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イステリトアの空(第13話)

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■本編

 柳沢吉保の屋敷を後にして、千住に戻り、そこで頼蔵と一旦合流して手筈を確認し、頼蔵は後方から安全を確認しながら進み、正宗たちが先行する道中となった。越ヶ谷を過ぎた辺りで葵がぜえぜえと肩で息をし始め、「籠でも呼びません?」と弱音を漏らし始めたので、「籠など大名が使うものだ」と斬り捨てて先を目指した。だが歩行の速度を葵に合わせたので、思うように距離は稼げなかった。
 長曾根はもう数日先行している。少なくとも正宗が眠りこけていた四日は大きな損失だ。ひょっとしたらもう猫人間を補足しているかもしれない。急げるなら急げるだけ急ぎたかった。
「葵殿はどうやって柳沢様と知り合ったのだ?」
 日光街道を栗橋に入った辺りで、茶屋に立ち寄り、茶を両手で抱えながら正宗は訊いた。
 団子を頬張っていた葵はもぐもぐと団子を咀嚼して飲み込むと、薄い桃色の布で口元についた団子のたれを拭う。
「正宗さんとそう変わらないですよ。行き倒れてたところを散歩していた吉保さんと小松さんが見つけてくれて。色々と面倒を見てくれたって感じです」
「行き倒れてたということは、旅の途中か何かなのか」
 うーん、と葵は腕を組んで首を傾げ、考え込む。
「旅と言えば旅ですね。でもどこが目的地なのか、わたしにもよく分からないというか」
 目的地の分からない旅か、と正宗は呟いて茶を啜る。「まるで人生そのものだな」
「そうですね。でも人生には終わりがありますから。生から始まり、死に帰着する。その旅の途中でどこに立ち寄るもその人の自由ですけど。でも、わたしの旅にはそれがありません。時の果て、世界の果てまでいっても終わらないんです。そしてわたしが旅の途中でどこに立ち寄ったかで因果の糸が縺れたり解けたりする。旅の果ての先に誕生があり、誕生の先に果てがあり。ぐるぐる巡って終わらないんですよ」
 正宗は話を理解しようと考えて、頭がこんがらがり痛くなってくる。
「何やら面妖な話ではあるが。葵殿が死ねば、やはり旅は終わりではないのか」
 葵は残念そうに苦笑して首を横に振った。
「わたしは死なないんですよ。だから時の果てまで見てきたわけで。それなので正宗さんもわたしのことは気にしないでくださいね。死んだりしないので」
 まさか、と正宗は笑い、勘定を置いて立ち上がった。
 それから二日で二人は宇都宮藩に入り、国宗から預かっていた奏者番の板橋家への紹介状を使って、板橋家に逗留した。出立の前に、板橋家の当主から、日光の手前の今市という場所にも板橋という地があり、そこに板橋家の遠縁の者たちが暮らしているので、頼ってみるといいと紹介状を渡され、重ねて礼を言って出発した。
 それから徳次郎の宿場を過ぎ、大沢に入ったところで日も暮れてきたので、板橋家から預かった地図で遠縁の家という場所を確認し、板橋に向かう。田畑が広がる長閑な土地で、小高い山の上に平城の跡が残っているが、今は誰もいないという。かつては板橋藩として藩の機能が置かれていたらしいが、江戸初期には日光の寺社領に吸収されてしまったそうだ。よく見ると、集落の家々は城の方に玄関が向くように建てられている。
 城山の麓にある屋敷に泊まることになり、質素ながらも歓待の気持ちが窺える山菜おこわや鱒の塩焼きを食べ、湯を浴びて正宗は部屋にごろりと寝転がっていた。
 斬れるだろうか、国宗心徹を、師匠をこの手で。
 正宗は自分の手を蝋燭の灯りに晒して見る。自分の手に脈打つ血が透けて見えるのか、手は血塗られたように赤く見える。
