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イステリトアの空(第9話)

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■本編

二章:「剣杖緋恋(けんじょうひれん)」

 廊下をするすると歩く衣擦れの音がする。
 正宗(まさむね)は読みかけの春秋の写本を閉じると、庭に目を運び、麗らかな日差しが池の水に煌めく礫として反射しているのを眺めた。
「兄上、よろしいですか」
 今年十四になった妹の紫都(しづ)の幼さの残る甘えた声の中に、驕慢な女らしい響きの片鱗を感じて、正宗は苦笑いせずにはおれなかった。
 兄さま、兄さま、とちょこちょこついて来た頃が懐かしいな。正宗が幼い頃の可憐な妹の姿を脳裏に思い出していると、そこに成長した現実の紫都が現れ、姿が重なって見える。
「どうしたのだ、紫都。私はもう御役目に出なければならん。用件は手短に頼むぞ」
 紫都は白にうっすらと黄色みがかかった生地に、大ぶりの牡丹を鮮やかに散らした小袖を着ていた。正宗は誂えるとき、あんまり派手で傾奇者のようだし、江戸で流行の柄はもっと小柄なものを散りばめたものだからやめろと忠告したのだが、紫都は頑として聞かなかった。頑固さは、父に似たと笑う。
「その御役目のことです。一月ほど留守にするというのは誠のことですか」
 美しくなったな、と正宗は微笑んで眺める。目鼻立ちのはっきりした顔で、長いまつ毛に大きな目、ぽってりとした唇、と華のある顔をしていた。この器量なら嫁の貰い手には困るまい、と安心する一方で、まだまだ独り立ちしない甘えたところがあるのが弱ったところだが、と顔を顰めたくもなる。
「誠だ。家老の国宗様からの命だ。謹んで受けねばならん」
「なぜそんな偉い方からの命が兄上のような、下っ端貧乏同心の元に降りてくるのです?」
「紫都、言葉が過ぎるぞ。日頃から母上に窘められておるだろう」
 ふん、と紫都は鼻を鳴らして部屋の中に踏み入ると、庭を背にして膝を折って座った。
「兄上はこの家で唯一の男手なのです。そうふらふらされては困ります」
「これこれ、人を放蕩者のように言うな。私は御役目を果たしているだけだ。仕方なかろう」
 紫都はきっと大きな目を吊り上げて兄を睨む。
「同じ同心の篠田様はそんなにお忙しくはなさそうですけれど? どうして兄上のところにばかり仕事がくるのかしら」
 篠田は隣の地区の同心で、酒を酌み交わすこともある仲だった。家にも連れてきたことがあり、紫都とも顔見知りである。どうやら紫都に気があるらしく、正宗が不在のときに足繫く通っては冗談のようなことを言って帰るらしい。
「篠田殿に失礼だぞ。地区によって忙しさは違うのだ。それに国宗様は私の剣の師だ。その伝手で私に仕事を差配してくださっているのだ。悪く取ってはいかん」
 十の年までは町中の剣術道場に通っていた。篠田は三つ年上だが、道場にいた気がする。その後道場に訪れた家老、当時は町奉行を務めていた国宗心徹の目に留まり、剣の達人でもあった彼の弟子の一人となり、以降十九まで国宗心徹の元で剣を学んだ。国宗心徹からは剣以外にも武士としての教養の大事さなど、得難いものを学ぶことができた。元服の翌年に急死した父の跡を継いで同心になったときも、そこで学んだものが生きた。それから五年余り、忙しくはあるが、功も幾許か立て、藩内でも名が知られつつある。藩主の御前で行われた剣術試合では、本来参加できる家格ではないが、師の特別な推挙によって出場した。師の国宗心徹にこそ敵わなかったものの、それ以外は負け知らずで、藩主の前で鮮やかな剣技を披露したとあって覚えもめでたいのであった。
「御家老様も仕事ばかりでなく、よいお嫁さんでもご紹介してくださればよいのです。そうすれば、兄上も仕事にばかりかまけていられなくなりましょう」
