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天使、来店

 書店で働いていると、本当に色々なお客が来る。
 私はアルバイト時代から含めて、今年で勤続五年の新米だが、それでも数多くのお客に会ってきた。
 昨日も三丁目の深深淵(みぶかぶち)に住む河童の山次郎が店に来て、雑誌を買って行った。
 山次郎は偏屈な河童の中でもさらに気難し屋で、初対面のとき、ちょうど田舎の父が送ってきたきゅうりを店のみんなに差し入れで持ってきたので、山次郎にもおすそ分けしたら、緑の顔を真っ赤にして憤慨し、きゅうりを叩きつけて怒り出してしまった。
 山次郎曰く、河童にきゅうりを差し出すことは、人間を猿の仲間だとおちょくってバナナをちらつかせるに等しい行為なのだ、と力説されて、もし他の種族にそんなことをされたら腹立たしいかもしれない、と思って平身低頭山次郎には謝罪した。
 山次郎の好物は町内にある「パティスリールージュ」の季節のフルーツタルトらしく、月の下旬ごろに合わせて買って、店の冷蔵庫に保管しておく。河童はちょっとやそっと食べ物が腐っていても腹を下すことはないということなのだが、悪くなったものをあげるのも気が引けるので、来そうなタイミングを見計らって買っておく。
 山次郎は最近は人間のファッションが気になるのか、ファッション誌をよく買って行くのだが、なぜか男性ファッション誌ではなく、キャンキャンばかり買って行くので、ああいう女の子が好みなんじゃあるまいかと邪推しているのだけれど、口にはできない。
 そもそも山次郎は服を着ていない。全裸だ。人間なら即警察に御用となるところだが、河童は許される。法律は人間にしか適用されないからだ。法の外にある彼らが全裸で歩いていようと、気に入らないちんぴらを叩きのめして半死半生の目に遭わせようと、捕まることはない。けれども、根が正直で博愛的な彼らは、人間の法を犯すような無作法な真似はしない。
 山次郎が服を着ていない、という話だった。
 山次郎は毎月のようにキャンキャンを買って行くのだが、その成果が発揮された試しはない。一度思い切って、どんなコーディネートを参考にするのか訊いてみたことがあるが、人間のコーディネートは人間の肌の色に合わせた配色なので、河童の自分には合わないのだ、と嘆息混じりに言っていた。
 そして今、私の目の前には見たこともない美男子が立っていた。
 さらさらと岩肌を流れる水のように滑らかで艶やかなブロンドの髪、紺碧の水底よりもなお色濃い瞳。鍾乳石のような質感の肌の手足はすらりと伸びて、背中には二対の、白よりもなお白い、純白の翼。頭には黄金に輝くリングが浮かんでいる。
 そして一糸まとわぬその肢体は、艶めかしいというよりも、宗教画のような神々しさがあって、全身から光を発散しているように見えて、直視することができなかった。
 天使は私の方へ顔を向け、悲しそうな表情をして見つめた。
 私はその純粋な視線に晒されていると、自分がひどく汚れ切っているような気がしてしまって、思わず顔を逸らした。
「悲しい。この部屋の中には、人間の妄念が渦巻いている」
 妄念。確かに渦巻いているかもしれない。レシピ本は食欲を刺激するものだし、紀行本はここではないどこかへ、行きたがる人間の欲望を満たすものだ。漫画や小説は最近性描写が過剰で、性欲をいたずらに刺激するし、ドストエフスキーやバルザックといった小難しい古典は睡眠欲をよく刺激する。
 言われてみれば、書店ほど人間の欲望に満ちた混沌とした店はないのかもしれない。
「あなたも、その妄念に囚われている」
 天使は私を指さして言った。彼の声は天の遥か彼方から降り注ぐ鐘の音のように透徹で荘厳で、私の心を感動で打つとともに、その全き美しさが私の汚れ切った心を打ちのめしもした。