 父が斬られた。しかも最も信頼していた部下の正宗に。それを知ったら、桜華はどんな顔をするだろうか。芙蓉のように仇討ちを考えるだろうか。だが、それならそれで構わないのかもしれない。大人しく討たれてやれば。だがそれも、桜華の苦しみの荷を増やすだけだと思うと、正宗の心は張り裂けそうになる。
「旦那、ようがすか」
 頼蔵か、と呟くと正宗は起き上がって着衣の乱れを直す。「構わない、入れ」
 すっと襖が開いて頼蔵は素早く入ると、音もなく襖を閉めて正宗の前に腰を下ろす。
 正宗は板橋家の紹介の家で休息と銘打って二日を費やし、頼蔵を先行させ日光の様子を探っていたのだった。
「見つけました。長曾根です」
「仕留めた様子は」
 頼蔵はにやりと笑って首を振った。「ありません。闇雲にあちこちを探し回っているようです」
 正宗はほっと胸を撫で下ろす。「一先ずは安心してよいか」
「ええ。ですが猶予がどれだけあるかは分かりませんぜ。長曾根の旦那が偶然見つけちまうかもしれねえ」
 頼蔵は渋い顔になって、「旦那の敵は御家老だけじゃねえかもしれねえ」ともらす。
 どういうことだ、と正宗は不安になって問う。
「長曾根は宇都宮藩から同行していた藩士を斬ったんですがね、その太刀筋、体捌きといい一流のものと見受けました。旦那には及ばねえだろうが、もし御家老と長曾根の二人を相手にしなければならなくなったら、ちいといくら旦那でも分が悪いんじゃねえですかね」
 正宗も長曾根の腕がそれなりにあるだろうとは見ていた。恐らく長曾根が芙蓉と結託できるほどに雨月と正宗の事情に通じていたのは、雨月の暗殺の見届け人を長曾根が務めていたのではないかと思っていた。
 見届け人は刺客が確実に対象を斬ったか秘かに確認する役割の者であり、もし刺客が仕損じたときには可能なら見届け人が対象を斬ることから、高い腕をもった者が選ばれることになっていた。長曾根がもし見届け人だったとしたら、正宗が仕損じた後の雨月へのとどめを刺せる程度には腕が立つと認められていたことになる。
 だが、長曾根の利と自分の利が重なれば、二人がかりで国宗を斬れるか。正宗は腕を袖に入れて腕組をしつつ考える。長曾根も一筋縄ではいかない曲者だ。単純に共闘する利益を示したとしても、途中まで協力体制をとりつつ、勝ちを確信したところで裏切られてばさり、といかれることもありうる。
 それに一度は自分を殺そうとした相手だ。お互いに信用するのは無理があろうと正宗は考えて呻く。
「先に長曾根を斬る、か?」
 いやいや、と頼蔵はにやっと笑んで、「ここは漁夫の利をいただきましょうや」と提案する。
「国宗様と長曾根を戦わせるのか」
「あい。さすがの御家老様も、長曾根相手に無傷というわけにはいかんでしょう。疲労もするはず。そこを旦那がつけば、勝ちの目は転がり込んでくるんじゃねえですかい」
 あまり好かんやり方だが、と正宗は嘆息しつつ、「それしかなかろうな」と諦めたように頷く。
「旦那、あっしは奇襲ができる位置に潜みます。ただ、旦那が優位であれば出ません。万一のときの備えとして控えておきます」
「ああ、その万一がないように、うまくいけばよいのだがな」
 頼蔵は頷いて、「では」と部屋を後にする。残された正宗は障子戸を開け、外の空気を吸う。蛙が鳴いている。風は音もなく吹いて、正宗の火照った肌を冷やす。気が、体が昂っている。師匠との真剣勝負など初めてのことだ。不安な反面、武者震いを伴うような喜びが体の内に蠢いている。それが熱となって現れる。平静さを失えば、まずい。いついかなるときも感情に振り回されずに冷徹に剣を振うこと。それが師の心徹から教わったことだ。だが、師から教わったことだけで勝てるのだろうか。自分自身で見出した理、剣理を見出さなければ、師を凌ぐことなどできないのではないだろうか。
 戸を閉め、夜具に包まる。考え過ぎれば思考の迷宮に囚われる。今は無心になって眠るべきだ。正宗は暗闇の中で目を瞑り、さらに深い闇の中へと落ちていく。
 翌朝起きて、飯と焼き魚と山菜の煮物の朝飯を食べると、出立する。葵は「朝早すぎない?」と不平を言っていたが、大人しくついてきてはいた。
