リバースプラン(第一話)
1、原宮
曇天だ。現場に踏み込むとき、いつも曇り空を見上げている気がする。十一月の空は重苦しい灰色で、今にも雨が降りだしそうな表情を見せている。
若い男、県警の「侵生者対策特務課」に所属する刑事の原宮は、腰の辺りに触れて拳銃の感触を確かめ、路地を小走りで駆けて行く。まだ早朝の路地は人気もなく、狭い道なので車の行き来もない。もっとも、環状線への抜け道になっているので、通勤通学時間になるとひっきりなしに車がやってくる。一方通行なのに対向車が入ってきて、立ち往生している場面もある。原宮が張り込んでいるとき、そんな光景を幾度も見た。
古びてくすんだクリーム色の外壁のアパートに辿り着くと、その外階段の下で立って腕を組んでいる先輩刑事、倉内に小声で「どうです、動きは」とアパート二階の東の角部屋を一瞥して訊ねる。
倉内は五十手前のベテラン刑事で、特務課が新設された二十年前から所属している古株だった。剣道、柔道の有段者で、射撃の腕も高い。こと接近戦では模擬戦で原宮が勝てたことは一度もなかった。悔しがる原宮に、倉内は現場での切れ味鋭い剃刀のような表情を引っ込めて柔和な笑顔で、「お前さん、筋はいいよ。あとは訓練あるのみだ」と肩を叩いて励ましたのだった。
倉内は中途半端に伸びた無精ひげをざらざらとこすりながら顔を顰めて、「静かなもんだ」と首を振った。
「様子を見ますか」
いや、と倉内はコートのポケットに両手を突っ込みながら、「令状もある。踏み込むぞ」と階段を上がり始める。
二人は音をたてないように階段を上り、目的の部屋の前に立つと、原宮は腰から拳銃を抜いて扉の死角に立つ。倉内はそれを横目で確かめながら一呼吸置き、インターホンを押す。
しばらくは砂が流れるような静寂がインターホンから流れていたが、ややあって女の声で、「どちらさまですか?」と誰何する怪訝そうな声が響いてくる。
倉内は柔和な表情を作り、朗らかな声で「宅急便です。お荷物のお届けに上がりました」と原宮がびっくりするほど配達員になりきって言っていた。
「荷物?」
女の声に疑念が混じるので、倉内は畳みかけるように、「石田……こうゆうさん、ですかね」と腕時計を見ながら存在しないラベルを読み上げるように言った。
「ああ、みつひろです。光裕。あの子の荷物ね。今、開けます」
女は安堵したようだった。倉内は険しい刑事の顔に戻っていたが、原宮を一瞥すると、にやっと笑った。
さすがは倉内さん、と感心するとともに、原宮は気を引き締める。拳銃を握る手に汗をかき、グリップがぬるぬるする。特務課に配属されて三か月が経つが、未だに外で拳銃を握るのになれないのだった。
捜査一課時代は、拳銃は脅し、牽制の道具だった。実際に発砲する機会など皆無に等しい。だが、特務課はそうではない。公的に射殺許可を認められている特務課は、拳銃を抜かねば仕事が始まらない、と言えるほどだった。幸い、原宮の所属する県警は、混沌を極める警視庁管内とは異なり、特務課の出番となる事件も少なく、原宮は発砲する事態に陥らずに済んでいた。
扉のロックが外れ、扉がかすかに開くと、倉内は足を差し込み、一気に開く。そして女が叫ぶ間を与えないように原宮が女の前に躍り出て、拳銃を突きつける。
「県警、特務課だ。要件は分かってるな。令状だ」
倉内が令状を開いて女の眼前に押し付けると、原宮は拳銃を向けつつ部屋内の様子を窺い、土足のまま廊下に上がって行く。
「みっちゃん、逃げて!」
女が自らの身も顧みず叫ぶので、倉内は慌てて女の口を塞ぎ、後ろ手にして床に倒し、押さえつける。
「原宮、行け!」
頷くと、廊下を走って奥に向かう。リビングの扉を蹴破り、銃を三方に向けて警戒し、誰の姿もないことを確認する。
リビングでは二人分の朝食がテーブルに並んでいた。味噌汁がゆらゆらと湯気を立たせている。鮭の塩焼きに、納豆、サラダか。典型的な朝ごはんだな、と思いつつ、リビングの奥にある引き戸に背中を張りつかせ、耳を澄ませる。中から物音はしない。
