見出し画像

イステリトアの空(第7話)

■前回までの話はこちら

■本編

 まだ明かりの灯っている部屋はあったが、そっと窓から覗いてみると飲んだくれて机に突っ伏していたり、床に転がっていたりしていた。それでも慎重に人に見つからないよう物影を選びながら走った。
 小高い丘の上の一軒家を隊長は占領していた。儂は姿勢を低く保ち、息を殺しながら坂道を登った。玄関まで辿り着くと、まずは周囲をぐるりと回り、明かりや物音の有無を確かめた。どこからも明かりは漏れず、辺りは深閑としていた。
 玄関の扉にはあらかじめ細工をしてあった。鍵が掛からないようにデッドボルトを壊しておいたのだ。玄関だけでなく、家の中の鍵は同じように壊してあった。
 儂はゆっくり扉を開け、中に滑り込むと入口横の腰高の棚を僅かにずらして、隠しておいた燭台を取り出し、マッチを擦って火を点けた。その部屋には誰もいないようだった。右手に一部屋、左手にキッチンがあった。正面には階段と、その奥に浴室などがあったはずだ。
 隊長は二階に寝ていると聞いていた。階段を上って正面奥に大きな寝室があり、そこで殺さないでおいた女たちを囲って慰みものにしていて、誰も立ち入らせないのだと。
 踊り場には子どもが描いたと思われる、家族の絵があった。まだ幼い子どもなのだろう、絵に描かれた家族は皆顔が巨大で、同じような顔をしていた。太陽が描かれ、様々な動物が絵の中をところ狭しと描かれている。その子どもも、もう生きてはいまいと思うと胸が痛んだ。
 そうだ。儂が殺してきた敵の兵士たちにも当然家族はあったはずだ。それだけではない。家族を根こそぎ刈り取り、根絶やしにさえしてきたのだ。戦争など、どれだけ正当化しようが、血生臭い暴力に過ぎないのだ。人を獣に堕すこと、それが戦争だ。
 儂は正面奥の扉に張り付き、中の物音を窺った。女たちの声でも聞こえはしまいかと思ったが、衣擦れの音さえ聴こえなかった。扉を僅かに開き、中を窺う。寝台には膨らみが一つ。恐らく隊長だろう。その下の床には裸の女が横たわっていたが、首があらぬ方向を向いており、微塵も動かない。死んでいるな、と思って手を合わせて、小銃を床に置いてから中に入った。
 一歩一歩ゆっくりと、床板を踏み鳴らさないように進みながら、右手で腰のホルダーからナイフを抜いた。女の死体を跨ぎ、寝台を覗き込んだ。燭台で顔を照らして見れば、間違いない、隊長だった。
 隊長は眩しかったのか、ううん、と呻くと寝返りを打った。
 儂が明かりを下げると、「無能が。死ぬだけしか能がないクズめ」と寝言を言った。
 そっと床に燭台を置き、両手で逆手にナイフを構え、隊長の首の上でぴたりとその刃の先端を静止させた。
 この男を殺したところで、儂があの母子を殺した事実は消えないし、それ以上に多くの異国の人々を撃ち殺してきた罪を贖う、いや、減じることさえできないということは分かっておった。だが、この男だけは、儂の手で殺しておかなければ気が済まなかった。
 腕を一思いに振り下ろした。水のいっぱいに溜まった革袋が破けるような音がした。手応えがあった。すぐに枕で顔を押さえたが、鮮血は袖まで濡らし、飛沫が肘の辺りまで届いていた。
 隊長はくぐもった声を上げて、後は溺れた人間のように喘いで湿った声を二度三度上げたがすぐに静かになった。体が緊張して、やがて弛緩してそれっきりだった。
 儂はナイフを抜き、額の汗を腕で拭った。後は隊長の死の事実が明らかになる前に、出来る限りこの村を離れる必要がある。ナイフの血をシーツで拭い、ホルダーに収める。
「残念ね。わたしが殺そうと思っていたのに」
 儂はどうかしていたのだろうな。そう声をかけられるまで、部屋の中にもう一人いたことに気づかなかった。
 慌てて燭台を拾い、ナイフに手をかけつつ燭台を声の方に突きつけた。明かりが部屋の隅をぼんやり照らし出すと、そこには若い女が腕と足を縛られ、膝を抱えて座っていた。
 女は娘といっていいほど若く、胸の辺りまで垂れた豊かな金色の髪と緑柱石のように光る目が印象的だった。
「村の者か」
 儂は警戒しながら問うた。すると娘はそんな儂の臆病さを嘲ったのか、失笑して答えた。