 昼前には日光の門前町に到着し、猫人間や長曾根のことを聞き込みしつつ上っていくが、さして情報はなかった。ただ猫人間が目撃されたと思われる直後から、何人か行方不明になった村人がいた。それが猫人間の犠牲になったのか、口封じに剣杖に始末されたのかは分からなかった。
 途中岩壁の崖に挟まれた隘路の手前で旅籠屋を見つけ、この先に宿があるか訊いてみると、宿の親父は「この先には宿なんかねえよう」とからからと笑って言った。「なあんもねえ田舎村があるだけだあ」と付け加えて、「お客さんら、この先に言ってどうするんだね。そういや、少し前にも若いお侍がここを越えていったっけなあ」と思い出しながら言った。
 まだ日は高かったが、その日はその旅籠に泊って、翌朝早くに日光の奥、細尾へと出立した。
 最悪なのは長曾根と遭遇する、または長曾根に捕捉されることだったが、どちらも避けられた。道中は整備されていない雑草が生い茂る砂利道だったから、葵は文句を言いながら歩いていたが、目指す細尾村はすぐだった。
 中禅寺湖へと登る山道とは別に、川を挟んで反対側に村があった。川幅は大きく、流れも豊かなので渡し舟屋がおり、渡し舟屋に二十文握らせて舟に乗ると、近頃舟に乗せた若者はいないか、正宗は訊ねてみた。
「そうですなあ、何日か前に、若いお侍を乗せましたな。ええ、お一人でした。目つきのいやに鋭い、と思うと饒舌な、ちぐはぐな印象を受けるお方でしたな」
 やはり長曾根も細尾村に入っているか、と正宗は考え込む。とすると下手に民家を訪ね歩いたりするのは危険だ。人目につかない内に山林に入って捜索する方がよさそうだ。野営に必要なものは頼蔵に揃えるよう指示してある。葵は文句を言うだろうが、しかたあるまい。
「ね、猫人間の被害ってあるのかな」
「いんや、そんな奇怪なものの名前も聞いたことねえよ。あ、そういえば最近木こりの次郎太が何か見たっつってたが、その次郎太も姿を見かけねえな」
 村ではさしたる被害は出ていない。だがその次郎太という木こりは目撃者となったために、長曾根あたりに消されたのだろう。
 そんなことを考えていると、舟は対岸の船着き場に着いた。
 二人は下りると、人気のあるところは避けて村外れに向かい、設えられた柵を越えて林の中に入る。
「うわっ、蚊じゃん」と悲鳴を上げながら葵は自分の二の腕を叩いた。潰れた蚊から赤い血が垂れている。「最悪、食われた」と葵は腕を必死に擦っている。
「蚊などで騒いでいては身がもたんぞ。猪や鹿、運が悪ければ熊と出くわすかもしれん」
 正宗が苦言を呈すると、葵は唇を尖らせながら、「分かってますよう」とふくれっ面をしてみせた。
 藪の中をかき分けてはかき分け歩き回るが、猫人間の姿はおろか、長曾根が通ったらしい痕跡もなかった。
 うーん、でもなあ、と葵は周囲をきょろきょろと眺めながら手近な樹の樹皮に触れる。鹿が食べたのか、腰から下の樹皮が剥げていた。。
「村では猫人間の被害がそんなにないんだから、こんな村の近くにはいないんじゃない。いるとしたら、きっともっと奥の方だよ」
 正宗もそれには同意し、休憩して塩むすびを一つずつ食べて腹ごしらえをすると、北に向かって進み始めた。
 しばらく進むと、正宗が立ち止まって手で葵を制する。「妙だ」
「妙って、何が」
「獣の気配がない。虫や鳥も。嫌に静かだ」
 正宗は左手で刀の鍔に親指をかけ、いつでも鯉口を切れるように構える。二人は足音を押し殺しつつ四半刻ばかり林の中を歩き回ると、不意に遠くで金属音を聞いた。金属が衝突する音だ。
 うっ、と呻き声を上げて、葵はしゃがみ込む。どうした、と正宗が駆け寄ると、葵は両手で頭を抱えて、「なに、この感じ。力が阻害されるような……」と額に脂汗を滲ませて喘ぎつつ言った。
「辛いなら、ここで休んでいろ。様子を見てくる」
「ううん、わたしも行くよ。でも、正宗さんの役には立てないかも……」
