イステリトアの空(第15話)
■これまでの話はこちら
■本編
正宗は激痛に耐えながら、踏み止まっていた。左肩から激しく出血し、左腕はほとんど真っ赤に染まっている。左肩は骨まで絶たれ、肉で辛うじて繋がっているに過ぎなかった。
それだけの代償を払っても、正宗にできたのは桜華の手の甲に一本の赤い血の線を刻むことだけだった。
「今の一撃は素晴らしかったですよ。わたし、自分の血を見たのは何百年ぶりでしょう」
桜華は自分の傷跡から盛り上がって零れる血を小さな赤い舌で舐める。
「数百年を生きているとでもいうつもりか。国宗心徹の娘、桜華は虚像に過ぎないというのか」
桜華は愉快気な笑みを浮かべる。「ええ、そうですよ」
「ならばお前は何者だ。お前が国宗家を、剣杖を影から動かす巫女なのか」
「それを知ってどうします? わたしを斬りますか。今のあなたの状態で何かができるとでも」
桜華の声はそれまでに聞いたことのないほど冷たく鋭く響いた。
「教えてあげたらいいじゃないの。あなたが、空(くう)と呼ばれる怪物であることを」
葵が肩を抑えながら立っていた。
「おや。心徹はどうしたのです」
「国宗心徹は倒した。後はあんただけよ、空」
空と呼ばれた桜華は眉を顰める。「遺物を満足にコントロールできないあなたに心徹が負けたと」、声音は不快そうだった。
「わたしだけじゃない。小松さんや頼蔵さんがいたから勝てたの」
二人は、と正宗が問うと、葵は悲しげに目を伏せて首を振った。
「それじゃあ、手負いの二人だけでわたしに勝てると、そう言うつもりですか」
空は瞬時に駆けると、葵を間合いの中に捉え、刀を振るう。葵は「時渡りの指輪」の力を使って止まった時間の中を移動し、空と距離をとる。
「逃げ足は一人前ですね。でも、遺物の力を連続して使うことはできないでしょう?」
空は刀を提げて葵に迫る。葵は背を見せず、横向きに走り視界に空の姿を捉えつつ走って逃げるが、空は速く、距離が徐々に詰まる。再び空の射程内に入ったところで葵が時を飛んで離れる。
「イタチごっこですね。これじゃあ決着がつきません」
ですので、と空は両手を広げる。「わたしも使わせてもらいます。遺物の力を」
葵は空の動きに警戒しつつ、思考を巡らせる。どうやったら勝てるか。遺物の力を制限された状態で勝つのは難しい。心徹のときには小松と頼蔵が身命を賭してくれたから勝てたのだ。その二人がいない状態で、心徹よりも遥かに手ごわい相手を倒さなければならない。だが、どうやって。
葵は親指の爪を噛みながら必死に考えた。考えていると、ふと甘い香りが鼻をついた。なにかの樹木の香り? クチナシの香りに似ているような。そこまで考えて、葵は相手の術中にはまってしまったことに気づいた。
体が痺れて動かなかった。恐らく空の遺物の力に違いない。空ほどの剣の使い手を相手に、体が動かないというのは死を意味する。
「どお? 素敵でしょう。わたしの『不動の匂い袋』。これでもうあなたは動けない。わたしの意のまま」
空はゆっくりと近寄ってくると、刀を振り上げ、振り下ろす。すぐには殺すつもりがないのか、急所を外した足を狙ってくる。
金属音が鳴って、空が舌打ちして飛びのく、白光の斬撃が空のいた場所を薙ぎ払う。正宗だった。片手で懸命に刀を操っていた。
「どうしてあなた、動けるのかしら。おかしいですね」
「頼蔵から聞いていた。空という化け物の女が、匂いで動きを封じる面妖な術を使うと。種さえ知れていれば、子供だましに過ぎん」
空はこめかみに青筋をたてて、口角をひくつかせながら笑顔を浮かべた。
「あなたのことを流石と褒めておきましょう。でも、手負いのあなた一人でどうするというのですか」
確かにな、と正宗は自嘲する。「だがお前の敗因は」と正宗は駆け出し、刀を構えて突っ込む。