「いいえ。この村には旅の途中で立ち寄っただけ。この国の人間でさえないわ。でも、ここでは随分よくしてもらった。だからあなたたちの獣以下の蛮行をわたしは許さない」
 さもあらん、と儂はすとんと気持ちが落ち着いた。恨んでほしかったのだ。それもおかしな話だが、儂らは間違っていると、誰かに突きつけてほしかったのだな。
「なら、おれを殺すか。お前にはその権利があろう」
 女は縛られてこそいたが、着衣には乱れはなかった。だからといって無事とは限らない。儂が恨みを晴らす相手を先んじて殺してしまった以上、娘の憎しみは受け止めてやらねばなるまいと思った。
「あなた一人を殺して何になるの。村が蹂躙されていくのを止められるわけじゃないでしょう。わたしは旅を続けるわ。そして旅の先々であなたたちの野蛮な殺戮を語り継ぐ。世界があなたたちを憎む。そのための石を投じること、それがわたしの復讐よ」
 ふむ、と儂はナイフで娘の戒めを切ってやり、考え込むと、壁に掛かっていた隊長の軍服を取って娘に向かって放った。娘は見たところ手足が長く長身で、隊長も大柄な方ではなかったから、着丈は合うだろうと思った。
「これは何?」
「復讐を果たすには、まずはここから無事に逃げることが先決ではないか。そのままの格好でうろついていれば、あっという間に殺されるかここに逆戻りだ」
 娘は汚らわしいものを見るかのように軍服を見つめて顔を顰めていたが、「それしかないようね」と渋々頷いた。
「でも、こんなものを着ていてパルチザンに見つかったら殺されるわ」
「それはおれも同じだ。精々見つからないように逃げるしかない」
「あなたも行くつもり?」
 儂は笑って頬を掻いた。
「上官を殺した以上、ここに留まれば処刑される。君が無事に落ち着けるところまでは送って行こう。これも何かの縁だ。憎む相手に守られるのは不本意かもしれないが、安全圏までは辛抱してくれ」
 娘はまじまじと儂の顔を見つめると、「変わった人ね」と呟いて立ち上がる。
「出てってくれる? 着替えられないでしょ」
 ああ、と頷いて立ち去りかけて扉に手をかけ、儂は娘の名を訊いていないことを思い出し、振り向いて儂の名を名乗った。そして「君、名は」と問うた。
「ソフィヤ。それだけ名乗れば充分かしら」
「ああ、問題ない。ではソフィヤ、おれは一階で待っている。残っている物資をかき集めておいた方がいいだろう」
 儂は部屋を出て、階下へ降りた。一度外を覗いて、村の中に動きがないか探り、また戻った。キッチンの戸棚なんかにあった缶詰などの保存食をかき集め、椅子の上に無造作に放られていたナップザックに詰め込んだ。壁際にぶら下がっていたランタンに油が入っているのを確認して、それも持った。外に薪割り用の鉈が転がっていたのを思い出して、外に出て拾ってくると、とりあえず床の上に置いた。
 テーブルをひっくり返し、脚を力任せに引き抜く。鉈で脚を短く断ち割ると、箪笥の中に入っていた男物のシャツを破いて割った脚に巻きつけ、キッチンの油壺の中にそれを浸す。
「着替えたけど、これで本当に日本兵の目を欺けるの」
 着替えたソフィヤが階段を降りてくる。軍服の大きさはちょうどよかったようだ。華奢な体つきだから、少し大きめの服を纏うことで体の女性的な線をある程度隠せている。だが、帽子を被っても溢れる豊かな金髪が目を引いてしまう。
「髪を隠さないと目立つな。遠目にも変装だと気づかれる」
 ソフィヤはテーブルの上の鉈を一瞥すると、むんずとそれを掴んで髪を束ね、鉈の刃を添わせる。
「おい、何を……」
「こうすれば、解決するでしょう?」
 ソフィヤは髪を引き切る。はらはらと髪が舞って床に落ち、掴んでいた髪の束も手を放して落とす。
 胸元まで流れていた髪は首の上辺りまで短くなっていた。ソフィヤが首を振ると、かすかな月光に照らされて金色の髪がきらきらと瞬いた。
「いいのか」
 髪は女の命、という言葉は異国の女にも通じるのだろうか。
 ソフィヤは無表情に、「命と髪、天秤にかけるまでもないわ」と言って鉈を儂の胸に押し付けた。儂はそれを受け取るとテーブルクロスを切り裂いて刃を包み、ザックの中に押し込んだ。