 正宗は音の方向へと真っ直ぐ駆け出す。それを葵が追い駆ける。「草鞋でそんなに速いって、正宗さんの足ってどうなってんの」、葵が叫ぶので、正宗は振り返って微笑み、「葵殿もなかなかだ」と褒めて返す。
 鬱蒼と木々が茂る道を駆け抜けると、開けた場所に出る。切り株が均等な感覚で並んでおり、人工的に切り倒された様子が窺えた。その広場の中心で猫の顔をして、体は人間ながら農民の着るような麻のぼろ布を纏った奇怪な存在、猫人間が腰を抜かしていて、抜刀した長曾根がその切っ先を猫人間の眼前に突きつけていた。
 よく見ると、猫人間の顔や体には幾つもの切傷が刻まれて血が流れていた。長曾根によって殺さない程度に痛めつけられていたのだろう。
 葵はその傷の痛みが自分の痛みであるかのようにぎゅっと目を瞑ると、はっきりと目を開け一歩踏み出した。
「やめなさい。それ以上その人を傷つけちゃいけない」
 葵の声に長曾根は正宗と葵の姿を認め、正宗の存在に顔をしかめたものの、いやらしい笑みを浮かべて「遅いご到着だな、正宗殿」とからかうように言った。
「貴公が毒を盛ったりしなければ、遅れをとることはなかったがな。芙蓉の悲しみを利用したな、長曾根」
 正宗の右手が刀の柄にかかる。二人の距離はまだ五間ほどはあった。長曾根は余裕を見せている。
「なあ、おい、あんた、助けてくれよ。こいつをなんとかしてくれ!」
 突然猫人間は正宗の方に向かって叫ぶ。その声は紛れもない人間の若い男のものだった。
 正宗だけではなく、葵もまた絶句していた。「猫人間が自我をもっているなんて。変換が中途半端になされてしまったの?」、長曾根は気色悪い、と叫んで刀を振るい、猫人間の太ももの辺りを斬りつける。猫人間は悲鳴を上げて倒れる。
「やめなさいってば。それ以上やったら死んじゃうじゃないの」
 長曾根は葵の叫びにせせら笑って、「死んじゃう? 殺すんだよ。人に仇なす怪物をな」と刀を上段に振りかぶる。
 まずい、と叫んで葵は右手を掲げる。そこには四本の指輪が嵌められていた。二つの指輪はぼうっと淡い光を帯びるが、すぐにその光が霧散するように消えた。
「力が発動しない。どうして」
 葵が悲壮な叫びを上げる。猫人間が「助けて」、言い終えるより速く長曾根の刃が煌めき、猫人間の首を斬り落とした。
 猫人間の頭はごろごろと転がる。頭を失った胴体はゆらりと揺れるとうつ伏せに倒れる。
 葵は言葉にならない呻きを漏らしていたが、正宗にとってはここまでは任務の想定内だった。そして長曾根が国宗に従順な姿勢を見せるなら、掟を順守するはずだ。そうでないなら、何らかの逸脱行動をとる。それを見極めねばならない。
 長曾根は懐紙で猫人間の血がついた刃を拭うと、腰の鞘に納める。そしてうつ伏せになっている死体を蹴り飛ばしひっくり返すと顎に手を当てながら吟味し、次いで転がった首のところでしゃがみ込んで眺め、手を伸ばそうとした。
「長曾根殿。掟のことは、よもや忘れてはおるまいな?」
 長曾根はそれには答えず、頭の毛を鷲掴みにすると頭を立てる形で地面に置き、閉じた瞼を無理矢理開かせる。そこには美しい宝玉のような瞳があった。
「なあ、正宗殿。我ら優れた人間がいいように使われているのは馬鹿げているとは思わんか」
 正宗は左手の親指を弾いて鯉口を切る。長曾根はしゃがんで不利な体勢だ。隙をついて駆け寄れば、相手が刀を構えるより速く袈裟切りに斬って捨てることができる。だが、長曾根のその隙の見せ方が気になった。あまりにもあからさますぎる。罠か。正宗は迷う。
「知っているか。猫人間の皮や爪は優れた武具の素材になる。それらは時の権力者に献上される。だが、猫人間の瞳だけは献上されることはない。国宗家の懐に入る。なぜか。瞳こそが猫人間の力の源であり、絶大な価値をもつからだ」
 長曾根の指が猫人間の瞳へと伸びていく。眼球を鷲掴みにするように指がずぶずぶと目の中に食い込んでいく。「いや、だめ」と葵は拒絶するように激しく首を振っていた。