「国宗心徹の死を確かめなかったことだ。いまだ、国宗様!」
正宗が空の背の向こう側へと叫ぶ。完全に虚を突かれた空は振り返り刀を薙ぐ。だが、そこに手ごたえはない。背後には誰もいなかった。謀られたと気づいた空は頬を紅潮させながら足で小円を描くようにさばいて回り、正宗に向かって突きを放つ。正宗も刀を振ったが、空の突きをかわしながらだったため、空の体には傷一つつかなかった。
だが、空の着物の帯に裂け目が走り、そこにあった匂い袋が裂けて粉が弾けるように散った。
葵は体の痺れがとれたことに気づき、両手を握ったり閉じたりして感覚が戻っていることを確かめる。
「なるほど。最初から遺物を破壊するのが目的でしたか。でも残念でしたね。遺物は物理的な力では破壊できないのです」
散らばった粉が吸い込まれるように裂けた袋の中に飲み込まれていき、袋の裂け目は元々そんなものがなかったように塞がって元通りとなった。
「同じことよ。タネの割れた手品が二度も通用すると思う?」
空の眉がぴくりと吊り上がる。
「いいでしょう。遺物の力などなくても、あなたたちを始末するくらい、わけありません」
空は左手に持った両刃の剣を腰の鞘に納める。葵はあの剣に見覚えがあった。あれは確か、「吸命の剣」。斬った相手の生命力を吸い取って自分の生命力に変える剣。十代の娘のような姿を維持しているのはあの剣で若返りを続けているからか、とおぞましい生への執着に震えた。そして、この怪物を絶対にこの場から逃がしてもいけない、と覚悟を新たにする。
空は刀を両手で持って上段に構える。白刃と白い着物が一本の白い柱のように見えた。光を浴びた彼女は自らが光を放っているかのように神々しく、美しくすらある光景だった。
「正宗さん。勝つにはこれしかない。ぶっつけ本番だけど、できる?」
葵は正宗に耳打ちして、何かをその手に握らせる。「コツとかはないのか」と正宗が問うと、葵は困ったように頬を掻く。
「いやあ、わたしって感覚派らしくて。いわゆる天才ってやつ? だから細かい理屈は分からないんだよねえ」
微笑んで、「でもね」と続ける。
「想いの強さが力になる。あなたはあなたの想いをぶつけてあげればそれでいい」
「そんなものなのか」
葵はにへへ、と笑って、「そういうものそういうもの」と大きく伸びをして、屈伸をする。
「正宗さん」と改まって葵は呼ぶ。
「きっとここで一度お別れになるから、言っておくね。あっちに行ったら、何も知らないわたしをよろしくね」
「それはどういう……」
行くよ、と叫んで葵は空の方へと走っていく。正宗も遅れて駆けだす。
攻撃の要は「消し去りの指輪」を持った葵で間違いない。葵の一撃は決まりさえすれば一撃必殺だ。最も勝率が高い。ならば正宗の役割は何か。壁だ。攻撃を受け止めて葵が攻撃する隙を作り出すための囮。それくらいしか価値はない。
空は戦況をそう読んで、葵の動きに注視した。葵さえ見逃さなければ万一はない。正宗はどうとでも始末できる。勝ちは動かない。空はほくそ笑んだ。
剣杖の指導者は倒され、正宗や長曾根のような優秀な手駒も失ってしまった。だが、人間はいくらでもいる。欠けたら代わりを補充すればいい。唯一無二の存在である自分と違って、愚かな人間など地表に虫けらのように溢れている。
正宗が刀を振りかぶって向かってくる。それを軽く捌き、地面に転がす。とどめを刺す一手は隙に繋がる。危険だ。空は正宗から視線を外して葵を見た。正宗が倒されるのが思いのほか早かったのか、葵は距離を詰め切れずにまごついていた。空はにやりと勝ち誇って、葵の方に向かって踏み出す。と、その瞬間に殺気を感じて振り返ると、正宗が刀を袈裟斬りに振り下ろしていた。空は一旦それを受け止めて受け流し、正宗が姿勢を崩したところに突きを放つ。突いた刀は深々と正宗の腹を刺し貫き、正宗の口から血が溢れて零れた。そして、そうすれば葵が接近してくることも空の読み通りだった。葵が消し去りの力を使う間合いに入るより速く、腰に納めた両刃の二刀目で抜き打ちに斬って捨てる。完璧に詰んだと確信し、喜悦に浸りながら腰の剣を抜いて葵の首めがけて振りぬいた。
