通勤と、何よりもうつ病を発症したことが重なり、昌行は2000年前後より読書から遠ざかっていた。むしろそれは、不可能になっていたのかもしれなかった。
それでも、この時手にしていたファンタジー文学の傑作『ゲド戦記』シリーズ全6巻が読了したことがきっかけとなって、読書を再開できたのだった。このことの意味を、昌行はまだ理解できてはいなかった。
昌行は桐華大学時代には文学部社会学科に在籍していた。社会学という学問を、昌行は「悪食」だと評していた。「社会学的な方法で」と断りをつければ、何でも対象とできるように昌行には思われていたのだ。最も昌行が関心を抱いていた社会学者は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したドイツのマックス・ウェーバーだった。ウェーバーの広範な関心領域の中でも、近代化論・社会変動論としても整理できる宗教社会学に強い関心を抱いていた。
桐華大学の創立者である宗教法人・桐華教会の川合賢治第3代会長(当時)は、開学以来折に触れて大学で記念講演を行っている。川合の文明論とは、文明の基底には宗教が伏在し、力強い宗教、例えばキリスト教や仏教は、文明をリードし、方向づけ得るというものであった。ウェーバーの宗教社会学理論は、この川合の文明論と響き合うようにも昌行には思われていた。また、桐華教会の教学で展開されている生命論は、フロイトやユングなどの心理学などとも呼応していた。
しかし、川合会長は、教学、つまり信仰の理論的裏付けとして学問の成果を濫用することを、厳しく戒めていた。学問が信仰の従属物であってはならないという信念もまた、昌行が学んだことの一つであった。昌行が、この大学で教鞭をとりたいと考えるようになったのは、無理からぬことだった。結果的にはこの希望は叶わなかったものの、昌行には学問ないし、学問的なもの・知的なものに対する敬意が自然と備わっていたのだった。
1987年12月
谷中昌行と千々和雅実の二人は、桐華大学の文学部に通っていた。昌行は1982年、雅実は1985年の入学で、それぞれ社会学科と英文学科で学んでいる。昌行が4年生の時に雅実が1年生として入学してきているので、2人は教室で出会ったのではなかった。学科も異なるのだから、なおのことである。
昌行は、大学院の入試を受けるために卒業を1年先に延ばしていた。つまり、大学5年の時に2回、浪人してさらに2回と、都合4回を受験していた。浪人生活中は、タニナカベーカリーの増改築のため、桐華大学の近辺にアパートを借りていた。その生活費はアルバイトで捻出することが家族との約束だった。そのアルバイト先に、大学3年の雅実が在籍していた。
昌行が抱いた雅実の第一印象は、必ずしも鮮明なものではなかった。このアルバイトとは、自習教材を購入した家庭の中学生をフォローアップするために行われていた、社外の講習会場での個別学習の指導だった。何人もいた女子学生の内で、雅実は目立つ存在とは言えなかった。
ここで昌行は国語と社会及び教務主任職を、雅実は英語と数学を担送していた。雅実は教科の実務の上では、その才覚を発揮していた。教職過程を履修していたこともあったのだが、むしろ天性のものを感じさせ、特に女子中学生たちからは慕われていた。
雅実に対して、好意らしきものを感じていると昌行が自覚したのは、アルバイトを始めた年の冬季講習でのことだった。一週間の予定で実施される講習の初日、雅実は講習会場への道に迷って遅刻した。その姿を、会場の窓から昌行が見つけたのだ。開始からは既に1時間は経っている。通り過ぎようとしていた雅実を、昌行はあわてて追いかけた。
「千々和さん。どうしたの?」
半ば問い詰めるように昌行が声をかけると、一時間は歩き詰めだった雅実が涙目で振り向いた。
「何よ、ちゃんとした地図もくれないで!」
その時昌行の胸の内で、何かがコトリと音を立てて落ちた。そう、それは確かに「落ちた」のだった。
その日以来、雅実に対する昌行の扱いが、少しぞんざいになった。とはいえ、人前で千々和ちゃんとか、雅実ちゃんと呼ぶには、遂に至らなかった。何より昌行は、雅実の清廉さを尊敬していたし、この関係が変わってしまうことが怖かったのだ。
1988年5月
桐華大学の先輩後輩として、谷中昌行と千々和雅実はアルバイト先の栄進センターで中学生たちの指導に当たっていた。東京都下にあった栄進センターに昌行を誘ったのは、昌行と同じ桐華大学文学部社会学科の前原浩二だった。昌行と前原は栄進センターの教務の中核であり、中学生たちへの教育についてだけでなく、創立15年程の桐華大学の将来についても語り明かす間柄だった。しかし、ほどなく前原は栄進センターへは姿を見せなくなり、センターの実務は昌行が担うこととなった。昌行は、次第に雅実を教務の中核の一人と頼むようになっていた。
しかしそのセンターの経営は放漫としか言い様がなく、アルバイト代の支払いも滞ることがあって、アルバイト学生たちの心は離れていった。昌行は、当時2年生として籍があった中学生たちが卒業するまで事業継続をと、経営側にかけあった。しかし、アルバイト学生の何人かが去ろうとするのを止められることはなかった。
「谷中さん、そろそろ大学院の試験に集中しないといけないんじゃないですか」
「ううん、そうなんだけどね。教務の人たちが何人も抜けちゃったから、なんとかしないといけないと思うんだよね」
その頃の栄進センターは苦肉の策として、現金収入につながりやすい家庭教師の派遣にも手を広げていた。会員である中学生の家庭に、どのアルバイト学生をマッチングさせるかを決めるため、事前に昌行は家庭訪問を行い、初回の家庭教師の派遣には同行もしていたのだった。
こうして昌行は、相当回数の家庭訪問を行ったのであるが、そこで気がついたのは、広い市内にあって、親の収入や中学生たちの学習態度には地域格差があるということだった。市の多くの部分が新興住宅地であるがゆえに、地域による経済格差が如実に表れている。つまり、住宅の質の違いとしてである。それはほとんど、子供たちの学習態度としても表れているように昌行は感じ取っていた。つまり、住環境の質の違いとしてである。それはほとんど、子どもたちの学習態度としても現れていた。要するに、親の収入と子どもの成績との間に、強い相関関係があるのだ。それを、昌行は肌感覚で掴んでいた。
昌行は、目の前にいる一人の生徒にしか働きかけることはできなかったが、それでも何とかしたい、何とかしなければという思いが強かった。それは、大学院に進学しようとしていた動機とも、ほぼ連動している。それは、桐華大学の建学の理念とも相呼応していた。つまり、教育の充実による社会関係の改善ということである。
彼は桐華大学に12期生として入学している。創立12年というのは、大学としては若い。否、幼い。創立者である桐華教会・名誉会長の川合は、文明の動因としての宗教という文明観だけでなく、その担い手としての大学ということをしばしば語り、学生たちに期待を寄せていた。昌行は、自らもその理念の担い手の一人として立っていくことを切願していたのだ。昌行は若かったが、若いのは昌行だけではなかった。川合会長もまた、若かったのだ。
1989年3月
桐華大学創立者・川合賢治の文明論は1000年を射程とするものであり、大学論は、遠くヨーロッパ中世にその起源を遡るものであった。昌行ら桐華大学生たちの多くは、桐華大学を新しい「第三の大学」として創造していくという気概と野心を抱いていた。しかし、具体的は何をどう積み上げていけば、川合のビジョンに近づけるのかを提示できる者は皆無であった。要するに、理想と現実とに引き裂かれていたと言ってよいだろう。千々和雅実もまた、教員採用試験という「現実」に対峙していた。
1988年、4年生になっていた雅実は、7月に採用試験、9月に゙教育実習をこなして桐華大学に戻ってきた。試験は不採用となり、地元・長崎での就職を決めた上での帰京だった。一方の昌行は、1988年2月の大学院の試験に失敗しただけでなく、栄進センターの業務との間で苦悩していた。もうこれ以上、進路について迷っていられる余裕はないはずだ、結論を出さなくては、と。
その「結論」は、不意にやってきた。FM放送で流れていた女性シンガーソングライターの曲が流れたその時に、そうだ、あと一回だけ、次を「最後」として試験を受けよう。アルバイトは必要最低限に止めよう。そう決めた昌行は、栄進センターの教務主任職を辞して、スポットで参加する契約に切り替えた。そして、合格して雅実に思いを伝えたいと考えたのだった。
1989年3月。雅実の卒業の日が近づいていた。昌行は、指導教官と受験科目を変更して試験に臨んだのだが、全くの準備不足のため、案の定不合格となっていた。
「谷中君、何で事前に私の指導を素直に受けなかったのかな。あと1問でも答えてくれていたら、合格にすることができたのに」
昌行が指導教官として希望していた、教育学部長の沢井洋一が語った。この受験で昌行は、文学部から教育学部の講座に移ることを決めていたのだった。
「実はね。この年には教育社会学会の年次総会が桐華であってねぇ。男子学生が入ってきてくれたら、バリバリこきつかってやろうと思ってたんだよ」
沢井はさも残念そうに笑ってみせた。昌行は、その気持ちに応え切れなかったことが悔しく、残念に思っていた。
試験が終わったあと、昌行はアパートを引き払ってタニナカ・ビルで家族と同居して、就職することに決めた。しばらくの間は求人誌を見る気にもなれず、社会人としての遅いスタートを切ったのは、1990年6月のことだった。昌行は26歳になっていたが、この頃はまだ家族はみな健康で、タニナカ・ビルの経営も順調だった。しかし、昌行が就職に活路を見出そうとしていた同じ頃、予期せぬ激震が桐華教会を襲った。後に「宗門問題」と呼ばれることになった、日蓮宗本光寺派首脳らによる、川合会長を追放し、桐華教会を意のままにしようというの画策であった。
1990年12月