 嫁でももらえば、やきもちを焼くだろうに、と正宗はくすりと笑いを零した。目ざとい紫都はそれを見つけて「何がおかしいのです」ととげとげしく突っかかる。
「嫁の話は母上からだけでたくさんだ。私とてこの家の行く末を案じぬわけではない。だが、もうしばらくは私の好きにさせてほしいのだ」
「そう、それ。それが紫都には分かりませぬ。どうしてお嫁さんをもらうことが兄上の不自由となるのです。早く夫婦となって、跡継ぎさえ据えてしまえば、そのとき兄上は自由となるのではありませぬか」
 子は勝手に育つわけではないのだぞ、と正宗は妹の浅慮に頭が痛くなる。
 正宗は腕を袖に入れて組むと、困ったような悲しいような顔になって、「紫都よ、私にはそれが正しいものとは思えんのだ」と嘆息混じりに言った。
「と、言いますと?」、紫都は眉をきりりと引き締め、言い逃れを許さない厳しい口調で言った。
「いや、お前や母上の言う生き方が正しくないと言うのではない。だが、それを唯一の金科玉条のように掲げて生き方を狭めてしまうのは、私は違うと思う。跡継ぎにしてもそうだ。お上を見てみるがいい。先に薨去された将軍綱吉公の跡を継いだのだって、甥にあたる家宣公ではないか。私や私の子がこの家を継ぐ必要は必ずしもないのではないか」
「ですが、兄上。綱吉公にも跡継ぎとなるお子がおりましたら、その子が継いでいたのではありませんか。血を繋ぐ義務を果たそうとして果たせず養子をとった方と、その義務を果たそうとせず捨てようとしている方を同列に扱うのは、義務に忠実な方への冒涜です」
 むう、と正宗は唸ってしまうが、自然と笑みがこぼれる。子どもだとばかり思っていたが、妹なりに家のことを案じ、兄を言い負かすくらいの機知と度胸がある。それが正宗には嬉しくて仕方ない。
「しかしだな。紫都が婿をとって血を繋ぐということもできる。それが嫌なら養子をとればよい。たとえ血が繋がっていなかったとしても、これと見込んだ者が継いでくれるのであれば、それに勝るものはないと思うが」
 紫都は呆れ果てたように額に手を当てて首を振り、大仰に嘆息する。「兄上は何も分かっていらっしゃらない」
 そうあしざまに言われては流石の正宗もいい気はしない。ややむっと気色ばみながら、「何が分かっておらぬと言うのか」と腕を組んで訊ねた。
「連綿と紡がれてきた血を絶やすことが親孝行だと、兄上はお思いになりますか。わたしたちがまず考えるべきなのは育てていただいた親に、血をここまで繋いでくれた先祖に恩を返すこと。『孝』の重要性は『論語』の中でも孔子先生がおっしゃっているでしょう」
「お前、いつの間に『論語』など読んでいたのだ」
 そういえばいつの頃からか、正宗の部屋の前をそそくさと立ち去る紫都の姿を見ることがあった気がしたが、それはこういうことであったかと正宗は合点する。
「そんなことは今どうでもよいでしょう。紫都には兄上の言葉はお家を継ぐのを嫌がっていらっしゃるようにしか聞こえません。そんな独りよがり、一家の家長が抱くものではありませぬ」
 これは参った、と正宗は降参して、「分かったからそう興奮するな」と宥める。暴れ馬を宥める方が楽かもしれんな、と正宗は宥めながらぼんやりと思った。暴れ馬は喋らない分、自分を悩ませることはない。
「お分かりになったのなら、裏庭側の雨戸を直していってくださいな。建付けが悪くなったのか、引っかかって閉まらないんです。男手は兄上しかいらっしゃらないのだから、出立前に直していただかないと」
「なに。雨戸。それくらいなら行きがけに頼蔵(らいぞう)に頼んでいくから、奴に任せてやれ」
 頼蔵は正宗が一番よく使っている目明しだった。遠州の生まれ、ということしか分からず、遠州のとある一帯を根城にしていた山賊の一味が襲った行商人の一行の中にいた赤子の頼蔵をどういうわけか攫って、山賊の頭領が自分の子として育てた。頭領の妾が子どもを欲しがっていたかららしく、頼蔵はその妾に十二まで育てられた。