だが、空の剣が葵の首を刎ね飛ばすことはなかった。何もない空中を斬り裂いた剣は虚しく静止していた。
葵は離れたところに膝を突いていた。あの瞬間、「消し去りの指輪」の攻撃ではなく、「時渡りの指輪」の回避に転じたというのか。だがなぜ。あの機を逃せばもう好機がない以上、防御ではなくいちかばちかの攻撃に出るはずだ。なぜ、回避に転じた。
混乱している空の胸に、正宗の血まみれの手が当てられる。空は何を見ているのか理解できなかった。混乱する頭は思考が方々に散ってまとまりがなく、考えているようで何も考えていなかった。ただなんとなく視線を落とすと、正宗の指には一つの指輪がはめられていた。思考が凄まじい速度で収束していき、その一つの事実を認める。
消し去りの指輪。あなたが。
空が悟った瞬間、正宗の桜華への想い、雨月の無念、芙蓉の悲しみ、心徹の虚無。そうした感情を乗せた力が蠢き、弾けて空の体を胸から下を消し飛ばした。
「まさかぶっつけ本番で成功させるなんて、本当正宗さんは只者じゃないよ」
葵が腰を下ろして空を見上げながら、清々しそうな晴れやかな笑顔を見せて言う。
「恐らく、二度はできんだろう。ただ一度だけの、奇跡のようなものだ」
言っていて恥ずかしいものだな、と笑うと、正宗は血の塊を吐いて膝を突く。葵は慌てて駆け寄る。
「指輪を、返さなくてはならんな」と正宗は震える指でそれを摘まむと、葵の掌に落とした。苦しそうに息をして胸を搔きむしると、「その指輪、使うのに何も代償がないわけではないのだろう」と葵を見上げた。
「うん。使った力の強大さに応じて寿命が削られる。多分正宗さんは、もう二十分ももたない」
「やはりそうか。だが、悔いはない。だからそんな顔をするな、葵殿」
正宗は穏やかに微笑みかける。葵は腕で目をごしごしと繰り返しこする。
「ふふふ、見事です。まさかわたしが人間なんかに敗れるとは」
胸から上だけになっても、空は生きていた。
「ですがわたしは空。いかなる縁も破壊して世界を完全な個に帰する者。空とは完全なる我。わたしは完全な我になるまで、消滅することはないのです。肉体の死というものも、肉や骨や血が分解され、個に帰るという縁の消滅の一つに過ぎないのです。わたしはわたしの死という経験を経て、一層強固に我という存在に近づくでしょう」
負け惜しみを、と苦しそうに正宗は言い、這って行って震える手で刀を逆手に構える。
「時を駆ける者よ。あなたは見たのではありませんか。時の果て――世界の果てを。そしてそこは空の世界であることを」
あははは、と狂った笑い声を上げる空の口の中に、正宗は刀を突き立てる。空はびくん、と体を大きく跳ねさせると、力を失ってそれっきり動かなくなった。
「だからわたしは時の迷宮を走るの。世界を守るために」
正宗はずるり、と握って寄り掛かった刀から落ちて、空の死体の上に重なるように倒れる。
「私は貴女を想っていた。貴女が何者であろうと。貴女の手で私は死に、私の手で貴女は死んだ。我が人生、これにて重畳。幕引きである」
それっきり、正宗は動かなかった。
ぽつり、ぽつり、と雨が落ちる。次第に雨脚は強まっていく。その中を葵はいつまでもいつまでも立ち尽くしていた。
〈第3章へ続く〉
■サイトマップは下リンクより
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?