いわゆる「宗門問題」として後に総括されることとなった一連の「事件」は、1990年の年末に端を発している。桐華教会は、1930年に日蓮宗本光寺派の在家信徒の講の一つとして発足ののち、戦後急速に発展・拡大した宗教法人である。1990年12月、本光寺は桐華教会会長の川合に対し、在家信徒の代表である総講頭職を罷免する旨通達してきた。それは川合会長が、本光寺指導部を軽んじているという言いがかりのようなもので、言わば川合を追放し、本光寺による桐華教会の直接支配を目論んだ「宣戦布告」であったと言ってよい。このことで教会は動揺し、本光寺の支配を受け入れるものと、本光寺側は考えていたのである。しかし、教会は微動だにせず、むしろ結束を強めて「応戦」した。態度を硬化させた本光寺指導部は、教会全体を破門に附した。
この一連の流れを、昌行は当初、本光寺と桐華教会との間で起きた、教義解釈の正統性を巡る対立と把握していた。しかし、この問題は信仰におけるアイデンティティの問題に直結していることを、やがて知るようになる。すなわち、本尊の「下付」や葬儀等の儀式において聖職者が列席しないといった問題として顕在化したのであった。つまり信仰において、聖職者の権威が必要なのかどうかということである。聖職者が上で、信徒が下という図式にこだわり続けた本光寺側に対して、上下の差はなく平等であるとの立場を貫いた教会側という、極めて本質的な対立であったのだ。
本尊問題については、教会から本尊が授与されることで、形式的には解決した。葬儀についても、「友人葬」として営まれるようになったことで、一応の解決を見た。つまり、川合を追放した後での本光寺による教会支配の野望は潰えただけでなく、本光寺派は、以後衰亡していく結果となったのである。これらのことは、昌行の信仰心を「懐疑の溶鉱炉」で精錬することとなったのだ。
本来桐華教会は、会長の川合と先代会長の西田克則とが、手造りで築き上げた組織である。今次の宗門問題とは、教会員と川合との「絆」をむしろ強める結果となった。そして昌行においては、表面上の活動内容を精査し、信仰をより内面化させることになった。活動内容の精査とは、後述を待つことになるが、支持政党であった朋友党への支援活動についての疑念として現れることになる。
谷中昌行は、信仰においてはこのような軌跡を辿っていった。また、大学院への進学を断念した後、数か月のブランクを経て就職したサン・メディカルサービスでの勤務は順調であったと言ってよい。しかし、帰省して就職した千々和雅実とは、次第に疎遠になっていった。
サン・メディカルサービスを辞したのは、昌行が30歳になったタイミングで、その時に勤めている会社での勤続をするかを考えようとしていたことを実行したに過ぎない。会社からの慰留もあって、結果的に勤務は若干延長することになったものの、必ずしも明確なビジョンを持てないままに退職したのだった。
一方で、千々和雅実は実は教員採用試験を再受験し、合格を勝ち得ていた。そのことを昌行が知るのは、実に2002年のことであった。
1989年10月
桐華大学の後輩で、アルバイト先で昌行と知り合った教員志望の千々和雅実は、1989年3月に卒業し、長崎に帰っていった。帰郷する前年の1988年には、教員採用試験では不合格となったものの、地方紙にアルバイト社員として採用されていた。そこで雅実は業務に精励し、人望も篤かった。
1989年秋のある日、雅実は上司の高松陽子に呼び出された。
「千々和さん。私、あなたの居場所はここじゃないと思うの。あなたはもう一度教員を目指すべきよ。どうかしら、来年受けてみたら?」
「陽子さん、でも・・・」
「あなたの抜ける穴は大きいし、私もさびしくなる。でも、あなたを本当に必要としているのは子どもたちなんじゃないかしら」
高松は雅実の業務量が減るように取り計らい、強く背中を押した。果たして1991年の春、雅実は高松の期待に応え、中学英語科の教員として長崎県に採用されることとなった。
その後雅実が神奈川でフリースクールに勤めることになったたのは、1996年に結婚した彼女の夫が転勤することがきっかけだった。夫の斉木和正は昌行とは同年齢で、職場の放送局では将来を嘱望されていた。斉木とともに神奈川に移った際、高松とその知人の尽力で、雅実はフリースクールに職を得た。産業カウンセラーの講習で、昌行との偶然の再会は、そうした経緯があってのことだ。
雅実がカウンセリングの講習に参加したのは、フリースクールの経験上、必要性を感じ取っていたこともあったが、第一義的には、斉木が2001年にうつ病を発症したからであった。雅実は斉木を愛していた。何としても、斉木の力になりたいと念じていたのである。
昌行と再会した雅実が、彼に強い共感と理解を示したことはこうした事情による。在学中に、同窓の先輩としてだけではなく、ほとんど兄のように慕っていた昌行の苦境を、雅実は見過ごすことができなかった。講習の終了後、2人は親しく会話を交わすようになった。
しかし2004年に受験者たちが集まった際、雅実が姿を現さなかったのには理由があった。斉木が自死を企図したからだ。このことで、雅実と昌行の親交は再び途絶えることになった。斉木には放送局の復職プログラムが用意されていたため、関連の子会社への再就職も決まりかけていた。実はうつ病は、軽快化して行動力が付いた頃が注意を要する病である。回復途上にある行動力が、自死を図るという方向で発揮されてしまうことがあるのだ。斉木を思いやった雅実は、3か月の間休職して、夫に寄り添うことにした。
休職が明けた後も、雅実は斉木に対して献身的に尽くしていた。しかしこれ以上拘束したくはない、迷惑はかけられないと降りたのは、斉木の方からだった。当面の療養も含めて、佐賀の実家に帰っていったのは、奇しくも昌行の父・義和が逝いた2007年のことであった。
こうして雅実の人生には、冬が訪れた。しかし、明けない夜がないように、春の訪れない冬もない。再びの春が雅実に訪れるのは、彼女が書いた一通の電子メールがきっかけだった。
2009年7月
夫の斉木和正が雅実の元を去った2007年から、早くも2年近くが経とうとしていた。雅実は敢えて、フリースクールの職に没頭するように努めている。そのことで雅実は斉木との生活を振り切ろうとしていたのだった。このスクールで勤務も、1997年以来、そろそろ12年になろうとしている。もはや雅実は、スクール外での市民グループ等にあっても名の通る存在であった。
その年の年度末、雅実は同僚の中井由紀江から、プリントの束を手渡された。
「雅実ちゃん。昔、一緒に飯田橋でカウンセリングの勉強しに行ってたじゃない。これ、ちょっと読んでみない?」
「何? どうしたのよ、急に。何か企んでるんじゃないの?」
「もう更新されてないみたいなんだけどね、この『ロジャーズのいざない』ってブログ、心当たりあるんじゃないかなあ。雅実ちゃん、大学の先輩に偶然会ったって言ってたじゃん。たまたま見つけたんだけどさぁ、その先輩さんじゃないかなあって思うの」
「そんなことって、あるのかなあ。だって、もう6年も前のことだよ」
「いいからいいから。まあ、読んでみようよ」
由紀江から渡されたプリントの束の主は、「ウサギの角」と名乗っていた。その主は、カウンセリングの講習に参加した経緯や、大学の後輩に出会ったこと、再会を期待していたが2004年には会えなかったことを綴っており、その時点からは更新が滞っているようだった。でも、きっと谷中さんだ。雅実には、そうとしか思えなかった。
しばらくは年度替わりの忙しさに流されていた雅実であったが、ブログの主である「ウサギの角」氏にメールを書いてみようと思ったのは、その年の夏、つまり2009年7月のことであった。
* * *
Sub:おひさしぶりです。
謹啓、ウサギの角さま。このメールがお手元に届くことを願いつつ書いています。また、突然にお便り差し上げます非礼をお許しください。
私はフリースクールで講師をしているMasamiと申します。このブログは、偶然知人から教わりました。読み進めていくうちに、懐かしさで心がほどけてまいりました。ウサギの角さま、思い違いでなければ、あなた様は私の大学の先輩なのではないかと、私には確信のようなものがあるのです。そうであることを、心から願っています。返信先に、私のアドレスを設定しておきました。よろしければ、ご返信を賜ることができればと思っています。お待ちしております。かしこ。
Masami
* * *
幸いにもこのブログは、フリーメールのアドレスで開設されていた。昌行が利用しているプロバイダは何度か変更されていたものの、彼はこのメールアドレスを常用していた。ブログは更新こそ停止されていたが、「おひさしぶりです」とのタイトルがついたこのメールが昌行の目に止まった。
2009年9月
Re:おひさしぶりです。
Masamiさま。いえ、私はあなたを千々和雅実さんと確信しているのですが、いかがでしょうか? 間違っていたら申し訳ない限りです。ご連絡ありがとうございました。更新していないブログに連絡があり、びっくりしました。でもうれしかったです。
あなたがもし、私の知る千々和雅実さんであるのなら、またご返信いただきたく存じます。ご検討ください。
ウサギの角こと、谷中昌行
* * *
その週のうちに届いた返信に、雅実は小躍りして喜んだ。
「由紀江ちゃん、ありがとう! やっぱり先輩の谷中さんだったよ!」
由紀江は安堵した。斉木との離婚の後、憑かれたように仕事に打ち込んでいた雅実には、休息も必要なのだと由紀江は考えていたからだ。
ほどなくして雅実は、再度昌行あてにメールを送信した。
* * *
Sub:千々和です。ご連絡ありがとうございました。
谷中昌行さま、ご返信ありがとうございました。「ウサギの角」さまが、谷中さんであってくれて、本当にうれしいです。これからまたどうぞよろしくお願い申し上げます。
今日は少し長いメールになるかもしれません。お許しください。飯田橋でお会いしていた時、実は私は結婚していて斉木姓でした。お伝えするタイミングを逸していて、申し訳ありませんでした。でも、今はまた千々和姓に戻っています。斉木は、病気にかかっていて、その後それが原因で離婚して、彼は今、実家で療養しています。谷中さんにお会いした時、谷中さんのご病気を他人事とは思えなかったのは、そうした事情があったからです。斉木もうつ病だったのです。講習会の同窓仲間の会でお会いできなかったのは、その問題の渦中にあったからでした。その後、ご病状はいかがでしょうか?