「ならば、その瞳を我が物としてしまえば、国宗家など不要だと、剣杖の力は幕府が管理できると、間部様はそう考えられた。正宗殿。貴公は確かに強いが、剣など不要な時代が今に来るぞ。剣を極めた達人を、何の訓練も受けていない農民兵が殺す。そんな無慈悲な時代がな。そのときのために、猫人間のもつ神秘の力は幕府で管理する必要がある。前時代的な剣杖ではなくな」
 長曾根が指を引き抜くと、その手の中には猫人間の眼球が握られていた。血に濡れて生々しい眼球は急速に硬化し、石のような硬度になる。黄金の光を放つ宝玉となったそれに、長曾根は見入った。
 しばらく勝ち誇った笑みで見つめていた長曾根だったが、突然雷にでも打たれたかのようにぶるぶると震え、天を仰いで恍惚とした表情を見せた。
「こ、これはなんだ。この景色。けっしてこの国ではない。だが、あんな物体が……」
 長曾根は歓喜に震えていた。それゆえ気づかなかった。
 木立の影から一人の男が現れ、あっという間に長曾根との間合いを詰めた。流石の長曾根も間合いに入られて男の接近に気が付いたが、頭が未知の景色への憧憬に囚われていた彼は正常な判断ができなかった。それにそこまで接近されては、最早身動きをとることもできなかった。
 白光の一閃が走ると、長曾根の首から血が噴き出した。
 そこに立っていたのは、国宗心徹であった。編み笠を被って顔を隠していようと、正宗には分かった。足さばき体さばき、それに太刀筋。どれも師の国宗心徹であることを示していた。
「国宗、何を……」
 口から血を零し、傷口を押さえてよろめきながら恨めしそうに国宗心徹を睨みつける。
「間部の犬め。大それたことを考えたものだな。だが、わしらを出し抜こうとは笑止千万。この国宗心徹が千里眼をもつことを失念したか」
「犬は貴様だ、国宗」
 血でくぐもった声で叫び、長曾根は腰の刀に手を掛ける。だがその瞬間には国宗心徹の刀が閃き、柄にかけた指の数本が宙を舞った。呻く長曾根に向かって、国宗心徹は「掟を犯した時点で、貴様の命数は尽きていたのだ」と振りかぶって袈裟切りに斬って下ろした。
 長曾根は後ろに一歩後ずさり、何かを言いかけて口をもごもごとさせるが、目が光を失ってそのままその場に崩れ落ちた。
「さて、後はお前の処遇だな、正宗」
 正宗は刀の柄から手を放し、構えをとく。恐らく正宗が柳沢吉保の意を受けていることは知られていると考えた方がいいが、臨戦態勢をとればそれを裏付けてしまう。なら、抵抗を示さないことで相手に疑念を吹き込み、油断もしくは隙を誘う方が上策だ。
「長曾根は惜しかった。まさか資格のある者だとはな。間部に野心を利用されなければ、次代の剣杖を担うこともできたろうに」
 資格、と怪訝そうに正宗は口にする。国宗からは相変わらず殺気が感じられる。一瞬の油断が命取りになるぞ、と頬を汗が伝うのを感じる。
「猫人間の宝玉から、その中に眠る記憶を覗き見ることができる素質だ。代々国宗の当主はその素質をもった人間が務めることになっている。ゆえに、わしには国宗の家の血は一滴も流れておらん」
 なら、千里眼が当主に発現するのはどういうわけだ。千里眼が発動したものが当主になるのではなく、後天的に付与されるものだとしたら。恐らく猫人間の目がその辺りと関わるのだろう。
 だがそんな憶測に思考を巡らせるより、この場をいかに切り抜けるかだ。真っ向勝負に持ち込めば勝率は四分あればいい方だ。賭けとしては分が悪い。葵は身動きがとれないようだし、頼蔵を使っても勝率は上がらないだろう。無駄に頼蔵を死なせるだけになる。頼蔵もそれが分かるから迂闊に動いたりはしないだろう。
「ふ。そう身構えるな。お主の相手をするのは儂ではない。お主には先約があっただろう?」

〈続く〉


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