 一度藩が討伐を試みたことがあったが、討伐隊の出立前に、隊員の妻や子、家族が血祭りにあげられてしまい、討伐どころではなくなってしまった。その後、藩は軽々に手を出そうとはせず、ある程度の不法行為も黙認せざるを得ない状況に追い込まれた。
 一味の中に頭の切れる男がいた。元大身の旗本と嘯くが、どこまで本当かは分からない男だった。剣の腕はからっきしだが、その分策を練るのに長けていて、頭領も重宝していた。討伐隊を頓挫させたのもこの男が考え出したものだった。
 男は陽炎居士と名乗っていたが、みな陽炎と呼んでいた。束髪に、女物の銀のかんざしを差していた。長い顎髭が特徴的で、考え込むときこの髭を手で梳くように撫でるのが癖だった。年は三十を過ぎていたはずだが、声は老人のようにしわがれていた。
 陽炎居士は一味の中で一目置かれると同時に畏怖されてもいた。腕っぷしはからっきしとはいえ、幾つも妖しげな術を使うことができた。何もないところから物を取り出して見せたり、火種もないところから急に火を起こしてみせたり、実害はないが面妖な術を使うことができるので、みな一線を引いて付き合っていた。
 頼蔵はこの陽炎居士に懐き、妖しげな術を見せるようしきりにせがんでは居士を困らせて、周囲の面々は「あの肝っ玉、さすがは頭領に見込まれただけのことはあるわい」と感心して見ていた。
 陽炎居士はこっそり頼蔵に、自分の術は手妻というもので、術の仕組みさえ学べば誰でもできるのだと教えてくれた。また、居士の先祖は北条家の乱波だったらしく、居士が知る以上の術を知っていたという。
 養母は頼蔵が十三になる年、頭領の不興を買って斬られてしまった。後から頼蔵が聞いたところでは、養母が頼蔵を頭領の跡継ぎ候補に据えるよう執拗に懇願し、その訴えを容れない頭領を罵倒してしまったためということだった。
 養母が斬られて、頼蔵はひどく落ち込んだ。塞ぎこんで自分の居室に閉じこもり、母が愛用していた椿の模様をあしらった帯を握りしめ、むせび泣いた。
 見かねた居士は頼蔵の元へやってきて訊いた。「仇を討ちたいですか」
 頼蔵は驚いた。陽炎居士が提案しているのは明確な反逆行為だからだ。それを口にするだけで首が飛びかねない恐ろしいこと。それを自分のために口にしている。なら、信用できる。幼い頼蔵は相手の善意を信じて頷いた。
「分かりました。なら、それがしの方で策を練ってみましょう。勝負は今しかありません。長子の地五郎殿が遠征に出ている今しか」
 覚悟はよろしいですか、と居士は念を押すように膝をにじり寄らせて頼蔵の目を覗き込んで再度訊ねた。
 頼蔵は頬を汗が滑り落ちるのを感じながら力強く頷いた。
 地五郎は怪力無双の男だ。刃の部分だけで五尺はありそうな大刀を軽々と振う。性格も父親の頭領以上に残忍で、殺した相手の脳みそを肴に酒を飲むと言われていて、味方内でも恐れられていた。
 次の日の夜、居士は頼蔵の元にやってきて、白い薬包を三つ差し出した。
「これを酒甕の中に三包とも入れなさい。そうすれば酒を飲んだ者は眠りこけるでしょう。そうしたら」
 居士は一本の脇差を頼蔵の前に置く。黒塗りの鞘は行燈の光を受けて鈍く照っている。頼蔵はごくりと息を飲んだ。眠らせて、脇差。それが意味することは一つしかなかった。
「それがしが武士の時分に持っていたものです。一度も使ったことはありませんが、手入れは欠かしておりませんでしたので、切れ味は申し分ないでしょう」
「居士はやってくれないのか」
 頼蔵の声は震えていた。目の前の脇差をじっと見つめて膝の上で拳を握りしめていた。
「それがしは駄目です。そんな意気地はありません」
 髭を擦りながら居士は疲れたように笑った。
 分かった、と頼蔵は頷くと、薬包と脇差を受け取り、すっくと立ち上がる。
「手を下すときには、首をお斬りなさい。胸を突いては急所を外す恐れがある」