私はというと、お会いした時と同様に、今も神奈川でフリースクールに勤めています。結婚した後、斉木の転勤のために私も神奈川にまいりました。教職への思いは断ち難く、知人たちの勧めもあって、このスクールとの縁があったのです。神奈川に来たのは1999年ですから、早いもので、もう10年になってしまいますし、私も42歳のバツイチになったということです。
仕事は充実していますけど、ちょっと疲れることもあります。今年はちょっと涼しいのか、それはそれで助かりますが、体調にはどうかお気をつけくださいね。
こうしてお便り差し上げられることが、本当にうれしいです。また書かせていただきます。それではまた。
Masamiこと、千々和雅実
P.S. なんでまた、「ウサギの角」なんですか(笑)
* * *
雅実からのメールが、昌行には喜ばしかったことは言うまでもない。この後2人は、しばしばメールを交わし合うようになった。
2009年12月(1)
Sub:やっぱり、「とにかく」なのかぁ!
雅実です。ご返信ありがとうございました。「ウサギの角」さんは、「兎に角」さんなんですね。そのまんまじゃないですか(笑) でも、そう言ってご自分を励ましていらしたのでしょうね。おばあさまとお父さまの件、心からお悔やみ申し上げます。何年も大変なことが続いてきたのに、谷中さん、ご立派だと思います。本当にそう思います。私なんて、いつも愚痴言いながらですからね。斉木が帰省してしまった時、もう神奈川にいる理由もないし、長崎に引っ込んでしまおうと思ったくらいでしたから。
私が落ち込みそうになった時、どうか励ましてくださいね。
谷中さまへ。
* * *
Sub:励まされているのは、きっとぼくです。
千々和さん、励まされてきたのはぼくでした。覚えていらっしゃるでしょうか、飯田橋で再開した時、あなたは「私は何をすればいいの」と言ってくださった。確かに、その時には斉木さんもご病気で、他人事とは思えなかったんでしょう。でもね、ぼくはうれしくて泣きそうだったんですよ。こんな病気になったのは、何が悪かったんだろう、何をしたからなんだろうと、自分を責めてばかりいました。がんばってねと言ってくれる人はいましたけど、「してほしいことはあるか」と聞いてくれたのは、千々和さんが初めてだったんです。それがどれほどうれしかったことか。あなたは大変なことをしてくれたものですよ・・・。
* * *
Sub:提案があります
谷中さま。パソコンはお使いでいらっしゃいますか? パソコンを使ったビデオ通話ソフトがあるんです。インターネットを使っていらしたら、電話代はかかりません。お話しできるとうれしいです。いかがでしょうか。取り急ぎ、ご用件のみ。ではまた書きますね。
* * *
Sub:いいですね、やってみましょうか。
千々和さん、こんにちは。そうか、その手があるんですねー! やってみましょうか。ぼくはのPCには、スカイコールが入ってますから、これが使えそうですね。
これでいいのか、また教えてください。ご返事お待ちしています。
* * *
2009年の年末の頃まで、昌行と雅実は折りを見てメールのやりとりを何回か重ねていく。その頃の谷中家では、次男の昇の病状が相変わらずの一進一退を繰り返していたものの、長女の咲恵が結婚していったという朗報もあった。
また、昌行にあっては、前年に『ゲド戦記』シリーズ全6巻を読了できたことから、不意に読書を再開できるようになっていた。そのことを昌行の家族は知る由もなかったが、昌行の内側で、何かの歯車が噛み合うきっかけとなっていたことは間違いではないだろう。数年のうちに昌行は、読書会として、他者との関わりを積極的に模索するようになるからだ。
2009年12月(2)
雅実と昌行とは、数回ずつのメールを交わして、アルバイト時代の昔話に花を咲かせたり、近況を語り合ったりしていた。雅実はフリースクールの業務上、ビデオ通話を日常的に利用していたので、昌行とのやり取りに使ってみたいと申し出たのだった。パソコン関連のコールセンター業務を務めていた昌行は、幸いにもこうした方面についても明るかった。昌行は興味本位で快諾してみせたものの、実際に通話を試みたのは年末のことだった。
設定を済ませた旨を雅実に伝えた昌行は、ビデオ通話ソフトのスカイコールにサインアップして、雅実のコールネームを入力し、コンタクトが承認されるのを待っていた。
* * *
Masami>こんばんは! コンタクトありがとうございます!
Usagi>こんばんはー
Masami>Usagiさんなんですね(笑)
Usagi>うん。今日はよろしくお願いしますね。
Masami>はーい。今日はビデオ試してみますか?
Usagi>そうですね、お願いしていいですか?
Masami>設定は済んでいますか?
Usagi>テストしたら、ちゃんとカメラも認識してました。
Masami>じゃあ、できそうですね!
Masami>赤いボタンを押せば、私の顔と声がそっちに届きます。でわでわ!
* * *
コールボタンをクリックした雅実は、昌行が反応するのを待った。やがてディスプレイに互いが表示され、スピーカーからは声がするようになった。互いに表情と声を確認できたのは、もう6年以上が過ぎてしまっていた。
「ふふ、今日はおめかししてるんですよ」
「そんなことしなくてもいいのに」
「えー、そこはお礼を言ってほしいのになあ!」
この再会までの間、昌行は祖母と父に逝かれ、タニナカビルからは撤退して家族は生活保護を受けるようになっていた。弟・昇の統合失調症と共に、昌行のうつ病は一進一退を繰り返している。一方で雅実も、夫の斉木が自死を試みた後に離縁するということがあった。しかしこうしてインターネットを介して再会してみると、互いが風雪によく耐え忍んだことが確認されることとなった。言わばある種の連帯感が、既に生まれていたのだった。
「千々和さん、お元気そうで何より。うれしいです」
「谷中さんも、思ってたよりずっと元気そう。よかった」
「こんな機会を作ってくれてありがとね。文明の利器だよね」
「私、仕事でもよく使ってますから。今日はお話ししたいことがたくさんあって」
「何だろう、緊張しちゃうな。お手柔らかにね」
「もう!」
2人には、6年の隔たりが感じられなかっただけではない。栄進センターでのアルバイト時代の親密さが蘇っていた。やがて雅実は、この日の「本題」を切り出していった。
2010年1月
あなたの力を貸してほしい、あなたを必要としている人がそこにいるから――。
雅実は昌行に訴えかけた。雅実はフリースクールの教員として、不登校児や学習困難者とその家族たちに接してきていた。その彼女が、スクール外の市民グループとも連携するようになったことは、想像に難くない。また、元の夫であった斉木がうつ病を患っていたことで、やがて精神疾患の当事者グループないし、自助グループを志向するようにもなっていた。そこへ現れたのが昌行だったということだ。
「つまりは、その当事者会のメンバーとして、ぼくを迎えたいってことなんだね」
「はい。まだいつスタートさせるかとか、具体的なことは何も決まってはいません。でもね、メンタルの病気で部屋にこもってしまうと、よくないことも多いと思うんです。あのね、ピア・サポートとか、ピア・カウンセリングって言うらしいんですよね。病気の当事者同士で支え合うんです」
「ああ、なるほどねぇ」
「考えておいてくださいね。無理強いするつもりはないんですけど、谷中さん、きっと向いていると思うんですよね。それはちょっと、自信あるの」
「それは買いかぶり過ぎなんじゃないかな」
そうは言っても、昌行には雅実が買ってくれていることがうれしかった。
* * *
2010年が明けた。メールのやり取りが続いていたものの、昌行は返事をするきっかけを捉えそこねていた。父・義和が逝いて、2年半になろうとしている。弟・昇を連れてビデオを借りに出かけたり、散歩をするようなことも少なくなっていた。雅実が言うように、外出をするのにはいい口実かもしれなかった。乗ってみようか――。昌行はメールを書こうと思い立った。
* * *
Sub:返事をしたいです。
先日来お誘いをいただいている当事者会の件ですが、そろそろご返事をさしあげたいと考えています。この際ですので、お誘いをお受けしたいと考えるに至りました。また改めて、打ち合わせなどが必要ですよね。ご都合を教えてくだされば、時間を調整します。ご遠慮なくおっしゃってくださいね。
谷中
P.S.ぼくの記憶が確かなら、来月お誕生日じゃなかったですか?