 儂らは点在する家の壁を目隠しにしながら、村の中を駆け抜けた。途中北門の立哨の連中の交代と出くわしそうになったが、ちょうどいい高さの雪山があったので、そこに隠れて難をしのいだ。
 ソフィヤが雪山に手を突っ込みかき分けると、ぼろりと雪の塊が落ちてそこから人の顔が覗いた。儂らが殺した村人の死体の山が雪を被っておったのだ。それに身を救われたのは、何と言うか、趣味の悪い皮肉だった。
 南門から抜けるときに、テーブルの脚で作った棒を篝火の中に入れ、火を点けて松明にする。明かりは遠目にも目立つ。だが松明がなければ雪原と林しか見当たらない土地で、夜の闇の中を迷わず進むことは困難だ。それに南門の立哨は儂と春洋だった。交代までも時間があったはずだったから、しばらくは見つかる危険性は低い。その内にできるだけ距離を稼いでおく必要があった。
 雪原は儂の膝の辺りまで埋まるほど深かった。一歩進むだけで労力が要った。ソフィヤは儂のつけた跡を追えばいいとはいえ、華奢な女の身には負担が大きかっただろう。
 跡がつくということは、追跡される恐れも高いということだ。隊長が死んだことで指揮系統は混乱するだろうが、やがて立て直すだろう。戦場の上官殺しはそこまで珍しいものでもない。すぐに収拾をつけて逃走跡を発見し、小隊を組んで追うに違いないと思った。
 夜明け前まで、儂らは黙ってひたすら進んだ。闇の中に儂とソフィヤの息遣いと雪を踏みしめる音だけが交互に響いて、それ以外はしんと静まっておった。
 夜が明けるとき、儂らは林に辿り着き、木に寄りかかって空を見上げていた。黒く見えるような葉の針葉樹だった。雪原の果て、地上と空が溶け合う曲線から覗いた太陽は白く、また黄金色でもあった。光が地平を走り、雪原の上を炎が迸るように光が散った。
 儂は松明を雪に突っ込んで火を消した。ソフィヤは肩で息をしていたが、できれば奥に身を隠したかったから、肩を叩いて林の先を指さして歩き出した。彼女も頷いて、黙ってついてきた。
 林の中をしばらく歩くと、木々が途絶えた広場のようなところに出た。大きめの岩も幾つか転がっており、腰をおろして休むにはちょうどよかった。儂自身疲労が随分溜まっていたし、ソフィヤも流石に限界だろうと考えて、少し休息をとることを提案した。彼女は黙って頷き、近くにあった岩の雪を払ってそこに腰を下ろした。
 不思議とその空間にはさほど雪が積もっていなかった。まるでそこを避けて雪が降ったように。
 ザックから缶詰を出すと、ナイフで缶を開ける。豆と肉のスープだった。それを二つ開けるとそれぞれスプーンを差し、一つをソフィヤの元まで持って行って差し出した。彼女は短く礼を言って受け取り、スープを口にしてふうと安堵の息を吐いた。
 儂も引き返して自分の陣取った岩の上に腰かけ、スープを口に運んだ。日本人には少し塩っ辛いなと思ったが、空腹には効いた。あっという間に豆の一粒も残さず平らげると、缶を置いて濡れた口を拭った。
「君はどこから来たんだ。この国の人間じゃないと言ったが」
 ソフィヤは黙ってスプーンを口に運んでいた。儂の方は見もしなかった。
「いや、すまない。おれと言葉を交わすのも不愉快だろうな」
 儂は頭を下げて謝ると、空を見上げた。
「ここからずっと西から来た。生まれた場所はもっと遠く」
 いつの間にかソフィヤは儂を見ていた。
「西か。ドイツやイギリスか」
 ソフィヤは首を振った。「生まれた場所は遥か遠く。もう帰れない」と俯いて少し寂しそうに呟いたが、顔を上げるとそれを打ち消すように苦笑した。
――イステリトア。
 ソフィヤは囁くように口にした。儂に聞かせるためというよりは、言葉を口にすることで忘れないようにしているように思えたな。
「ああ、イギリスにドイツね。その辺りも旅したわね。ドイツにいたのは先の戦争のときだったかしら」
 儂は腕を組んで頭の中に世界地図を思い浮かべた。イギリスやドイツよりも遠くと言われて儂にはぴんとくる土地がなかった。ましてイステリトアなる国の名前は聞いたこともなかった。日本から見ればその二国は遥かに遠い国だった。シベリアの地でさえ、ずいぶん遠くまで来たと思ったものだ。
「この国の先、その次はどこへ行くつもりなんだ」
