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【本とわたし】 今日は本の日、後編。

前回の続きです。11月1日の今日は「本の日」
読書週間、読書の日、秋は本にまつわる記念日が多いです。この時期は、古本市、ブックフェスティバルなど、読書を促す・読書の魅力を伝えるイベントの開催も多くありますね!

全国各地の老舗書店で結成された「書店新風会」が制定。日付は11と1で数字の1が本棚に本が並ぶ姿に見えることと、想像、創造の力は1冊の本から始まるとのメッセージが込められている。読者に本との出会いの場である書店に足を運ぶきっかけの日としてもらうとともに、情操教育の一環としての「読書運動」の活性化が目的。記念日は2017年(平成29年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

(引用:雑学ネタ帳)

その人の『生きる』が文字となって写し出されている。
その人の生き方に触れて、私の心を動かす。


▼本を読んだら散歩に行こう/村井理子

▶︎実兄の突然死をめぐる『兄の終い』、認知症の義母を描く『全員悪人』、壊れてしまった実家の家族について触れた『家族』。大反響のエッセイを連発する、人気翻訳家の村井理子さん。認知症が進行する義母の介護、双子の息子たちの高校受験、積み重なりゆく仕事、長引くコロナ禍……ハプニング続きの日々のなかで、愛犬のラブラドール、ハリーを横に開くのは。読書家としても知られる著者の読書案内を兼ねた濃厚エピソード満載のエッセイ集。

お気に入りの書店に行き、色とりどりの表紙をまとった本を眺めるときの、あの高揚感を思い出すだけでも幸せだ。たくさんの物語がそこでひっそりと待っているという奇跡。すごいことだと思いませんか。

読書家として知られている村井理子さんが、この数年に救われてきた40冊を、現在と過去のエピソード交えて紹介している。
エピソードはどれも深いものばかり...ゆえに、先が気になって、読む手が止まらない。挿絵のラブラドールのハリーが読者に癒しをくれる...ホッとさせてくれる存在。



▼不滅の哲学 池田晶子/若松英輔

▶︎『14歳からの哲学』をはじめ多くの傑作を遺した孤高の哲学者、池田晶子。彼女が考え抜いたものとは何だったのか。その核心を読み解いた名著『池田晶子 不滅の哲学』(トランスビュー版)に書き下ろしの一篇「不滅の哲学」を加えた増補新版。

生きるとは何かという問いに、彼女は答えない。そもそも答えなどない、ただ問うこと、考えることが重要なのだと繰り返す。

私のこころの内側で、見ていること・感じていること
そのままそっと感じる。魂が読んでいる、その一つの作品を。
生と死 魂そして愛を。



▼私の生活改善運動 /安達茉莉子

▶︎日常において、とても些細なことだけれど、気にかかっていること。タオルやシーツ、ゴミ箱、セーター、靴、本棚……。これでいいやで選んできたもの、でも本当は好きじゃないもの。それらが実は、「私」をないがしろにしてきた。淀んだ水路の小石を拾うように、幸せに生活していくための具体的な行動をとっていく。やがて、澄んだ水が田に満ちていく。――ひとりよがりの贅沢ではない。それは、ひとの日常、ひとの営みが軽視される日々にあらがう、意地なのだ。それが“私”の「生活改善運動」である。

私の部屋にちゃんと本棚がないことが急に寂しく思えてきた。本棚にはその人の人格が宿るとすれば、自分の本棚が必要だ。私にだってあるのだ、押し入れに眠った本、私の血肉たち。何度もの断捨離を経て生き抜いてきたあの本たちは、あんなふうに押し込められていいはずない。本が近くにある生活にまた戻りたい。

あれしましょう、こうしましょう、と何かを強く促さない。エッセイだからまた良いのかもしれない。安達さんの視座を通して、自分の暮らしを見つめてる。私も、私の生活を愛している!



▼つくることば いきることば/永井一正

▶︎創作と生命。いのちの詩として編んだ画集に、より生活に力を与える「生きること」と「つくること」を主題においた言葉を加えた詩画集。 創ることに真摯に向き合ってきたクリエイターの身体と魂から生まれた絵と言葉のハーモニー。

善なるもの、真なるもの、美を求めて 生きるということが
わたし自身を生きやすくする。

自分がたまたま人間として生まれてきた不思議。ほんとうに不思議。この時代、この世に生を受けた。出会える人も限りある。命もいつ終わるか分からない。ただ今日もの生命を精一杯に咲かせる。


秋の夜長に読書を。
温かな時間は心を解きほぐす

 

【さいごに】

今年もカレンダーが残り2枚となりましたね。冬がきて、春がきて、夏がきて、また秋がきた。季節がめぐる、めぐる。
 秋の深まりとともに、自己内省の深まり、また寒い季節だからこそ、内に籠り、人生の深みを与えるような読書経験を求めているように思います。

 今ちょうど、哲学者・評論家である鷲田清一先生の『死なないでいる理由』を読んでいますが、私というひとりの人間、そして私の目に写る他者、他者から見えているわたし。生きること・老いること、滋味豊かなエッセイ。

いま わたしたちにほんとうに必要なのは、そういうねっとり密着した関係ではなく、距離をおいてたがいに肯定しあう、そういう差異を前提とした関係なのだろう。
わたしという個は、自己自身との関係のなかでではなく、私たちの共同組織のなかで編まれつつ、いわば特異点としてかたちづくられる。
他者たちによる承認はそこで大きな役割を果たすが、受け身でそれを待っていれば、相も変わらず依存のなかにしかいられない。

いつもありがとうございます。
11月もどうぞ宜しくお願いします!