「あなたは彼氏が夜の相手をしてくれないことに悩み、BL本を読むことで欲求を誤魔化そうとしている」
 天使はさめざめと涙を流しながら、まるでアイスキュロスの悲劇を縷々と紡ぐように私の秘密を暴露するので、私は「ちょっとちょっとちょっと!」とカウンターから身を乗り出して天使の口を封じる。
 天使の唇は猫の肉球のように柔らかで弾力があり、私はその感触に一瞬忘我の境地に攫われ、昇天しかけたが、はっと我に返って「余計なこと言わないで」と叫ぶ。
 天使はするりと私の手から逃れると、羽ばたいてカウンターの上に悠然と下りる。目の前に天使の股間がぶら下がり、完璧な造形の彫刻を見たようで、「ほおー」と感嘆の声をもらして見入った。仕方ない。だって見たの半年ぶりなんだもの。
「ああ、あなたは哀れな人だ。最近お腹周りがきつくなってきたので、食欲を無理矢理抑え込んでいる。そんなことをしても、お腹周りに宿った肉は去らないと言うのに」
 うるさい、と叫んで脛を殴った。天使は「ああっ」と宝塚か劇団四季か、と言わんばかりの大仰な身振りでのけ反り、カウンターの上に横たわって脛に美しい指先を這わせると、悲しそうに私を見つめて、「それは悪魔の所業」と首を振って涙を白露のように散らしながら言った。
「おまけにあなたは、夜な夜なオンラインゲームに時間を注ぎ込んでいるせいで、睡眠欲すら満たしていない」
 何で知ってるのよ、と私はぞっとして後ろに下がる。
 天使は赤くなった脛に息を吹きかける。天使だけに傷でも癒えるのかと思ったが、白い肌にはっきりと紫の内出血の痕が浮かび上がっただけだった。
「彼氏に相手をしてもらえないからといって、FPSで他のプレイヤーを血祭りに上げることでストレスを発散するのはいかがなものか。その血なまぐささがあなたから彼氏を遠ざけているのでは……」
 うるさいなあ、と憤慨して、私は万引き犯に投げつけるカラーボールを握りしめる。あの真っ白な肉体というキャンバスはオレンジ色に染める甲斐があるわね、とほくそ笑む。
「あなたは満たされない人間だ。そんな人間が今、地上には溢れている」
 天使は滂沱と涙を流し、体を抱きかかえて、その現実の非情さに恐れおののき、打ち震えた。
「じゃあ天使はどうなのよ。睡眠欲も、食欲も、性欲も満たしているって言うの?」
 天使は「い、いや」と口ごもるとカウンターをゆっくりと下りて、カウンターを挟んだ形で私と向かい合う。
「わたしたち天使には、そういった欲は存在しない」
「私と一緒じゃない」
 天使はその論理のあまりの飛躍ぶりに、芝居がかった振る舞いも忘れて口をぽかんと開け、「ない、のと抑圧する、のでは意味が……」とごちゃごちゃと理屈をこねだしたので、私はでもね、とカウンターに両手を叩きつけて、眼鏡をくいっと上げて身を乗り出す。
「あなたたちは生まれつき『ない』のかもしれない。でもね、『ある』私たちがそれを抑えて生きていることほど、高度なことをしているとは思わない?」
 天使は狼狽しながら、「いや、人間は『ない』、わたしたちの在り方を目指して抑圧しているわけで、その点でわたしたちの方がより優位にあると言うか」と手を振りながら説明する。
「でも、あなたたちは『ある』状態を経験できない。その点で私たちの方が優れてはいない?」
 あ、と天使は意表を突かれて虚ろな表情になったがすぐにかぶりを振って頭に侵食してきた考えを打ち払って、「それは詭弁です」ときっぱりと断じた。
 私は言葉で説得するのは難しいな、と腕を組んでうーんと考え込む。天使って種族は正義を妄信しているからこそ、頑固で融通が利かないのかもしれないぞ、と思った。
 すると店の自動ドアが開いて、河童の山次郎が入ってくる。天使の姿を認めて「ゲッ」と言って露骨に嫌な顔をし、私に向かって嘘くさい笑顔を向け、「取り込み中みたいだな。まあ、適当に見させてもらうわ」と言ってそそくさと店の奥に小走りで去って行く。