掃き出し窓の前に置かれたチェストの上には、家族三人で撮った写真が飾られていた。先ほどの女と、その夫と見られる中年の、腹が若干突き出た男。顔つきがどことなくハシビロコウを思い起こさせた。そして彼らの息子と思しき少年。色白で華奢な、表情のない少年。
だが、用意された朝食は二人分だ。一人は女のものだろう。なら、あと一つは夫と息子、どちらのだ。
原宮が拳銃を片手で持ち、引き戸に手をかけて僅かに開ける。動きはない。部屋の中はしんと静まり返っている。一息、息の塊を吐きだすと、意を決して戸を引き開ける。そして開いた部屋の前に飛び出して立つと、拳銃を部屋の中へ向けた。だがそれと同時に、原宮の目の前に飛び掛かってくる男の姿があった。
原宮は男の体を躱しきれず、突進を正面から受け止めて、男ともつれ合うようにして後方に尻もちを突いて倒れる。
男は無言で手足をばたばたさせ、ひっくり返った亀のように起き上がれないようだった。
「原宮、遠慮するな、撃て。逃がすな」
倉内の怒鳴り声が廊下の向こうから響いてくる。そんなこと言ったって、と原宮の心中にはまだ受け入れがたい葛藤があり、逡巡なく銃を撃つことはできなかった。
原宮は男の体をはねのけると部屋の奥を見る。そこでは少年が窓を開けてベランダから飛び降りようとしているところだった。
待て、と叫んで立ち上がって追い駆けようとすると、青白い顔をした男が原宮の左足をがっしり掴んで、玩具を渡すまいとする子どものように足を抱え込んだ。
原宮は舌打ちして、右足で男の顔面を蹴り飛ばす。鼻が折れて曲がり、奥歯が折れて口からこぼれた。だが、男は足を抱える力を緩めようとはしない。
男は「侵生者」だった。侵生者の特徴は、白く濁りきった目だ。ガラスの中に牛乳を流し込んだように濁った目。それが生者と侵生者を識別する手段。
侵生者とは、死後何らかの理由があって蘇った人間のことだが、蘇る条件については未だ不明とされている。彼らは蘇っても、基本的には自律的に行動することはない。蘇った場所に留まり続けることしかできないが、人間の中に、侵生者を制御し操ることのできる存在がいる。その特殊能力者たちは、「コントローラー」と呼ばれ、侵生者と同様、存在が謎に包まれていた。
子どもの方が「コントローラー」か、と原宮は忌々しそうに足を掴む父親を見下ろした。あたかもそれは親が子どもを懸命に守ろうとしている光景に見えた。たとえ、子ども自身に操られてとっている行動にせよ。
原宮は右足の踵で父親の肩の付け根を蹴り飛ばす。すると片手の力が一瞬緩み、その隙に足を引き抜いて部屋に飛び込み、ベランダの柵に足をかけた少年に銃を向けた。
「止まれ。止まらなければ撃つ」
少年は振り返って、パーカーのフードの奥の口元をかすかに歪ませて、「撃てないくせに。日本の警察は口ばっかりだ」と目を細めて嘲った。
原宮は引き金に指をかけたが、それを引くことはできないでいた。願わくば、大人しく投降してほしかった。
「脅しじゃない。これは、脅しじゃないんだ」
原宮は追い詰めている自分が、どうしてこんなにも泣きそうなのだろう、と思いながら引き金に力を込めようとする。
少年は原宮が引き金を引けないことを見抜いて、嘲弄するように正面を向いて大きく両手を広げた。「撃ってごらんよ、お兄さん。どうせ撃てないのにね」
あはは、と少年が壊れたように笑い声を上げると、次の瞬間耳をつんざくような銃声が鳴って、少年の額が撃ち抜かれた。少年はぐるんと白目を向いて、そのまま天を仰ぐようにしてベランダの下へと落下していく。
「撃てと言っただろう」
原宮が振り返ると、倉内が銃を構えて立っていた。倉内の銃口からは曇天の雲のような煙が一筋立ち昇っている。
倉内は即座に照準を父親の額に合わせると、父親の額も撃ち抜く。頭を撃ち抜かれた父親はその場に崩れる。
「しかし、コントローラーは逮捕が原則では」
倉内は舌打ちすると、「んなもん、教本の上だけだ」と忌々しそうに言って、室内を物色し始める。