* * *
その日のうちに、雅実からビデオ通話ソフトのスカイコールでの連絡が入った。時間帯をすり合わせて、昌行たちはパソコンの前で互いを待った。
「こんばんはー。あれ、どうかしましたか」
「ずるい。いつから知ってたんですか」
「え?」
「誕生日知ってるなんて、今まで言わなかったじゃないですか」
「あ・・・」
「ずるいです」
雅実がいささか声を高揚させていたことは、昌行の思い違いではなかっただろう。その夜は、いつになく会話が弾んだ。果たせるかな、雅実の誕生日の2月22日に、産業カウンセラーの講習を受けていた飯田橋にあるコーヒーショップで再会を約し合い、この日の通話が終えたのだった。
2010年2月
「朝はくもっていたけど、晴れてきたね」
2002年に産業カウンセラー養成講座で出会った時と同じコーヒーショップで、昌行と雅実は待ち合わせ、二度目となる「再会」を果たした。この日、2010年2月22日は雅実の誕生日だったが、そのことを昌行が知っていると彼女は考えていなかった。それだけに、昌行がその日を指定してきたことがうれしかった。
「誕生日って言っても、ぼくの身の上じゃあ、気の利いたことは何もできないんだけどね」
2006年から生活保護を受給している昌行はそう笑って、一冊の新書を雅実に手渡した。
「先だって亡くなった河合隼雄さんの『子どもの宇宙』。亡くなったのを期に再読してみたんだ。千々和さんも読むといいと思ってね」
「ありがとう、うれしいな。読んでみますね」
雅実の誕生日を祝したあと、2人は当事者会の開設に向けて語り合った。
当事者とは、この場合精神疾患を病む本人のことを指すといってよい。つまり、患者本人ということである。患者同士で、病気と自分自身についての理解を深め、互いに支え合い、治癒や寛解をサポートすることが当事者会の目標だ。雅実はフリースクールに勤めている関係上、不登校やひきこもりの情報に接することが多かったが、その中で、精神疾患一般についての情報に接することもまた多かった。
そんな中、2004年に夫の斉木が自死を図ったこと、さらに、離婚して今では故郷で静養に当たっていることが重なった。雅実はむしろ、広くこころの問題一般に深くコミットすることを選んできたのだ。斉木が帰郷した2年後、雅実は昌行に、この当事者会への協力を願い出た。
雅実には、会を立ち上げるという他に、明白な目的がもう一つあった。それは、昌行を会の主要メンバーとして迎え入れることで、彼の社会性の回復を図ろうというものである。雅実は、そのことについても丁寧に説明を尽くした。
「千々和さん、お心遣いありがとう。感謝します。ぜひ、ご一緒させてください」
昌行は改めて協力を約した。
「ピア・カウンセリングとか、ピア・サポートっていう形でなら、谷中さんがコミットできる余地があると思うんです。いいえ、谷中さんこそ適役だと思うの」
昌行が自分の経験を活かしたいとして、産業カウンセラーの講習を選んだことを雅実は知っていた。
「今日はどうもありがとう。楽しかったです」
「いえ、こちらこそ長時間・・・。お会いできたことが、何よりの誕生日プレゼントでした。そうそう、谷中さんのお誕生日はいつなんですか? お返ししたいです」
「お返しいただくことなんて何もしてませんから。実は来月なんですよ、11日」
「えー! 何か急いで探さないと」
「だから、何もしなくてもいいって」
「そんなわけにはいかないですよ」
「じゃあ・・・」
「何?」
「またお会いしてください、ご都合のつく日に」
「そんなことでいいんですか。何だか申し訳ないなあ。じゃあ、その日には打ち合わせはしないってことにしましょうね」
雅実の心は弾んでいた。
「実はね、4月から病院で、カウンセリングを受けることが決まってるんですよ」
「そうなんですね。じゃあ、こうして外に出かけるようになってることも報告しておいてくださいね」
別れる直前にこう言葉を交わした昌行には、雅実が理解してくれていることが何よりもうれしく感じられていた。
2010年3月
「あのね。谷中さんは、クラシックお聴きになりますよね」
「ええ、もっぱらCDですけど、よく聴いてますよ」
「コンサートにお誘いしたいんですけど、私、何を着ていけばいいんでしょう。21日の日曜日、サントリーホールでチャイコフスキーをやるんですんって」
3月始めのビデオ通話で雅実が切り出した。この日までの会話で、昌行には本やCDを買い込んでしまう収集癖があることを、雅実は把握していた。
「ああ、あのね、ちょっとしたショッピングとか、軽いお出かけの感覚でいいと思うな。誰の指揮なんだろう」
昌行は少し言い淀んだ。つい、「デートのような格好」と言ってしまいそうだったのだ。
「インバルさんて言ったと思う。ヴァイオリンは神尾さんですって」
「行く」
昌行の即答ぶりに、雅実は吹き出してしまった。
「私、サントリーホールって初めてなんです。どこで待ち合わせればいいの」
「正面向かって右側に、チケットの窓口があるからその付近でどうかな。いやぁ、楽しみだな。会った時に代金払うから、それまで立て替えててもらっていいかな」
「やだ、お誕生日のお祝いなんだから、そんなこと気にしちゃだめですよ」
その日のコンサートは秀演だったが、後日昌行はうつの症状を軽くぶり返してしまった。
「雅実ちゃん、昌行さんのこと、あまり急に引っ張り回しちゃだめよ」
当事者会の打ち合わせに合流することになった、元同僚の中井由紀江から雅実はたしなめられていた。
「斉木さんにできなかったこと、昌行さんにしてあげようとしてないかしら。昌行さんは、斉木さんの替わりじゃないんだからね」
「そんなことないわ。大丈夫、心配しないで」
「ほらほら。あなたの『心配しないで』は、図星だってことなんだから」
「やめてよ」
いかにも心外だという面持ちで雅実は帰宅していったが、心中では穏やかではいられなかった。
4月も終わりに近づき、やがて連休に入ろうとしていた頃、由紀江は昌行を見舞うメールを書いていた。
Sub:体調はいかがでしょうか?
谷中さま、体調を崩されているご様子ですが、お加減はいかがでしょうか。雅実ちゃんがはりきり過ぎて、あちこち引き回してはいないかなと心配していたところです。それを全部受け止める必要はないと思ってます。どうか焦らず、ご無理のない範囲で私たちにおつき合いください。当事者会のことはご心配なさらず、ゆっくり復調なさってくださいね。でも、どうか雅実ちゃんのこと、よろしくお願い申し上げます。余計なおせっかい、失礼いたしました。
中井由紀江 拝
2010年8月
2010年の梅雨の頃、雅実たちによる当事者会の設立が10月と決まった。この会は、対面で開催するだけではない。ビデオ通話を利用してオンラインでも開催するというのは、昌行からの発案である。8月、雅実と昌行、由紀江の3人は、これまでを振り返って互いを労いあった。
「谷中さんが調子崩したとき、一時はどうなるかと思っちゃったけど、何とかここまで来れましたね。よかったぁ、2人ともありがとう。これからもよろしくね」
「雅実ちゃん、本業との両立がんばったよね。すごいよ」
「いやぁ、由紀江ちゃんが参加してくれて、心強いな。社労士の試験勉強、たいへんでしょう」
「あと1年だけどね、がんばるね。でも昌行さんが戻ってくれてよかったぁ」
「いやいや、オンラインでもやりたいって言った以上、責任は取らないとね」
初年度こそボランティア扱いではあったが、翌2011年度には地域生活支援センターの登録団体となることを目指している。全体としては、目下のところ準備は順調と言ってよいだろう。
「ホームページも何とかなりそうだしね。ただ、最近だとSNSでも告知した方がいい感じなんですよ。どうだろう」
「どうなんだろうね。私も見てみましたけど、アカウントをフォローしてくれてる人たちの書き込み、何だか深刻なものが多いみたいね」
「中井さん、そうなんですよね。ぼくたちの力だけで何とかなるってもんじゃなさそうなんだよね」
「しずく」と命名されたこの当事者会のアカウントをフォローする人たちの一部が、自傷行為やオーバードーズについて、ためらうことなく書き込んでいるのを昌行は懸念していた。そうやって、いわば互いの負の引力圏に引き込み合うことが、参加者にとっての悪影響になるのではと考えていたのである。慎重な対応が求められることになるだろう。3人はしばし沈黙してしまった。
「あのさ」と、由紀江と雅実が、ほぼ同時に沈黙を破った。
「またこれからも、ゆっくり考え続けましょうよ。考え続けることが大事だと思うの」
由紀江がこう続けて、2人はそれに同意した。
「昌行さんは、体調とメンタル優先をしてくださいね。雅実ちゃん、仲良くするんだからね、うふふ」
「中井さん、からかわないでくださいよ」と、制するように昌行が言った。
この頃は、全てが順調だった。一つ一つ課題を洗い出しては、3人で解決を図っていけた。実際、10月に開催した初回の当事者会の本会は少人数の参加ながら盛会だった。昌行は、カウンセラーと主治医の許可を得て、団体登録をする予定の地域生活支援センターに、利用者としても週2回程度通うようになっていた。そう、「まだ」この頃は順調だったのである。翌年3月の、「あの日」が訪れるまでは――。
エピローグ
2010年の年末、慌ただしく過ごしていた雅実の元に、一通の手紙が届いた。それは雅実が教職に就くことを促した、かつての上司・高松陽子の娘からだった。高松美恵子は、2011年2月に廣田泰治と晴れて結婚するという。雅実を姉のように慕っていた美恵子からの吉報に対して、雅実は近況をしたためた。