 無言で頷き、頼蔵は部屋を飛び出す。薄暗闇に包まれた廊下を駆け抜ける。
 前方がぼんやりと明るく光がもれており、男たちの下卑た笑い声や女の嬌声が聞こえてくる。がちゃがちゃと食器が音をたてる。いつもの宴が行われていた。武家屋敷を襲って随分な収穫があったようだ。帰還したとき、頭領は上機嫌で屋敷から強奪した朱塗りの兜を被って笑っていた。
 頼蔵は影が映らぬよう、庭に降りて姿勢を低くして駆け抜ける。酒甕は台所裏の倉庫にある。そこへは正面の玄関の前を通り抜けねばならない。間違いなく見張りが立っている。だが、居士が頭領にこう手を回してくれている。「門番の二人にも、少し祝杯をあげさせてやりましょう」と。それで頭領が門番を呼び寄せてくれれば好都合。門番の元に振舞い酒を持っていくことになれば、その役割を居士が引き受けることになっていた。
 玄関前の植木の影に潜む。門番はまだ玄関の前に立っていた。遅い、と頼蔵は焦れる。四半刻は経っただろうか、いよいよ頼蔵が門番を言いくるめて突破しようかと考えたところへ、山賊の一人が奥から現れた。盆を持っている。何事か声をかけると、二人にとっくりとおちょこを渡して去って行く。居士ではない。
 どうするか、頼蔵は迷ったが、成り行きを見守ることにした。
 二人は交互に酒を飲みだすと、二杯か三杯重ねたところで、頭がぐらぐらし始めた。やがて杯を取り落とし、踏み石に当たって杯は割れた。二人は崩れ落ちるように倒れた。近づいてみると、鼾をかいている。居士は約束を守ってくれたと安堵し、頼蔵は台所の後ろへと回り込む。
 倉庫は鍵が開いており、好都合なことに甕の蓋も外れていた。頼蔵は懐から薬包を取り出し、すべて中に流し込むと、ほっと一息を吐いた。
「何をしてやがるんだ、てめえ」
 頼蔵は首を掴まれて軽々と持ち上げられてしまう。なんとか首を巡らせて声の主を見ると、そこには遠征に出掛けていたはずの地五郎が悪鬼羅刹のような恐ろしい形相で立っていた。
「今何を入れやがった。毒でも盛って俺たちを殺そうってのか、ええ、おい」
 地五郎は片手で頼蔵の体重を支えて持ち上げていた。それもさして力を込めたような様子はない。
 頼蔵は足をばたつかせて逃れようとするが、効果はほとんどなかった。
「陽炎の奴を始末しようと虚偽の遠征をでっちあげて隠れていりゃ、とんだ鼠が釣れたもんだ。言え、誰の考えでこんなことをした。正直に言えばてめえの命は見逃してやらんこともないぜ」
 陽炎か、と地五郎は獣が獲物の前で吼えるように叫んだ。
 頼蔵は息も絶え絶えになりながら、「違う」と呟いた。
「なら、誰の考えだ、言ってみろ」
「ぼ、ぼくだ。ぼくが一人で考えて、実行した」
 へっ、と地五郎は鼻で笑って蔑んだ目で頼蔵を見る。
「てめえが一人で考えただと。なら、そこに入れた毒はどんな毒だ。どこで手に入れたもんだ。言ってみろ、馬鹿野郎が」
 地五郎は頼蔵を床に叩きつけ、腰の刀を抜く。いつもの大刀ではなく、普通の打刀だ。だが地五郎が構えていると小さく見える。
「てめえが首謀者だって言い張るなら仕方ねえ。ここで斬るしかねえが、恨むんじゃねえぞ」
 地五郎は刀を振り上げる。地五郎の刀の向こうに月が見えた。青白く、刀の刃のような光を放つ月だった。最後に見るものが月というのも、風流かもしれない。
 刀を構えた地五郎の口から突然苦悶の叫びがもれて、顔がくしゃくしゃに歪んだ。膝を突いた地五郎の向こうに刀を振り下ろした体勢の陽炎居士が立っていた。肩で激しく息をしていた。
「虫どもが、寄ってたかって鬱陶しい真似をしやがって」
 地五郎は呻きながら立ち上がる。居士の背中の一太刀は浅かったらしい。致命傷にはほど遠いようだった。
「ちょうどいい。手間が省けたぜ。ここでてめえを始末する、陽炎」
 地五郎の赤く血走った目に射すくめられて居士は体を硬直させた。刀をなんとか上げて構えるが、剣先がぶるぶると震えている。目はすっかり怯え切っている。