「コントローラーは死者なら何でも操っちまう。まあ、そいつの能力の精度次第だがな。犬や虫、人間以外のものでもだ。不意を突かれるとこっちが危ないこともある。だからコントローラーは先手必勝で殺すしかない」
原宮は承服しかねた。警察は殺し屋ではない。捜査し、犯人を逮捕するのが任務のはずだ。それを放棄して一方的に殺戮するのは、常軌を逸していると思った。
「納得いかないって面してるな」
いいえ、と首を振って原宮も室内の捜索に移る。
「思ったことは言った方がいいぞ。死んだら何も言えんからな。俺もこの仕事が長いが、喋る侵生者にはお目にかかったことがないな」
倉内はくっくと笑いながら、少年のものであろう、学習机の引き出しを開けて中のものを引っ張り出す。
原宮は押入れを開けて、衣類の収納箪笥や人形や車などがしまい込まれたおもちゃ箱を漁ってみるが、何か事件の参考になりそうなものはなかった。
それにな、と倉内は机の中から山積みのノートを引っ張り出すと、ぺらぺらと中をめくって眺めて言う。
「あの子どもを生かして逮捕したとして、そいつは科捜研の玩具にされるだけだ。コントローラーの被検体は貴重だからな。待っているのは人体実験の日々だろうよ」
そんなばかな、と原宮はおもちゃ箱にあったヒーローの人形を握りしめて立ち上がり、憤りの炎を燃やした目で倉内を睨みつける。
「法治国家で、そんな人権を無視した非道が」
倉内は眩しそうに目を細めて笑い、「若いねえ」と揶揄するのではなく、素直に感心してそう言った。
「法やら人権は、建前だ。綺麗な建前ってやつがなきゃ、人間は社会を維持できん。だがな、建前に大人しく従う人間ばかりじゃない。そんな奴相手に、建前を突きつけたって、こっちが危ないだけだ。毒には毒をもって制するに限る。無法には無法を。それが俺たち特務課の存在意義だ」
「だけど、おれは」と原宮は拳を握りしめ、唇を噛み締める。
「お前さんもいつか慣れる。特務課にいれば、否応なくな。それが出来なきゃ死ぬだけだ」
ノートをめくっていた倉内の手が止まり、間に挟まれていた栞のようなものを取り出してぶら下げて示す。
それは丸印の中に黒い樹が描かれた栞だった。マークの下には日付と番号が書かれている。
原宮は受け取って表裏引っくり返して眺めてみて、「これはなんです」と倉内に返しながら訊ねる。
「そいつは『永劫の樹』の会員証みたいなものだ。日付と番号が、それぞれ加入した日と、順番を示している」
「永劫の樹」。コントローラーの特殊能力を持った者たちが集まる結社。最初はその能力故に恐れられ、迫害されたコントローラーたちを保護する目的のNPO団体だった。だが、今の代表の神鳥谷源城が代表の座に就いてから、団体はその活動目的を変貌させ、一種の新興宗教のようになって、コントローラーこそ神に選ばれた新人類と嘯いて、人々に危害を加え始めた。神鳥谷のその思想は世界を超えて広まり、今全世界的な規模でコントローラーによるテロ活動が起こり、実際に国家が転覆してしまった国もある。だが、コントローラーに死者を操る力はあっても、政治的な力など持ち合わせないので、国家が滅んだ国は無政府状態で無法の蔓延る地獄絵図の様相を呈しているという。
特務課の最終目的も、神鳥谷の逮捕だ。だが、倉内の言葉から察するに、神鳥谷も問答無用で射殺しようとするだろう。だが、神の代行人を名乗る人物がヒロイックに死ねば、神格化される恐れがある。そうなれば、永劫の樹の勢いは強まり、抑えることができない炎として燃え広がってしまうのではないか、と原宮は懸念した。
「あの少年も、永劫の樹の構成員」と原宮は呟く。
倉内は髪をわしわしと掻き乱し、「ここは俺が見る。お前さんは下りて、死体の処理の手配などを頼む」とノートをぱたりと閉じながらそう言った。
分かりました、と答えて、拳銃を握りしめたままであったことに気づき、腰のホルダーに納めて部屋を後にした。