高松美恵子様。この度の朗報をうれしく拝読いたしました。ご連絡くださって、本当にありがとう。少し長くなるかもしれませんが、私の近況をお伝えしようと思います。
私はお母様の後押しで長崎で教員となり、斉木と結婚をしてから、神奈川に移り住んだことはご承知いただいている通りです。そこでは知人の尽力もあって、フリースクールで職を得ました。仕事は順調でしたが、斉木がうつ病になり、そのことがきっかけとなって、斉木は帰郷することになりました。私は、その心の穴を埋めるかのように仕事に取り組みました。つい最近までのことです。
フリースクールでは、不登校やひきこもりの生徒さんや、そのご家族に関わっていました。スクール外でのおつき合いもあって、私は精神疾患の当事者の方々についても関心を持つようになったんです。そうした時に、大学の先輩と再会しました。その方もうつ病と診察されていたのです。
今、私は親友やその先輩たちのお力を借りて、当事者グループの「しずく」を設立したところです。まだボランティア・グループとして活動していますが、これからはしっかりとした運営をしていきたいと考えています。
私も来年は44歳になりますが、とても充実しています。関東までいらっしゃることがあったら、ぜひお声をかけてくださいね。泰治さんにも、よろしくお伝えください。お式にご招待くださり、ありがとうございました。ぜひ出席させていただきたいと思っています。いろいろお忙しいかと思いますが、ご健康には留意して、すてきな式になさってくださいね。私の心は、いつもあなたの側にあります。どうぞお幸せに。
千々和雅実
親愛なる美恵子さまへ。
「へぇ、じゃあ、この美恵子さんて、あなたが教職に就くきっかけを作った恩人のお嬢さんなんだね。うれしいでしょう」
「もちろん。年明けもいろいろあるかと思うけど、来年はいい年にしましょうね」
昌行とのビデオ通話で、美恵子の結婚のことを雅実は伝えていた。
当事者会の「しずく」は、10月の開設以来、月1回のミーティングと、不定期のビデオ通話でのミーティングを着実に開いていた。昌行も、スケジュール通りとは言えないものの、地域生活支援センターへの通所を続けていた。しかしながら、服薬の量や種類が減ることはなく、治癒に向かっているとの自覚はなかなかできないでいた。
昌行の年内最後の通所が済んだ28日夜のビデオ通話で、彼は雅実に語りかけた。
「ちょっと早いかもしれないけど、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「雅実さん、」
「ん」
「あ、いや・・・」
年末年始の喧騒をよそに、2人の間には満ち足りた静寂が流れていた。
熾火Ⅲ
プロローグ
2010年、千々和雅実が谷中昌行を誘って開設した当事者会「しずく」は、雅実の同僚だった中井由紀江を加え、10月の第1回ミーティングに向けての準備を進めつつあった。オフラインでのミーティング開催に先立って、ホームページやSNSのアカウントが準備され、少しずつではあるが、反応も帰ってきていた。
そんな中での目立った反応が、1985年生まれで、当時コンビニ店員を務めていた新田壮介からのものだった。壮介はうつ病と診断されたばかりで、何をどうしたらいいものか全く手探りの状態だったが、偶然にもSNS「コネクト」で、昌明たちのアカウントにたどり着いていた。その壮介への最初期の対応は、昌行が担当していた。
「新田さん、それはお困りでしたね。でも、心配しないで、一つずつ一緒に進めましょう。まずは、通院先を確定しましょうか。もし、どの病院を選べばいいかわからないのであれば、最寄りの保健所にいらっしゃる保健師さんを頼るといいです。あと、自立支援医療という制度があるから、それを利用するよう手配してください」
「じりつしえん、ですか。それは何なんでしょう」
「要は、収入に応じて、精神科の医療費が安くなる制度のことです。これも保健師さんに相談するといい」
「ありがとうございます。調べてみます。谷中さん、ありがとうございました」
「あと、これは個人的な考えなんですが、同じ通うんなら、メンタルクリニックを探すより、精神科の看板を出している所がいいと思うな」
「そうなんですね」
「うん。でもまあ、まずは保健師さんと会ってみてくださいね。また結果を教えてください。待ってますからね。お大事にしてください。お仕事のことは、また今度お話ししましょう」
「はい、ありがとうございました」
ビデオ通話ソフトの「スカイコール」では、顔を表示させることはせず、壮介とは音声だけでやりとりを終了させた。昌行は、こうした当事者会の必要性を感じていたものの、それと同時に、この社会が軋み始めている予兆を感じざるを得なかった。20代半ばでアルバイトや派遣といった、非正規での就労が以前よりも増えてきていると感じられること、そして、SNSのタイムラインで頻出するようになったメンタル疾患の当事者たちの書き込み。自分たちが手掛けようとしていることは、むしろ必要とされなくなる方が望ましいのに、逆にその需要は高くなっているのではないか。昌行たちは、連日議論を交わし合っていた。
そして10月、第1回のミーティングが開催された。これは実質的には設立総会であったが、ごく小規模の開催だった。そこには、埼玉から足を運んできた新田壮介の姿もあった。
2011年2月
2011年2月、千々和雅実は新卒採用時の上司だった高木陽子の娘・美恵子の結婚式に出席するため、長崎にいた。簡素ながら、参加者によく祝福された式であった。ここにも、陽子の考え方、いや、人生観というものが表れていたと、雅実には感じられた。
「いやぁ、いい式だったなぁ。泣いた泣いた」
「お母さんも泣いてたでしょ」と同僚の中井由紀江が語った。
「そりゃそうよ、女手ひとつで育てた愛娘だもんね。陽子さん、すてきなお母さんだったよ、うん。さぁてと、仕事に戻らなくちゃ」
多忙な年度末に向かいつつあったが、雅実は晴れやかな面持ちだった。オンライン経由で当事者会「しずく」に参加するようになった新田壮介や、地域生活支援センターで貼り出していたチラシを見た吉岡啓(よしおか・ひらく)からの問い合わせなど、少しずつ参加の輪が広がってきていた。
30歳になったという吉岡は、双極性障害を疑っていた。大学に進んですぐにうつの症状を呈した吉岡は、10年以上短期のアルバイト等を転々としながら独り暮らしをしている男性である。「うつ病は心の風邪」というのなら、うつ病は治るものだと捉えていた吉岡は、病の長期化を疑問に感じていた。そんな折、主治医から診断を再度見直したいとの申し入れがあったという。吉岡が複雑な思いでいることは、言うまでもないだろう。
かつては「躁うつ病」とも呼ばれていたその疾患は、診断が難しいものとして知られている。うつの症状が表れている当事者は、それを何とかしたい、逃れたいとして、医療機関を訪ねるのはあり得ることだ。また、周囲から心配されるのもあるだろう。しかし、それが躁の状態ではどうなのかと言うと、本人も周囲も、病気が軽快化したり、治ったものと考えてしまうことがしばしばなのである。つまり、それが病気の表れとして本人や周囲には感じ取られにくいのだ。それで通院を止めてしまうことすらある、やっかいな病気なのである。吉岡はしかし、出版物などで、このように診断を誤りかねない状況がしばしばあることをよく把握していた。由紀江は昌行の様子を見ていて、吉岡と似ていると感じていたのだが、それを昌行に伝えることが、その時はまだなかった。
3月となり、昌行の誕生日が近づいてきていた。雅実から再三促されて、この誕生日には、昌行の自室で2人して過ごすことを、昌行はようやく決心していた。昌行が自分の部屋に女性を迎え入れるのは、実にこれが初めてのことである。それを伝えられて、うろたえたのはむしろ雅実の方だった。
「じゃあ、明日。通所は午前で切り上げるから、駅の北口で会おうか。12時半には会えると思うけど、早過ぎないかな」
「休み取ってあるから、大丈夫。あの、もう一回聞くけど、本当に私、行っていいのね」
「来たいって言ったのは、あなたなんだからね」
昌行は笑おうとしてみせたが、ぎこちない笑顔にしかならなかった。
「雅実さんだから、来てほしいんだけどな・・・」
2011年3月(1)
「今日の通所はどんなプログラムだったの?」
「アンガー・マネジメントの初歩について。怒りを抑えることが、マネジメントの目的じゃないらしいんだよ。むしろ、正しく怒ることが大事なんだってさ」
「どういうことなの」
雅実には、アンガー・マネジメントの知識がないはずがない。昌行が興味を持って話していることが、雅実にはうれしいのだ。怒りの感情につながる事実があることを正しく伝え、相手との共通の利益を見出そうとするコミュニケーションがその本質と理解したつもりだと、昌行は語った。昌行はしばしば、聴いたことに自分の意見をプラス・アルファして理解している。雅実には、そういった点もまた、昌行の美点であると思われていた。
「雅実さん、お腹空いてない? それとも、近くでお茶とケーキとかにしようか」
「それなら、どこかで買って、昌行さんの部屋で食べませんか」
「じゃあ、まだ行ったことのない近くのケーキ屋さんで買っていこうか」