 居士が危ない。そう考えたら、頼蔵の体は自然と動いていた。腰から脇差を抜き放ち、地五郎の首筋目がけて跳躍し、刃を真一文字に振った。
 何か手に微かに引っかかる感覚はあったが、それ以外は空を斬っているようなものだった。着地した頼蔵は後ろに飛びのいて尻もちをついた。
 地五郎はゆっくりと振り向き、首筋から血が噴き出して慌てて両手で首を押さえた。だが手の間から真っ赤な鮮血が次々と流れ落ちて地五郎の体を染めていく。
「迂闊だったわ。まさかてめえがこんな」
 地五郎はどこか嬉しそうに笑ってそこまで言うと、ぐるんと白目を剥いて崩れ落ちた。
 頼蔵と居士はしばらく固まったまま小刻みに震えていたが、人の話し声を聞いて我に返って地五郎の死体を倉の奥に隠し、行李などを積み重ねて死体を覆った。
 二人は示し合わせたように二手に別れると、居士は屋敷の廊下の奥の闇に消え、頼蔵は自室まで逃げ込むと、畳の上に膝を突いて両手を開いてじっと見つめ、わなわなと震えていた。夢かと思った。だが、目の前には地五郎を斬った脇差があった。夢だと逃げられない。地五郎を殺した以上、頭領も殺さなければ。
 頼蔵はただじっと時が過ぎるのを待った。それは地五郎を斬ったことよりも辛いことだった。早く過ぎてくれと急く気持ちと、止まってくれればいいのに、と願う気持ちが拮抗して頼蔵の頭の中でせめぎ合っていた。
 廊下に出ると、明かりはそのままながらしんと静まり返っていた。
 障子を開けると、部屋の中で騒いでいた者たちはみな静かになっていた。だが、眠っているわけではなかった。男も女も、喉を一突きされて死んでおり、そこは血の海地獄と化していた。
 頼蔵はあまりに濃密な血の臭いにうっと咽び、慌てて目を逸らしたが、ゆっくりと視線を戻して中を見回す。その中に頭領の姿はなかった。恐らく宴もほどほどに、気に入った女を連れて居室に戻ったのだろう。
 門番の二人も、台所の飯炊き女たちも、みんな喉を突かれて死んでいた。居士がやったに違いない。
 階段を上がり、頭領の部屋の襖を開けると、頭領は生きていた。とは言っても、深く眠り込んでいて、一目には死んでいるかと見紛う程だ。
 頭領は裸で大の字になって眠っていた。傍らには女が寝そべっていたが、その女は喉を突かれて絶命していた。死の間際に眠りが覚めたのか、表情は恐怖に満ちていた。
 頼蔵は無言で脇差を抜き放つと頭領の上に跨り、逆手に持ち替えて両手で握りしめた。汗が一粒、二粒と落ちて頭領の顔にかかる。頭領は身動きもせず眠り呆けている。
(一人殺すも、二人殺すも)
 頼蔵はそう自分に無理矢理言い聞かせて心を決め、握った刃を渾身の力を込めて下ろした。柔らかい感触の後にやや固い抵抗感を覚えるものの、刃は留まることなく頭領の喉を刺し貫いた。血が傷から噴き出し、頼蔵の顔に飛沫がかかる。温い。そう思って血を浴びていると、居士に引き剥がされて、頭領が愛用していた幾何学模様の藍の羽織でごしごしと顔を拭われた。
「やりましたな。これでこの山賊どもは壊滅だ。隣の間に着替えを用意してあります。着替えたらここを出ましょう」
 どこへ、と思ったが頼蔵はそのまま頷いた。子どもの自分がどこへ行くか知ったところで、どうする知識も金も行動力もない。なら、川面を流される笹舟のように流れる方がいい。
 着替えて山賊の根城を後にした頼蔵は、居士に連れられるまま方々を旅した。居士は各地に知人がいて、その知人に金を借りたり、品物を借りたりしてそれを元手に商売をして金を増やし、ある程度稼ぐと別の土地に移った。何でも殺した山賊どもは藩の重臣とも繋がっており、十中八九自分たちに追手がかかっているだろうと居士は語っていた。
 頼蔵は不思議でならなかった。皆殺しにしたのに、どうしてそんなに恐れるのか。藩の重臣とて、山賊たちが壊滅したからといって、わざわざそれを為した人間を探して殺そうとするだろうか。しかも自分たちの管轄外の藩外まで。
