怖がらなくていいよ
11月22日にEテレで放送された「ドキュランドへようこそ 女たちがいなくなった日"男女平等先進国"アイスランドの原点」を中学生の娘2人と一緒に見た。
男女平等を訴えて、覚悟を決め、行動に移した女性たちの姿は、誇り高くて美しかった。娘たちも「やっぱり行動した人ってかっこいい」「感動した」と感銘を受けていた。
番組では、1975年10月24日にアイスランドの成人女性たちの約90%が仕事や家事を辞めた日について取り上げられていた。
「自分だったら参加するかな?」
「楽しそう。参加してみたい」
「でも、逃げ場もない船の中でたった3人だけで部屋から出ずに抵抗を示さないといけないような状況だったら、怯んで働いていたかも…」
など話す中で、もし日本でも「○月○日に仕事や家事を辞めて集まろう」ってなったらどのくらいの人が参加するかなという話になった。
日本の成人女性の90%の人が参加するというのは無理かもしれない。
というのが私と娘たちの考え。
「そういうことに参加すると変な目で見られそう」
「参加する人が多数になったら、参加しやすくなると思うけど、まだ少数のときはきつい」
など「人の目」が気になって、90%もの人が参加しにくいのではないかと考えた。
一方、番組を見ていない夫にその話をすると、夫も日本ではそんなに参加者を得られないだろうという考えだったが、理由が違った。
「だって、そんなに男女不平等だって感じてる人いないと思うから。特に若い世代の人には」
だったのだ。
ちょっと待って、ちょっと待って、お兄さん!
「日本のジェンダーギャップ指数が低いのは知ってるよね?」
「そうだけど、だからってそれで困ってる人が多いとは限らない。実際女の人で政治家になりたい人とか、役職につきたい人は少ない。就こうと思えば就けるのに、目指さないのは責任をもつのが嫌だから。だからギャップ指数が低いからと言って不幸だとは限らない」
と。
さらには
「男女の幸福度調査によると、男性より女性の方が幸福度は高いんだから、日本の女性はそれほど不幸ではない」
との論を展開した。
もともと夫は、私がフェミニズムの話をすると、攻撃的な口調になる。
最後はどこか嘲笑的な口調で、「政治家にでもなれば?」と言って話を終わらせようとする。
その姿を見ると、いつも私は「攻撃は最大の防御」という言葉が思い浮かぶ。夫は何を一体守りたいのだろう。
自分自身のことを振り返ってみて、すっごく虐げられていて、つらくて不幸という状況ではない。
日本でそれなりに安全に暮らせているし、死と隣り合わせでもなく、衣食住も満たされている。
仕事もあって、テレビやSNSも見られて、本も読める。
だけど、うっすらだけど確かに感じる圧がある。
高校生のとき、祖父や両親に家から通える県内の国公立しかだめだと言われたり、押しボタン式の青信号で渡っただけなのに、待っている車の男性運転手に文句言われたり、ぶつかりそうになった自転車の男子高校生に捨て台詞吐かれたり、若い頃は特に「これって、私がいかつい強面の男性だったら言われずにすんだのでは?」ということも多かった。
あと、常に美醜を篩にかけられている感じ。学校でも、バイト先でも、公共交通機関でも、道でも。
その後結婚し、出産した。
婚姻届を記入する時、夫は2人の本籍地を自分の実家にした。私は自分の名字が変わることについては気にならなかったけど、本籍地が夫の実家になるのは違和感があった。
新居にきた夫の従兄弟が、皿洗いをする夫の姿を見て「○○(夫の名前)惨めやった」と陰で言っていたと聞いたときはショックだった。
子どもを生んでからは、夫がちょっと子どもと遊んでいると周りから「いいお父さん」「イクメン」と言われることに苛立った。
自分自身でも「お母さんはこういうことは言わない」「お母さんはこういうことはしない」とあるべき母像に自分を当てはめようとして、上手くできずに落ち込んだり、怒ったりしてきた。
夫が言うように、確かに今の日本は一応男女平等に開かれていて、政治家にもなれるし、役職にもつけるのに、そうなっていないのは、政治家になりたい女性や役職に就きたい女性は少ないのかもしれない。
選択肢は確かにある。
選ぶ自由も本来ならある。
だけど、今までいろいろなものを見聞きして、経験して、「こういうもんなんだ」と思って生きてきたから、そういう選択肢があることやそういう自由や権利があることが見えにくくなっている可能性もあるのではないか。
そして、それは男性もそうだ。
本当はこうしたいのに、そして本当はそうしてもいいはずなのに、押しつけられた男性像に苦しんでいるのなら、自由になってほしい。
男女平等は、別に男性を断罪するために訴えているわけではない。
相手を尊重することは、自分を損なうことにはならない。
だから、夫には怖がらなくていいよと言いたい。相手の声を聞くことを。
そして、私自身にも。
声をあげるのを怖がらないでと。