 ソフィヤは食べ終えたのか缶詰を岩の上に置いた。
「さあ、決めてないわね。わたしは旅行しているわけじゃないもの」
「どういうことだ」と儂は首を傾げた。
「人を探してるの。その人がいそうな場所なら、どこへでも行くわ」
 ソフィヤは手を合わせると、祈るように目を瞑り、「ごちそうさまでした」と呟いた。儂はそれに違和感を覚えたのだが、それが何かすぐには分からなかった。それほどソフィヤの仕草は自然なものだった。
「君は日本にも来たことがあるのか」
 ああ、と膝を抱えると、ソフィヤは膝の間に顔を埋め、「違うわ」と否定した。
「わたしの探している人から教わったの。そうか、彼女はあなたと同じ国の人なのね」
「知らなかったのか」
「ええ。彼女と一緒にいたときに彼女の国のことを聞いても、わたしにはさっぱり分からなかったでしょうから」
 彼女、女か、と儂は呟いた。それ以上訊くつもりはなかった。いくら日本が狭い島国とはいえ、ソフィヤの捜し人が儂の知る人物とは思えなかったのでな。それより儂はソフィヤのことが知りたかった。彼女は儂の知るどんな女とも違って見えた。孤高で力強く、それでいてあらゆる枷から解き放たれた自由な、目を離したらすぐにでも飛び去ってしまいそうな鷲のように思えた。
「一人で旅してきたのか?」
「いいえ。ずっと一緒に旅をしていたパートナーがいたのだけれど、数週間前にはぐれてしまって。探している内に行き倒れて、助けられたのがあの村だった。静養しているとあなたたち日本軍がやってきて、村の人たちを皆殺しにした。わたしには抗う術がなかったわけじゃないけど、村の人たちを人質にとられて、抵抗できなかった。でも結局あなたたちは人質を全員殺した。誰も何の罪もなかったのに。パルチザンと関りのある人なんていなかったのに」
 ソフィヤは憎悪に満ちた眼差しを儂に向けた。そういえば、と思い出す。隊員たちが噂していた。魔女が現れたと。剣でも銃でもない、不思議な力を使って殺された兵士が何人かいたと。その魔女が彼女か、と儂は正面から彼女の憎しみを受け止め、眼差しを返した。
「サーシャはわたしの目の前で嬲られ、凌辱されて、首を絞められ、折られて死んだ。あの男はそうする間ずっと笑っていた」
 ねえどうして、とソフィヤは声を張り上げた。
「どうして人の痛みを喜ぶことができるの。どうして苦しみ泣く人の前で笑えるの。サーシャは優しい娘だった。花を摘むことにさえ心を痛めるような娘だった。その彼女が死んで、なぜ卑しい獣のようなあなたたちがのうのうと生きているの」
 恐らく、寝台の下で首を折られて裸で死んでいた娘がサーシャなのだろう。儂には何の言い逃れもできなかった。儂自身、そう思っていたからだ。死ぬべきは彼らではなく、儂らなのではないかとな。だが、もし運命の天秤が違う方向に傾いていたなら、侵略者は彼らの方で、儂らの方が虐殺される無辜の民であったかもしれぬ。
 殺戮を行ったのは儂らの意思であって儂らの意思でなかったと言えるのではないか。銃は引き金を引かれれば弾丸を射出せずにはおれん。儂らも同じだ。日本という国の大きな意志が儂らを戦場に追い立て、銃の引き金を引かせて敵を殺させしめたのだ。だが、そんなことは彼女に向かって言えなかった。
 儂はただ悄然として彼女の言葉に打たれるほかなかった。
「世界が違っても、人間の醜さは変わらない。争いは常にあって、人は死ぬ。だからわたしは早く帰らなければならないの。きっと彼女なら、帰還する術を知っているはず」
 儂は彼女の言葉に何か引っかかるものを感じた。だがそれをうまく言葉にできなかった。もどかしく思いながらも声を上げようとした、その時だった。
 突然激しい風が吹いて、木々を揺らし、雪を巻き上げていった。粉雪はきらきらと星屑のように瞬いて空中を漂い、さらなる突風に攫われて上空に舞い上がっていった。
 目の前が真っ白になり、ソフィヤの姿を見失った。吹雪の中に突然緑色の目が不気味に輝き浮かび上がった。人間のものではなかった。鋭い瞳孔が引き絞られ、儂を捉えていた。