 江戸で暮らしたこともあった。それまでは居士の仕事の手伝いばかりだったが、江戸では一人で働くよう言われ、居士に用意されたのが水売りの仕事だった。天秤棒に水がなみなみと入った桶を担いで歩くので、炎天下の夏などはひどく疲れる仕事で、水自体最初は二文で売っていたが、他の水売りから「そんな安い金で売るんじゃねえやい」と殴られたので、四文に上げて売った。競争も激しく、一日に二、三十文がいいところだったが、これまでと違いそれがすべて頼蔵の小遣いとなったため、金を手に入れられるのは単純に嬉しかった。
 一番の楽しみは、たまにする贅沢で、屋台でそばを啜ることだった。当時は二八そばが主流で、せいろがほとんどだったが、かけそばもあった。このかけそばが頼蔵の大好物だった。
 夜の屋台で大人たちに混じって座り、鍋から立ち昇る湯気を眺めながら汁の香ばしい匂いを嗅ぎながら茹で上がるのを待つ。その時間が好きだった。大人たちは美味い物を食べているとき、気が緩むのか無防備になる。普段は喋らないことまで饒舌に喋る。そのことを子どもの頃に学んだ頼蔵は、目明しになってからも情報収集に役立てた。
 その江戸も、季節が一回りすると去った。元号は元禄に改められていた。全国で生類憐みの令が出され、犬や鳥を殺したり獲ったりしたものが死罪になったり遠島になったりしていて、そんな馬鹿なことがあっていいのか、と頼蔵は野で野良犬とすれ違うと思った。もしここで野良犬に噛まれて、自衛のために犬を殺せば、自分が死罪になるのだ。そんな馬鹿げた法がまかり通るのが世の中というものであり、その世の中を作り出しているのは一握りの馬鹿者だ。
 頭領のように、斬ってしまえば。
 頼蔵は地五郎や頭領を殺したことで気が大きくなっていた。何でもできる全能感のようなものがむくむくと鎌首をもたげてくるのを押さえられなくなってきていた。
 江戸の次は下野の国へと移った。更に北上し、日光の寺社領に入った。金は随分貯まっていたので、居士はすぐに商売に取りかかることはなく、頼蔵を連れて物見遊山に洒落こむ日々を送っていた。頼蔵も柄にもなく日光東照宮の壮麗な陽明門を見て、感嘆のため息を禁じえず、見上げて見入った。
 そうした日々を送っていて、川に釣りに行った日の帰りのことだった。釣果は芳しくなく、居士と冗談を言い合いながら笑って歩いていると、これが親子というものだろうか、とふと頼蔵は思った。頭領は武術の稽古はしても、このように頼蔵を遊びに連れ出すことはなかった。
 笑っていると、居士が突然立ち止まる。笑顔は消え、真っ青になっている。
 頼蔵が不思議に思いながら居士の見つめる先へ視線を運ぶと、そこには色とりどりの紫陽花の花を小柄に描いて散らした模様の粋な小袖を着た女が立っていた。暗紫色の羽織を羽織って、腰帯に剣を差している。打刀でも、脇差でもない。鍔に当たる部分には青や赤の丸く光る石がはめ込まれており、鞘も金で複雑な装飾がされている。一目見て異質なことが分かるものだった。
「空(くう)、様。なぜここに」
 空、と呼ばれた女は紅を塗った真っ赤な唇をゆっくりと吊り上げて、「決まっているじゃないか」と小馬鹿にしたように笑った。
「あんたたちがあたしの根城の一つを滅茶苦茶にしてくれたせいで、あたしゃ腹が立ってるのさ。あそこはいい別荘地だったってのに」
 空は見た目には十代くらいの娘のように見えた。目が垂れ気味で微笑んでいるように見える。鼻筋も通っていて、唇も小振りだが形がよく色気がある。言葉ははすっぱだが、声にはどことなく気品が漂っている。
 空からは濃密な甘い香りがした。クチナシの花に似た匂いのような、嗅いでいると頭がくらくらとしてぼんやりしてくる香りだ。
「それに政重。あんたはあたしの根城から、持ち出しちゃならんものを持ち出したねえ?」