廊下では母親が突っ伏して泣いていた。原宮は気の毒に思い、手を伸ばしかけたが、思い留まって手を引き、横をすり抜けて立ち去ろうとする。
「私が、あの子が何をしたって言うんですか」
母親は怒りと憎しみに満ちた声を原宮の背中にぶつける。
振り返って彼女を見た。髪の毛はぼさぼさで、目の下には濃い隈ができている。唇はかさかさで肌の色つやも悪い。恐らく、死体と日常生活を送るその非現実さと、罪悪感に圧迫されていたのかもしれない。
「死体の操作は重罪です。お子さんがコントローラー能力を手に入れても、それを使わなければ逮捕されることはなかった」
逮捕、と母親は素っ頓狂な声を上げる。「殺害の間違いじゃないんですか」
ぐっと、原宮も言葉を飲み込む。それを付け入る隙と感じてか、母親は立ち上がって原宮に駆け寄り、胸倉を掴んで縋りつき、悲鳴のような声で「あの子を返して」と泣き叫んだ。「人殺し」と繰り返した。
「少なくとも、あなたたちがご主人を生きているように見せかけて、失業手当を不正に受給し続けたことは犯罪です」
原宮は苦し紛れに言った。
「それが、殺されるに値するような罪ですか」
もっともだ、と原宮も思う。手当を不正に受給していたからといって、コントローラーであるからといって、その命を一方的に蹂躙されていい理由にはならない。
母親に確固たる答えを返せないことに、原宮は忸怩たるものを感じながら、彼女の手を振り払って、部屋から出て行く。階段から下りて、少年が落下した中庭側に回り込むと、両手を広げて、天を睨むように目を見開いたまま息絶えている少年を見下ろし、原宮は電話をかける。
後発で到着した応援に状況を説明すると、後を託して原宮と倉内は本部に引き返す。事の顛末を課長に報告すると、課長は渋い顔をして目を瞑り、腕を組んで背もたれにもたれると、片目を開けてじろりと原宮を睨みつけ、「一瞬の判断ミスが命を奪うこともある」と厳しい声で言う。
倉内はそれをとりなすように、「まだ入ったばっかりですから」と原宮の背中を叩くと、課長は「クラさんがそう言うなら、まあ」と渋々頷いて、「よく肝に命じたまえ」と机上の書類に目を通し始めたので、倉内と原宮は「失礼します」と課長の前から下がった。
「課長にお小言言われたな」
先輩で一児のパパである石嶋が、デスクに着いた原宮にキャスター付きの椅子を滑らせて近寄り、にやにやと笑いながら声をかける。
石嶋は原宮よりも三歳年嵩で、年の分、原宮よりも特務課の経験が長い。去年起こった永劫の樹による市長暗殺事件を未然に防ぎ、主犯格のコントローラーを始末した立役者で、次代の特務課のエースと見なされていた。
倉内班には他にも紅一点の江藤や倉内に次ぐベテランの山岡がいたが、今は不在にしているようだった。
「石嶋さんは、納得してこの仕事やってるんですか」
原宮は石嶋のデスクの上を眺める。机上は私物禁止だったが、石嶋はフォトフレームに入れた家族写真を飾っていた。どこかの遊園地で撮られた写真らしく、メリーゴーランドが背景に写っていた。
原宮は独身だ。結婚した人間の感覚も、子どもがいる人間の感覚も、想像はできても完全に理解することはできない。今日子どもを刑事に殺されたあの母親が、どんな無念と憤り、憎しみを抱えているのかは分からない、と原宮は思った。なら、家族がいる石嶋が現場にいたのならば、理解できたのだろうか。理解した上で、石嶋は引き金を引くだろうか。
「侵生者もコントローラーも、世界に生じた異物、ウイルスみたいなもんだ。なら、それを駆逐する免疫機能がなきゃ、世界が滅茶苦茶になっちまうと思わないか」
その免疫細胞は、癌に変貌して世界に徒成す可能性はないのだろうかと原宮は思う。
「石嶋さんのお子さんって幾つでしたっけ」
「ん、ああ、今年で五歳だ。今幼稚園の年中さんだよ」
石嶋は写真立てを一瞥しながら微笑んで言う。
「じゃあ、そのお子さんがコントローラーになってしまったら、石嶋さんは引き金を引けますか」