 やがて雪が収まって落ちて、視界がはっきりしてきたときに目の前にいたのは、巨大な獣だった。虎……、いや、それより一回りは大きかった。見たこともない獣だった。黄金色の体毛で、顔つきは猫に似ていたが、猫にしては耳が長かった。全身の毛は逆立っていて、雷鳴が轟くような音で喉を鳴らしていた。明らかに儂に対して敵意をもっていた。
 金色の獣はおもむろに口を開いて牙を剥いた。その顔が凄まじい形相で笑っているようにも見えた。
 儂は小銃を持っていた。だが、それを用いたところで危地を脱することができるとは思えなかった。むしろ状況を悪化させるだけに違いない。獣と儂の力関係は絶対的だった。蟻が象に挑むようなものだ。
 自身の死を覚悟した。思わぬところで思わぬ形で命を落とすものだと震える顔で、自然と笑みがもれた。
「だめ、キテン。その人は殺さなくていい。敵じゃないの」
 ソフィヤが声を上げると、金色の獣はぐるりと体を巡らせて彼女の方に向き直り、じっと顔を見つめると跳躍し、彼女の足元で寝そべった。目だけは儂をしっかりと捉えていた。不審な動きがあれば噛み殺す、そう言っているように思えた。
「きっと無事だと思ったわ。でもよくわたしを見つけられたわね」
 グァー、と金色の獣は鳴いた。ソフィヤはそれを聞いて頷き、「それは苦労をかけたわね」と獣の背中を慈しむように撫でた。
「言葉が分かるのか」儂は驚愕した。
 ソフィヤは頷く。
「ええ。この子はキテン。始まりのときから一緒に旅をしている、さっき話したパートナーよ」
 グゥルル、とキテンは喉を鳴らす。威嚇されているように思えるが、毛はもう逆立ってはいなかった。とりあえず儂に危険はないと認めてくれたようだった。
 儂は地面に横たわっていたザックを拾って肩に提げ、缶詰などの痕跡を雪の中に埋める。
「おれはもう行くが、君はどうする。パートナーが見つかったのなら、ここで別れることもできるだろうが」
 ソフィヤは俯いて少し考えた後で、「あなたと行くわ」と立ち上がった。
「そうか。なら早く出発しよう。追手がかかる前にウラジオストクに入りたい」
「それなら心配ないわ。キテン、お願い」
 ソフィヤがそう言うと、キテンは体を起こしてのそのそと雪の中を踏み進め、儂らが進んできた道の跡の前に立った。
 キテンが大きく息を吸い込むと、金色のこの獣はさらに一回り体が大きくなったように見えた。そして体の内に溜め込んだ空気を、キテンは凄まじい速度で口から吐き出す。空気の弾丸は轟音を伴いながら周囲を揺らし、地面を抉りながら、扇形に広がって木々を薙ぎ倒し、雪を吹き飛ばして巻き上げながら飛んだ。
 振動が止んだ後に広がっていたのは、林の木々は倒れてあべこべに絡み合い、最早原形を留めてはいなかった。雪原は雪が根こそぎ吹き飛ばされて抉れた地面が剥き出しになった荒野になっている。これならば確かに痕跡は分からないだろうが……。
「やりすぎではないのか」
「そうかしら。中途半端に小細工をするぐらいなら、これぐらいやっておいた方がいいわよ」
 かえって目立つと思うがな、と苦言を呈すると、ソフィヤはキテンの顔に頬を寄せて顎の下を撫でながら「細かいことを気にする男は嫌ね、キテン」と嫌味っぽく言う。キテンもそれに応じて喉を鳴らす。
「それに追手が来たとしても、わたしとキテンがいれば何の問題もないわよ。戦車の一台や二台が来ようともね」
 そんな馬鹿な、と儂は笑ったが、ソフィヤは笑っていなかった。ソフィヤは魔女かもしれず、キテンは尋常の獣ではないが、それでも近代兵器を相手に何ができると言うのか。
 だがそれをその場で論じても益はない。先を急ぐに越したことはないのだから。
「敵は日本軍の追手だけとは限らない。パルチザンだってどこに潜んでいるか分からないんだ。慎重に行こう。争いが起これば、人死には必ず伴う」
 分かったわよ、とソフィヤは苦り切った顔で言って先に立って歩き始める。その傍らをぴたりとついて離れずキテンが歩く。儂はその後ろについた。
 道のりは遠い。この先の道中にも冒険がなかったわけではないが、とりあえず儂とソフィヤとキテンの話はよかろう。

〈続く〉


■サイトマップは下リンクより


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?