 しゃなり、しゃなりと空は歩み寄ってくる。腰の剣の柄に手を掛け、すらりと抜く。頼蔵が初めて見る両刃の剣だった。刀身は銀というよりも白く、鋭かった。
 逃げろ、と居士が繰り返していることに気づいた頼蔵ははっとして動き出そうとする。だが、どういうわけか体が痺れたように動かなかった。首から上は動かせて感覚があるが、首から下は感覚が鈍い。指先、足先に至っては感覚がないに等しかった。
「無駄だよ。あたしの『不動の匂い袋』の匂いを嗅いだなら、もう一歩も動けはしない」
 空は両刃の剣で頼蔵の首筋を撫でた。頼蔵は死を覚悟した。だが空は頼蔵の怯え切った目を覗き込んで嘲笑すると、それっきり関心を失って居士に向き直った。
「あの宝珠はあんたなんかが持っていていい代物じゃない。さ、返しな」
「し、知らん。それがしは何も盗ってはおらん」
 空は表情一つ変えずに、居士の肩に剣を刺しこんだ。居士は悲鳴を上げるが、動くことができず、歯を食いしばって堪えている。
「嘘はいけないねえ。あたしには分かるんだ。あれは大した力はないが、あたしに反する力だからねえ」
「何をわけが分からんことを……」
 それ、もひとつ、と空は逆の肩を突き刺す。刺して剣を回転させるようにして傷口を抉る。
「ふふ。体は動かない。でも痛覚はある。素晴らしいだろう。あたしはこの『不動の匂い袋』の効果が好きでねえ。この遺物を作った奴はいいセンスだよ」
 右足を突き刺す。一度抜いてもう一度刺し、更に抜いて今度は力いっぱい刺し貫いて腿を貫通する。
 居士は絶叫をあげる。聞くに堪えない罵詈雑言を空に浴びせるが、空は愉しそうにころころと笑っている。
「もう一度訊くよ。あの宝珠はどこへやったんだい」
「ふ、答えるものか。永遠に探し回るがいい」
 困ったねえ、と空は手を頬に当てて小首を傾げた。「それじゃあ、これならどうかね」と頼蔵の首筋にぴたりと剣を当てた。
「ああ、柔らかそうな皮と肉だ。若い血はさぞ美しかろうねえ」
 待て、待ってくれ、と居士が叫ぶ。手足から血が流れ滴り、足元には血だまりが出来ている。
「その子だけは頼む」
「なら、宝珠の在処を言いな」
 居士は苦渋の顔をして、「東照宮、天海僧正の書きつけの掛かった壁がある。その後ろに隠した」と答えた。
「そうだよ、最初からそうしてりゃあいいんだよ」
 空は居士の正面に立つと、剣を胸に突き刺した。居士は苦悶の断末魔を短くもらし、全身の力が弛緩して空に倒れ掛かった。
「それじゃあ、あんたの生命をいただいていくよ」
 空が剣を引き抜いて身を引くと、居士は地面に倒れた。その死体を見て頼蔵は驚愕し、また戦慄した。死体の手足は臨終の間際の老人のようにやせ細って細く、土気色だったからだ。
 空は舌で唇をぺろりと舐めると満足そうに、「ああ、美味い」と恍惚として言って、頼蔵には見向きもせず、夜の闇の中に消えて行った。
 このときの頼蔵の経験が、彼に慎重さを教えた。世の中には自分の想像を絶する怪物がいるのだと。それからは殺しのような悪事には極力手を染めず、あちこちを流れ歩いたが、二十のときには今の町に落ち着いて、長屋住まいをして近隣の住民の困りごとを解決して歩くような生活を始めた。それから十年ほどそんな暮らしを続けて、細君も得たし、正宗という同心に見出されて目明しという役割を与えられてご公儀のために働ける、と頼蔵自身は自分の境遇に満足してもいた。
 頼蔵め、くしゃみでもしていようか、と正宗は苦笑した。
「さあほら、兄はもう行かねばならぬ。御役目を疎かにしては嫁どころではなかろう。仕事へ向かう兄を快く送り出してくれ」
 正宗は立ち上がりながら、大小を腰に差す。
「あ、兄上。話はまだ」
 帰ってきたら聞く、と答えて踵を返し、そそくさと家を出る。

〈続く〉


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