 山次郎め、助けてくれてもいいじゃん、と思って、山次郎の憎らしい笑顔を思い出していたら、ふと考えついた。
 私はカウンター後ろのバックヤードに向かって、「店長、ちょっと出てきますから!」と叫ぶと、カウンターから出てファッション雑誌のコーナーに向かい、キャンキャンを読んで鼻の下を伸ばしている山次郎を「邪魔よ」と押しのけ、キャンキャンを一冊ひったくるように取る。
「あの、一体何を……」と天使は怯えたような表情を見せる。ああ、嗜虐心を刺激するその表情。人はキャンパスが白ければ白いほど、色々な色で滅茶苦茶に塗りたくってやりたくなるものなんだ。
 天使は中性的な美男子で、体つきは華奢だ。女性にも男性にも見える骨格をしている。つまり、着ている洋服次第でどちらの印象にも転がるということだ。
 アダムとイブは禁断の実を食べて、羞恥心を知ったという。天使には、オシャレという禁断の実を味わってもらって、羞恥心を知ってもらおうじゃないか。そして改めて訊いてやるんだ。「ある」のと「ない」のとではどっちが上等なのか。
 私はキャンキャン片手に、天使の手を引いて店の外に出る。外は霧雨が舞っていたけれど、そんなこと関係ない。駅ビルの方に行けば、ショップは山ほどある。そこが次のあなたの戦場だよ、天使。と私はほくそ笑んで雨の中を突き進む。

 やりすぎちゃったなあ、と私は反省しながら店のカウンターに頬杖をついてもたれていた。
 昨日は五時間も天使を連れ回して着せ替え人形にした結果、先月の給料の残りも少ないっていうのに、そのほとんどを吐き出させられてしまった。
 あーあ、とため息を吐いていると、店の自動ドアが開いて、大人のお姉さん、といった出で立ちの洗練された美女が入ってくる。
 瞠目して見ていると、美女は私に気がついて手を控えめに振る。仕草も女らしい。
 美女は天使だった。美男子がファッション誌でオシャレを学んだら絶世の美女になってしまった。店のガラスのウインドウにも無数の老若男女が張り付いて天使の姿を追っている。
「わたしが間違っていました」と天使は腰を折って頭を下げる。
「欲のあることの、なんと素晴らしく美しいことか。無欲であることは欠落であって、欲があることは完全であることなのだと」
 天使は頬を上気させ、うっとりとして手を頬に沿わせて潤んだ目で私を見つめる。
「だがそれだけに、欲に囚われ、振り回されないことは困難です。欲を抑えているあなたは素晴らしい」
 私は口角をひくひくとさせて、「そう、ありがとう」と抑揚のない声で答えた。
「きっとあなたの素晴らしさに彼氏も気づきます……。あ、でもそうしたら性欲を我慢することもなくなるわけで、そうすると……」
 我慢の限界を超えた私はカラーボールを握ってカウンターの影から引っ張り出し、「うるっさいわね、いいからほっときなさいよ」と叫んでボールを投げたが、天使は意図していなかったのか、「あ」と呆けた声を出して、翼をはためかせて風でボールを押し返し、ボールは私の顔面に直撃して弾け、全身をオレンジに染めた。
「ご、ごめんなさい」と天使はしおらしく頭を下げ、「また買いに来ます」といそいそと店を去って行った。
 店長が奥の事務所から出てきて、全身をオレンジに染めた私を一瞥して、「最近のファッションは過激で分からんなあ」と乾いた笑い声を上げたので、「ファッションじゃない!」と叫んだが、店長は外に出て行ってしまっていて、私の叫びは虚しく一人木霊した。
 私は掃除用具入れからモップとバケツを取り出し、店の床に散らばったオレンジの塗料を落とそうと必死にこするが、一向に落ちる気配がない。
 書店で働いていると、本当に色んな客がきて、店員がどうしようもない苦労に見舞われることがある。
 そのことを、きっと覚えておいてほしい。

〈了〉


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