最寄り駅から岸野ハイツまでの間に、その「ボレロ」という小さなケーキ屋はあった。いくら甘いものが好きだとは言え、50歳が近くなった昌行が、「ボレロ」に入るのには抵抗があった。以前からこの店を利用してみたかった昌行には、格好の理由が見つかったことになる。店内は、予想していたより高めの価格設定だったことも手伝っているのだろうか、何を選ぶか決めかねている様子の昌行をよそに、雅実がてきぱきと4つのケーキを決めてみせた。
「どれもおいしそう。ごめんね、勝手に決めちゃった」
昌行も雅実も、アルコールを苦手としているので、飲み物はペットボトルの麦茶とインスタントコーヒーということにしてあった。
「あら? わりと小ぎれいにしてる。がんばったんですね!」
「ごめん、これが限界だったよ」
そう言って昌行は笑った。2011年3月11日金曜日、昌行は生まれて初めて、女性と2人だけの誕生日を過ごすことになったのだ。
「去年サントリーホールで聴いた曲のCDあるんですよね。また聴いてみたいんですけど」
「ヴァイオリン協奏曲でいいのかな」
クラシックのコンサートについては右も左もわからないというのに、ただ昌行のためにと入手したチケットで聴いたチャイコフスキーは、雅実の心を捉えたのだ。それを知って以来、昌行は曲目と演奏者を雅実向けに選んでCDの貸し借りをしていた。
「ケーキ、先にいただこうよ」
昌行がケーキとグラスをテーブルに並べ、麦茶をグラスに注いだ。
「今度も日本人女性のヴァイオリン奏者だよ。五嶋みどりさん」
「お誕生日おめでとうございます、昌行さん」
「ありがとう。さ、食べようよ」
「うん」
時計は午後2時40分を指そうとしていた――。
2011年3月(2)
グラスが倒れて、中の麦茶がこぼれた。書架の上からは空の段ボールが落ち、ガスは止まってしまった。東京でこんな揺れがあったという記憶が、昌行にはない。2011年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島沖を震源とする、こののち東日本大震災と称される地震が発生した。この震災は、死者・行方不明者が2万2千人を超えるという大惨事となった。
テレビでは、波に追い立てられる自動車の映像が、繰り返し流れている。雅実はテレビに映し出されたその同じ自動車に向かって、「逃げて! 逃げて!」と祈っていた。一方で昌行は、次第に冷静になっていく自分が不思議でならなかったが、まずは雅実を無事に帰宅させることが先決だと考えていた。
やがて首都圏の交通網も麻痺していることがわかってきたので、予約していたホテルに向かうことは取り止めにして、その夜は雅実を宿泊させることにした。
雅実たちは、その翌日に当事者会「しずく」のミーティングを開く予定でいたので、しばらくすると中井由紀江からの着信が、雅実の携帯電話にあった。
「よかった、つながって。雅実ちゃん、無事よね」
「うん、由紀江ちゃんも大丈夫?」
「うん。後で昌行さんにも連絡するけど、明日どうしよう。私は延期にするのがいいと思うの」
「そうだね、明日は止めにしようよ。詳しいことはまた3人で会って決めよう」
「昌行さんにはどうする? 雅実ちゃんが連絡したいよね」
「ありがとう、そうするね」
この時雅実は、昌行と一緒にいることを言わないでいた。
「よろしく言っておいてね。何もなくても連絡ちょうだいね」
しかしこの時にはまだ、災害の規模を誰も知る由もなかった。ましてや、福島第一原子力発電所で、未聞の事故が起ころうとは、誰が想像できただろう。雅実も昌行も、ただ目の前にいる人が無事であることに、胸をなで下ろしていたのだった。
そしてその夜、2人は初めて肌を重ね、互いが生きていることを確かめ合った。
「雅実さん、驚かないでほしいんだけど、雅実さんはぼくの初めての人なんだ」
「本当に私でよかったの?」
一度は危機に瀕していた《いのち》が、赤々と激しく燃え盛っていることを雅実は感じていたが、昌行は果たし得なかったことを恥じていた。そんな昌行を雅実はただ抱き止めながら、涙を滲ませていた。
「いいんだよ、私はとっても満足だったよ。うれしかった。そうしてもらうだけが目的じゃないもん。女って、繊細なんだよ」
2人はやがて眠りに落ちていった。しかしながら昌行は、誕生日に様々な出来事が重なったことで、この後何年もの間、3月が近づくと心身に不調を来すようになってしまったのだ。つまりそれは、自分が生を受けたことと、この未曾有の惨事が起きてしまったととが結びつくという、ある種の思考回路ができてしまったことを意味している。昌行がそれを不調として気づくのには、まだ数か月以上を必要としたのだった。
2011年6月(1)
昌行の地域生活支援センターへの通所は順調に見えていたが、震災のためもあってか一時途絶えてしまっていた。その間、昌行はブログやSNSの設定変更に逃げ込むように集中していて、当事者会の「しずく」の打ち合わせにも参加できてはいなかった。
「昌行さん、うつが出てきたんですかねえ」
新田壮介が吉岡啓と語り合っている。どうやらこの2人は、打ち解けてきているようだ。
「それにしても、原発事故の情報は、何が正しくて、何がデマかわからないですよね。こないだも『今すぐ関東から逃げた方がいい』って、わりと落ち着いてると思ってた人がSNSに書いてました」
「それはどうなんだろうね。壮介くんはどう思ったの」と啓が続ける。
「いや、わからないから聞いてみたんだけどなあ。あ、すいません、由紀江さん。そろそろ時間ですか?」
「新田さん、ありがとね。今日は見学に来てくれた方がいます。みなさんにも簡単に自己紹介をしていただきますから、よろしくお願いしますね。この会の主な目的は、ピア・サポートと言って、当事者同士で支え合おうというものです。いたずらに批判し合ったり、かといって慰めあったりしないようにしたいですね。では、今日の見学者からもごあいさついただきますね」
由紀江が紹介した女性が、軽く会釈をした。由紀江はさらに続けて、
「お名前は、今日どんな名前で呼んでほしいか言ってください。ニックネームでもいいですよ。聞く側は、その人が話しやすいように聞いていてください。遮らないようにしてくださいね」
と語った。由紀江と壮介、啓、雅実が順に自己紹介をした後で、見学に訪れた須藤めぐみが口を開いた。
「みなさん、初めまして。《ミューズ》って呼んでくださるとうれしいです。学校を卒業した後で、うつになってしまったようで、私もSNSで知ってから、由紀江さんとビデオ通話させてもらって、それで参加してみました。よろしくお願いします」
「ありがとう、ミューズさん。言いにくいことや言いたくないことは、無理して言わなくてもいいですからね」
「はい、中井さん。わかりました」
「あと一人、谷中さんって男性の中心メンバーがいるんですけど、震災の後、あまり調子がよくないようなんです。ミューズさんは、あの時はどうされてましたか? 大丈夫だったかしら? 差し支えなければ、お話しなさってみませんか?」
既に由紀江とは、何度か話をしてきている様子の《ミューズ》は3歳の男子の母親と語った。この日は実母にその英(すぐる)を預けてきているようだった。
2011年6月(2)
「震災から3か月経ちましたが、いろんな問題をそれぞれが抱えていると思うんです。私たちは、いえ、私はそれに寄り添いたい。解決できるとは言い切れませんが、孤独や孤立は、この場合は毒になると思います。みなさんが今日こうして集まってくださったことに感謝しています。どなたかお話しをされたい方はいますか?」
雅実がこう切り出すと、吉岡が語り始めた。
「震災とは直接関係ないんですが、ぼくはうつ病じゃないんじゃないかって疑ってます。20歳の時から、もう10年ですからね。薬をあれこれ変えてみても、なかなか決定打が出ない。うつって、治る病気だと思ってたんだけどなあ」
「ああ、確かにそれはキツいですよね。ぼくは診断されたばっかりで、これから先が不安ですね」
壮介が言葉を継いだ。今日も打ち解けた雰囲気で、会が進行していっている。
この会が心がけているのは、「ジャッジしない」ということだ。そうしたくもなるだろうが、アドバイスをすることは、極力避ける。これは、雅実たち3人の合意であり、目標であった。
「私もいいでしょうか」と、《ミューズ》が口を開いた。「私、うつって言われて3年目になると思います。3歳の男の子がいます。夫を朝送り出すのがしんどいんです。送り出してから、横になってしまいます。家事は、義母が分担してくれてるんですが、夫の帰りが遅くて、晩ご飯が2回になっちゃうんです。お風呂入るのも、もう面倒で面倒で。いけないと思いながら、そう感じてしまいます。私はダメな人間なんだなあって・・・」
「ええ? 《ミューズ》さん、すごくがんばってるじゃないですか、立派ですよ」
「ほんとですか! そんな風に言われたの、私、初めてです・・・」
由紀江の言葉に、《ミューズ》は目を潤ませ、しばらく次の言葉が出てこなかった。
「義母はやさしい人なんですが、主人が・・・。食べた後の食器を運んでもくれないし、食後はゲームしてて私の話を聞こうともしてくれない。辛いです」
「少しずつでいいから、思ったこと、感じたことを言葉にできるようになるといいですね。そこから何か、心がほぐれてくればいいと思うんです。《ミューズ》さん、少なくともここには、《ミューズ》さんを理解しようとしている人たちが、4人はいるってことを持ち帰ってみてね。それを忘れないで」