ふむ、と眉を顰めて、口元に手を当てて考え込むと、石嶋は「引けないだろうな」と答えて椅子の背もたれに寄り掛かる。椅子がぎいと軋む。「おいおい」と倉内が原宮の正面のデスクで呆れたように首を振っていた。
「その代わり、どこまででも逃げる。自分たち家族の力でな。永劫の樹なんぞには頼らん」
原宮はパソコンを立ち上げて、報告書のフォーマットを呼び出す。
「今日の被疑者も、そうだったと思います」
原宮が苛立たしそうに荒っぽくキーボードを叩くので、倉内と石嶋は顔を見合わせる。
「なら、見逃せばよかったのか」
倉内は紙コップに注いだコーヒーを飲んで、息を吐き出すように言う。大体の署員がマイマグカップかタンブラーを用意しているのに、倉内だけは頑なに紙コップで飲んだ。そうしたお茶菓子やお茶の用意を揃えてくれている事務の上原さんは、「倉内さん、どうにかしてくれないかしら」といつも呆れ顔でぼやきながら、紙コップを補充していってくれる。
「いいえ。でも、殺すべきではなかった。原則通り逮捕すべきです」
石嶋は手を頭の後ろで組んで、「原宮の言うことも分かるけどさ」と断りを入れた上で倉内を一瞥し、倉内が小さく頷くのを見て、視線を合わさずモニターに向かい合ったままの原宮に苦笑する。
「もし今日の相手がもっと能力に長けたコントローラーで、侵生者に殺されそうになっても、同じセリフが吐けるか」
石嶋の試すような視線を一瞥し、一瞬だけ受け止めながら、「ええ」とはっきりと頷いて見せる。
「おれたちは警察官ですから。殺し屋じゃない」
石嶋は小さくため息を吐くと、「原宮、これまでに死にそうになった経験ってあるか」と訊く。
いいえ、と原宮は首を振る。捜査一課時代、薬の売人と格闘戦になったりしたことはあった。相手はナイフを持っていたが、命の危険は感じなかった。明らかに動きが素人だったからだ。それ以外に、と携わってきた事件を思い返しても、命の危機と言えるほどの状況に陥ったことはなかった。
「俺はね、原宮。理想を貫こうとする原宮は偉いと思うよ。でもな、その理想の真価が問われるのは、自分の命が危機に晒されたときだ。そのときにも、変わらず理想を貫けたのなら、お前の想いは本物だと思う」
だが、と石嶋は腕を解いて真剣な表情になり、「その理想のせいでお前が死ぬ、あるいは仲間が死ぬということを忘れるな」と低く太い声で言う。
「コントローラーは、お前が思うよりも危険な存在だ。特に永劫の樹に所属しているような奴らは」
倉内はそう言ってコーヒーを飲み干し、カップをゴミ箱に放る。
「でも、子どもでした」
原宮はエンターキーを甲高い音を響かせて叩いた。
「子どもの方がかえって危険なこともある。俺が携わった市長暗殺事件、あるだろ?」
「ええ」
「あの事件の主犯格の一人が、十五歳のコントローラーだった。頭も切れるし、規範意識なんかが薄くって、手強く危険な相手だった。子どもだから、と手心を加えていれば、俺たちが死んでいただろう」
原宮は唇を噛み締める。「あの子は、逃げようとしていただけだった」
「じゃあその逃げたコントローラーが誰かを殺すようなことがあったとき、お前は死者やその遺族に対して責任をとれるのか」
倉内は静かに、だが、感情の火を心の底で燻らせながらそう言った。
それは、と原宮は言葉に詰まり、俯いてしまう。言い返せない、ということがどうしようもなく悔しかった。
「倉内さん、その辺にしときましょう。原宮も、おいおい分かっていきますよ」
ふん、と倉内は鼻を鳴らして、「その前に死ななきゃいいがな」と言うと立ち上がった。
どこへ、と石嶋が訊ねると、倉内は手で煙草を吸う真似をして、「これだこれ」と言ってフロアを出て行く。
「まあ、あんまり考え込みすぎるなよ。倉内さんも俺も、お前を心配してるんだ」
石嶋はそう言って原宮の肩を叩くと、椅子を滑らせて自分のデスクに戻り、マウスを操作してスクリーンセーバーを消す。そして表示された画面には子どもの満面の笑顔が、いっぱいに表示されていた。
〈続く〉