この日のセッションは、こうして《ミューズ》その人を受け止めることを中心に終わっていった。
2011年9月
《ミューズ》こと須藤めぐみが「しずく」に参加して、2か月が過ぎた。今は盛夏である。昌行は、なおも地域生活支援センターへの通所が安定していなかったが、9月になると、その支援センターで「すっかりよくなってしまいました。もう薬もいらないだろうし、再発することもないと思うんですよね。今までご心配いただき、ありがとうございました!」と語ったという。
「うーん。谷中さん、ホント大丈夫なんですかね」
自身を双極性障害ではないかと疑っている吉岡が、雅実に告げた。
「躁転してるんじゃなきゃいいんだけど・・・」と、吉岡は言葉を濁した。
果たせるかな、好調に見えたその時期は長くは続かず、むしろしばらくぶりに長い鬱の時期が昌行に訪れた。昌行にも、躁と鬱の周期があるようなのだ。しかしこの時期に鬱の周期に入ったのには、もう一つの理由があった。このことは、病的状態の周期が明けた、2012年5月の連休が終わった頃、ようやく昌行に把握されるようになった。
自分の誕生日というまさにその日に、あの大震災が起こったことで、この2つは分かちがたく結びついてしまった。そのことが今回の鬱の周期が始まった原因であるだろうと昌行には思われていたのだ。つまり、昌行には自分が生を受けた「から」あの災厄がもたらされたとの思いが、拭いがたくなってしまっていたのだ。しかしその思いについては、昌行から誰にも語られることはなく、カウンセリングで話題にできるのにも、実に数年を要したのだった。
こうして昌行には、一時的な精神的な空白期が訪れてしまった。雅実や由紀江は、そんな彼を思いやって、あれこれと関わることを手控えていた。それがよかったのかもしれない。昌行が以前から継続してきたブログの執筆や、再開できて数年になろうとしている読書は、確実に昌行を内面から支えていた。
2012年11月頃には、ようやく昌行も「しずく」の打ち合わせに、安定的に参加できるようになっていた。しかし、地域生活支援センターへの通所は止めにすることにしていた。それを告げた「しずく」の打ち合わせの席上で、昌行は新しい提案があるとしてこう語り始めた。
「勉強会っていうか・・・、読書会ってやれないかなと思うんですよね」
「読書会ですか? それって、本を朗読しあうの?」
「いやいや、由紀江さん。そうでなくてね。何でもいいんだ、何となれば、精神疾患についての本でもいいし、やさしい本を一冊決めて、みんなで意見や感想を語り合いたいんですよ。この会とリンクしてでもいいし、独立させてするのでもいいし・・・、どうだろう。今のぼくにできそうに思いますか?」
その場に居合わせた由紀江と壮介は、興味津々といった面持ちで賛意を示した。
2012年11月
読書会を始めたいという昌行の発案は、さしあたって「しずく」とは独立した形で実施するということに落ち着いていった。
「昌行さん、何でまた読書会なんて始めようと思ったの?」
今回の昌行の発案は、病的な勢いから発したものではないと雅実は察しているものの、聞かずにはおれなかった。
「ああ、それは2つあるんだよね。1つはね、例えば、何人かで映画見たり食事したりすると、ああ、おもしろかったねとか、おいしかったねとか、自然に話したくなるじゃない。読書もそうで、思わずよかったとか、おもしろかったとか、話し合える人間関係っていいなと思うんですよ」
「うんうん、いいね。で、あと1つってのは何?」
「それはね、この当事者会とかSNSとか見ててなんだけど、前は読書好きだったんだけど、病気してできなくなっちゃった、イヤになっちゃったって人が相当数いるってことなんだよ」
「ああ、そうだよねえ」
「でね、ぼくはいつの頃からなのか、まあそれはブログによると、2006年に『ゲド戦記』の映画が公開されて、それで原作を全部読んだって・・・」
「え? 全部読んだの?」雅実は驚いて、つい口を挟んでしまった。
「そう、全巻ね。別巻入れて6冊だったかな。それから、不思議と読めるようになったんだよね。で、そのからくりを言葉にして、シェアできたら、何か役に立ててくれる人がいそうじゃない?」
雅実は呆気にとられていた。つい先だってまで、躁だの鬱だのと言っていた昌行が、こんなにも伸びやかに自らが欲するところを、活き活きと語っているのだ。確かに誤算なのかもしれないが、それはまさしく、うれしい誤算であった。
雅実は由紀江と、昌行のこの着想を何とか実現させたいと語り合った。幸い、「しずく」の「準レギュラー」とも言ってよい吉岡、壮介、《ミューズ》こと、須藤めぐみらは、みな昌行の発案を支持してくれていた。
第1回の開催は、2013年の1月、「しずく」の分科会的に共催するような位置づけとすることが決まった。その検討過程で、昌行はさらにオンラインでの実施も想定したいと語り、さらに由紀江たちを驚かせた。
「日付を変えれば、オフライン、つまり対面での開催と、オンラインでの開催が並行してできると思いますよ」
読書会でさえ、まだ未経験だというのに、それをオンラインで実施する。そんなことは、聞いたことがない。雅実と由紀江は躊躇したが、昌行が言葉を継いだ。
「対面での会場に来れない人にこそ、アプローチしたいんです。病気とか経済的な要因とか、外に出づらい人に声がかけられればね」
「う~ん、正直不安はあるけど、少しずつやってみましょうね。で、昌行さん、1冊目には何を選ぶの?」
「雅実さんには話しちゃってるんだけどね・・・、『ゲド戦記』の第1巻かな」
2013年1月
昌行は、対面での読書会の実施と並行して、オンラインでも開催したいと発案していた。ビデオ通話ツールを使えば、全国からの参加が可能になる。会費を徴収しなければ、移動や食事等、参加者の負担の軽減にもなる。メンタルの病を抱えた人にとって、外出の障壁は少ないに越したことはない。昌行はそう考えていた。
しかし読書会というもの自体が、まだ一般には知られていないことにを考えると、それをオンラインでしようというのは、いささか時期が早過ぎたのかもしれなかった。「しずく」参加者に限っても、希望者がなかなか集まらなかったのだ。人集めという問題にこそ直面していたが、昌行の士気はいささかも衰えなかった。
読書会は、原則として月に1回、1冊程度を読み進めていた。昌行はそれとは意識していなかったが、以前就労していたコールセンター運用の企業での経験や、産業カウンセラーの勉強といったことが、特にオンラインでの読書会運営には役に立ったようである。昌行が心がけていたことの一つは、参加者の自発的な発話であった。また、決まった1つの結論を導くのではなく、暫定的な意見の集約に常に留めておき、いつでもそれにアクセスしたり修正したりできるようにしておくことも、目標としていたのだった。
吉岡啓は、始めの内は恐る恐る参加していた。うつの症状が出るようになってから、吉岡はほとんど読書ができなくなっていたからだ。そして、そのことは、吉岡本人の自己評価を著しく下げてしまっていた。しかし、この読書会に参加したことは、吉岡には大きな刺激となったようである。
「谷中さん、ぼく、最初はその場にいて聞いているだけでもいいですか? 本を読んで参加はできないと思うんですけど」
「もちろんそれで構いませんよ。参加だけでも大歓迎です」
「ありがとうございます。じゃあ、できる限り顔を出すようにしますね」
果たせるかな、1月の開催で吉岡はひと言も意見を述べることはなかった。しかし、「しずく」の席上で、会に参加してよかった、楽しかったと語るようになっていた。
「ぼくは元々、『ゲド戦記』のようなファンタジー物って、ほとんど読んでないんですよね。それにほら、アニメ映画があまり評判よくなかったじゃないですか。なので、たかを括ってたんですよ。でも、谷中さんのお話しはおもしろかったです。実際に読んでみようかなって思えました。本を読んでみようと思ったのは、病気関係以外のものでは久しぶりでしたからね」
「それはうれしいなあ、慌てないでいいから、少しずつでも読んでみてくださいよ。もし読み切れなくても、自分がダメだとは思わなくていいんですからね」
吉岡は、こうして少しずつではあったが、ある意味では回復の軌道に乗ったかのようであった。
2013年2月
初回の読書会で、『ゲド戦記』第1部『影との戦い』を取り上げて好評を博したことに気をよくした昌行は、次の2013年2月の回では、岩波ジュニア新書の『正しいパンツのたたみ方』という風変わりなタイトルの著作を課題テキストとして指定した。
「昌行さん、この本、大丈夫なの?」
「ふざけたタイトルだと思うだろうけど、真面目な家庭科の本だよ。読めば家庭科って科目をもう一度まじめに勉強したくなるはずですよ、雅実さん」
昌行は楽しげであった。
「この本はね、生活における自立ってことを深く考え直すきっかけになると思うんだ。ぼくのようにメンタル病んでる人って、生活を立て直すことにとても苦労してるんだけど、その参考にもなりますしね」
「へえ、昌行さん、高評価なのね」
「そうだよ、これはもう名著って言ってもいいだろうね」
著者の南野忠晴は、もともと高校の英語の教員だったが、朝食を抜いてくる生徒らを見ていて、生活指導を体系的に進めないといけないとして、家庭科に転じた変わり種だった。南野によれば、家庭科とは、身体の感受性を磨き、生活力を高めるための教科であるという。昌行が感じ入ったのは、まさにこうした着眼点に関してであり、精神の疾患で失調してしまった生活を再建するには有効と評価していたのである。
幸いにして、このテキストの読書会も、概ね好評であったと言ってもよかった。しかし、昌行の体調は芳しくはなかった。もともと、うつ病患者には日照時間が減る冬の時期に体調を崩す人が多い。昌行もそれと思い込んでいたのだったが、どうやらそうとは限らないものと彼は感じていた。ようやくそれを言語化して、カウンセリングでも話題としたのがこの頃だったのだ。2011年3月11日の誕生日にあの震災が起きたこと、その夜に、初めて女性と肌を合わせていることなど、これらが重なったことが、不調の原因なのではないかと、昌行はカウンセラーの浜口佳子に語れるようになった。
とはいえ、カウンセリングで語れたことで、即問題が解決ということにはならない。しかし、言語化し得たことは、問題として認識できたと言って差し支えないだろう。
「谷中さん、とてもたいへんなご経験だったと思います。よく話してくださいましたね。私、思うんですけど、このことって解決とか克服とかしないといけない問題なのかしら」
「どういうことですか?」
「うまく言えないんですけど、それを問題として否定するんじゃなくて、抱きかかえるようにして、一緒に生きていくことも可能なんじゃないかって思うんです。結論を急ぐことはありません。しっかりサポートしますから、考えていきましょうね」
「はい、ありがとうございます」
この後、昌行はほとんど毎年のように、誕生日が近づくと心身の変調に見舞われることになるのだが、それを不幸とは考えないようになっていった。それは、浜口の存在に起因していることは、言うまでもないだろう。
2014年9月(1)
「雅実さん、よかったら私のこと、お義母さんて呼んでくださいな。その方がうれしいわ」
雅実と離縁した斉木和正の実母の美代子は、スカイツリーの見学のために上京するのだと電話口で語った。
「それにね、あなたのことを気に入ってる知人もいるのよ。息子の嫁にどうかって言ってね」
「美代子さん、そんな」
「お願い、お義母さんって言ってちょうだい」
2014年、秋と言うにはまだ早い9月、ウィーン・フィルの東京公演の鑑賞も兼ねて、斉木美代子は上京する際に雅実に会おうとしていた。美代子は雅実を、すこぶる気に入っていたのだが、和正の発症が2人を引き裂いた。和正が地元・佐賀に去ったのは2007年だったが、美代子は常に雅実を思っていた。
「由紀江ちゃん、斉木のお義母さまが会いたいっておっしゃるの。私、どうしたらいいんだろう」
「お義母さん、悪い人じゃないし、いいんじゃないかなあ」
「それがね、どうも私に再婚話を持ちかけようとしてるらしいんだよ」
「そうかそうか。あれから何年になるんだっけ?」
「2007年だったから、7年だねえ」
「昌行さんはお義母さんのこと知ってるんだっけ」
「私が斉木と離婚したことまでは知ってるんだけどね」
「悩ましいねえ。再婚話を持ちかけられそうなことは、昌行さんには言っておいた方がよさそうだねえ」
「そうなのかなあ」
結局雅実は、美代子から話されていることを昌行には包み隠さずに伝えることにした。
「雅実さん、どうも明日のウィーン・フィル、行けそうにないの。無駄にできないから、誰か券をもらってくださらないかしら」
「美代子さ・・・、いえ、お義母さま、体調崩されたんですか」
「ちょっとね、疲れたのかしらね」
心当たりがあると言って雅実はそのチケットを引き受け、昌行に手渡すことにした。しかし、体調を崩したのは美代子ではなく、美代子と同席する予定の知人であった。思いがけず、昌行は雅実の前夫の実母と会うことになったのだ。
「あらあらあら、あなたが谷中さんなのね。お目にかかれてうれしいわ」
「お話しは千々和さんからうかがっています。和正さんはお元気でいらっしゃるんですか」
「はい、それはもうおかげさまで」
「それは何よりです。少し事情を聞いてしまっているものですから」
「あなたも、ご苦労なさったんでしょう。他人事とは思えないわ」
「ありがとうございます。まあ、でも今日はせっかくですから、演奏を楽しみましょう」
「そうね、ありがとう」
この日、ドゥダメルの振ったウィーン・フィルは、壮麗なシュトラウスとシベリウスを聴かせたのだった。
2014年9月(2)
「すてきな演奏だったわね。今日は昌行さんとお会いできてよかったわ」
当初の目的を一つ果たし終えた美代子は、満足げであった。美代子の上京の目的とは、実はスカイツリーでもウィーン・フィルでもなかった。雅実が長崎に帰ってこない理由を確認することこそがその目的だったのだ。そして、それは計らずも昌行との出会いで果たされることとなった。
斉木和正と別れたことを知った後にも、雅実を案ずる美代子の知り合いは何人もいた。雅実が帰郷して、新しい人生の扉が開かれることを願っていた者もいたのだ。しかし美代子には、雅実が帰郷しない、あるいはできない理由があることが直感されていた。その理由を確かめに、美代子は上京したのである。美代子は上京したことの理由を、昌行に告げずにはおれなかった。
「そのことなら雅実さんに直に伝えてあげてください。今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました。私もお会いできたことがうれしかったです」
「ありがとう。でもね、私は素直じゃないのね。雅実さんには帰ってからお手紙を書くわ」
美代子は簡単なあいさつだけを済ませて、翌日帰郷していった。
数日の後、雅実の元に美代子からの書簡が届いた。
前略、千々和雅実さま。
先般はあわただしい東京滞在におつき合いくださり、ありがとうございました。思いがけず、昌行さんにお会いできたことも、よい思い出となりました。くれぐれもよろしくお伝えくださいね。あなたたち2人にお会いするのは、これが最後の機会になるかもしれませんが、思い残すことは何もないでしょう。
ごめんなさい、今、私は嘘をついてしまいました。昌行さんにお会いできたのは、「思いがけず」じゃなかったの。この上京の目的は、実は昌行さんにお会いすることだったの。それがこんな風にお会いできて何よりでした。
これから書くことは、私の遺言だと思ってほしいわ。私はもう、あなたの耳に雑音は入れません。昌行さんとお会いして、はっきり決めました。あなたはそちらで、昌行さんたちと幸せになってください。もう、斉木の呪縛からは解放されていいの。斉木があちらに行ってしまおうとしたことの責任を感じていることはありません。あなたは幸せになろうとしていいの。
あなたは私にとって、本当に善い娘でした。一時だけでも娘であってくれたことを、私はとてもうれしく思っています。そして、斉木にとっても立派な妻でいてくださいました。私も斉木も、あなたの献身を生涯忘れることはないでしょう。それだけに、雅実さん、あなたには幸せになってほしいんです。
でも、あなたはもう幸せをつかんでいらっしゃったのね。私はそれを確信できて、本当にうれしかったのよ。昌行さんを離したらダメよ。あなたがお義母さまと呼んでくださったのは、私の誇りです。ありがとう。
早々
エピローグ
「吉岡さん。ぼくね、今度主治医が代わることになったんですよ。それでね」
昌行が「しずく」の集いが終わったあとで吉岡に語りかけた。2014年12月のことだった。
「次の先生には、うつ病ではなくて双極性障害として申し送りをしたそうなんですよね。それで、薬の内容も変更することにします、だって」
「そうなんですね、治療がうまく進むようになるといいですね」
「ありがとう、これでぼくも病識が深まるといいなと思ってますよ」
「それにしても、診断が変わるまで時間がかかりましたね」
「うん。これで腑に落ちることもいろいろ出てくるんでしょうね」
この度の診断名の変更を、昌行はむしろ歓迎していた。新しくついた診断名の双極性障害と、うまく折り合いをつけていこうと昌行は考えているのだった。
「吉岡さんはどうなんですか?」
「ぼくもうつ病ではないと考えているんですよね。診断名が変わるんだったら、早くそうしてほしいと思いますよ」
吉岡は、「しずく」や読書会に参加していることで、荘介のような知り合いもでき、以前よりは症状が軽快化しているように思っていた。それは、荘介も同様であった。
「しずく」のもう一方の柱である由紀江は、雅実に届いた美代子の手紙の内容を知って大泣きしたという。須藤めぐみの家庭の状況は好転の兆しはないものの、めぐみ本人には、いくばくかの明るさが戻ってきているように思われた。
雅実は、年末のあわただしさの中にあって、私は善き人々に恵まれたものだと喜びを噛みしめていた。仏教では、善き友人のことを「善知識」と言って尊ぶことがある。それは、成道、つまり自身の成仏を決定的に左右しさえするものだともいう。私はこの人たちと、共に生きていこう、共に歩んでいこう。雅実は改めてそう考えていた。私は、確かに一面ではこの人たちに影響を与えているかもしれない。しかしそれ以上に、私の方が影響を受けるどころか、強く支えられているのだ。この、天恵とも言うべき善き人たちと、私は生きていく。私は、大丈夫だ。
(完)
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。ときどき課金設定をしていることがあります。ご検討ください。もし気に入っていただけたら、コメントやサポートをしていただけると喜びます。今後ともよろしくお願い申し上げます。