シルバームーン
緑のフェンスをよじ登り、くるりと反対側に回ると飛び降りた。
こんなことならスカートじゃなくてジーンズで来るのだった、とアオイは後悔しながらも、再びアスファルトを蹴って駆け出す。ピンク色の女物の鞄を抱えた男が角を曲がってビルの影に姿を隠そうとしている。
「アオイ、『ツクヨミ』の気配は」
イヤホンから流れてくる若い男の声に、アオイは目を瞑って俯き、やがて顔を上げて目を開き「ない。邪魔の心配はない」と短く答える。
「大丈夫か、アオイ。見失うと厄介だぞ」
心配性なイヤホンの男に、アオイは「問題ないよ」と短く答える。マイクも何もないのに、その声は男に届いていて、男は「一時の方向。距離五十メートル」と淡々とした口調で告げる。
「五十メートルなら六秒あれば追いつける」
これでも短距離には自信がある。アオイは肩から提げた鞄を直すと、ぐんぐんとスピードを上げる。鞄の中身ががちゃがちゃ音をたてて、男が耳元で文句を言っているけれど、アオイは歯牙にもかけない。街行く人々の間を縫って走り、男が曲がって行ったビルの角を最小限のコーナリングで曲がると、正面に男の背中を捉える。
男の背中には逃げ切ったという安堵が漂っていた。人ごみに紛れてしまえば逃げられると。だが男は知らなかった。盗んだ鞄の中には「道標」が入っていて、その存在を感知できる人物がいることを。つまり、逃げ切れはしないということを。
アオイは地面を蹴るストライドを大きくし、勢いをつけて男の背後に迫ると、アスファルトを蹴って跳んだ。そしてその勢いのまま男の背中に右足の爪先を突き立て、踏み潰すように蹴り倒す。
男はもんどりうって倒れ、アオイはその背中の上を転がるようにして地面に落ち、即座に立ち上がると男の手から離れた鞄をひったくった。
「どう? ひったくり犯がひったくりに遭う気分は」
怒りを見せながらも、逃げる姿勢を見せた男に対し、アオイは足を引っかけてなおも転ばせ、腕を締め上げて背中の方に回して身動きが取れないようにすると、通行人に向かって「ひったくり犯です。警察への通報と犯人の拘束に協力してください」と手を挙げて呼びかけた。大体の人間は通り過ぎて行くものの、サラリーマン風のスーツの男と、大学生風の男女四人組が近づいてきて、協力してくれた。
しばらく待っていると鞄の持ち主である中年の女性がやってきたので、アオイは鞄を持ち主に返し、中身が無事かその場で確認してもらった。警察が来る前に事を済ませて立ち去っておきたいアオイは、言いにくそうに女性に訊ねる。
「ひょっとして、CDをお持ちではないですか」
女性はちょっと虚を突かれたように驚くと、「ええ、まあ」と視線を泳がせて頷いた。この反応から察するに、女性は知っているのかもしれない。なら、単刀直入に切り出した方が話は早く済む。
「『道標』ですね。よろしければ、譲っていただけませんか」
アオイはそう訊ねながらも、有無を言わせぬ口調だった。「もう少し言い方を考えないか」と耳元で苦言を呈される。「君は本当に十八か」と失礼な発言までセットだ。「藤倉さんは黙っていて」と言うと、女性が藤倉の名前に反応した。
「藤倉くんを知っているの」
ええ、とアオイは頷く。耳元では「え? 誰だ」と困惑の声が上がる。
「藤倉とは連絡を取り合っています。失礼ですが、あなたは」
ああ、と女性はため息をつき、目に涙を浮かべてアオイの手を取った。
「わたくし、旧姓は桐嶋と申しまして、藤倉くんとは大学の同期で」
「ええ! 僕らのアイドル、桐嶋さんなのか? いや、でも。そうか。年月というのは残酷なものだな」
うるさい、とアオイは思うが、突っ込みを入れていると話が進まず、警察が来てしまうかもしれないので、「道標をいただけますか。藤倉のためにも」と言って手を差し出す。
桐嶋もアオイが急いでいることに気づき、鞄の中から男性ダンスグループのCDを取り出すと、その手に握らせて、「藤倉くんによろしくね」と目配せしてみせると、藤倉がイヤホンの向こうで「ううっ」と苦しそうな悲鳴をあげているので、いい気味だとアオイはほくそ笑む。
「ありがとうございます。それでは」
アオイは困惑した協力者たちを置き去りにして、足早にその場を離れる。途中でパトカーとすれ違ったので、間一髪というところだったらしい。十分に離れたところで、チェーン店のコーヒーショップに入って一番安いアイスコーヒーを頼んで、奥のソファ席に陣取る。
鞄をソファの上に投げ出し、中からポータブルのCDプレイヤーを取り出し、イジェクトボタンを押してディスクトレイを開ける。故郷のアンティークショップで初めて見たとき、画期的だと思った。CDの音源を、パソコンやインターネットを介さずに、持ち運びできるプレイヤーで再生できるというのは。かさばるのが難点だったが、CDを聴ける利点はその難点を補って余りある。そう考えて手を伸ばしてしまったのが運のツキだった。
「もうちょっと僕を優しく扱ってもらえないかな。君はがさつすぎるよ」
イヤホンから拗ねた声が響く。藤倉の声だった。彼の声は、このプレイヤーの中から響いていた。藤倉はプレイヤーの中にいるのだった。そのため、イヤホンを介して彼の声を聞くことができるし、彼の方では原理は不明だが外界の音や会話などは把握できるらしい。
「がさつで悪かったわね。でも忘れない方がいいわよ。わたしの協力がなかったら、あなたはただのCDプレイヤーなんだってこと」
うっ、と藤倉は言葉に詰まる。
アンティークショップで藤倉の魂が封じ込められたCDプレイヤーを手に取り、声を聴いたアオイは、最初は気味が悪いと思って、押し入れの奥にしまいこんでしまったが、やがて気になって引っ張り出し、藤倉の話を聞いてみることにした。
すると藤倉は今から二十年ほど前に「道標」を使って自身の願いを叶えようとして失敗し、プレイヤーの中に封じ込められてしまったのだという。
「道標」とは名前の通り道しるべとなるもので、正しく使えば願いを叶えることもできるものだと考えられていた。どういうわけかCDの形をしている。藤倉曰く「擬態」だそうだが、なぜCDなのかと問うと藤倉も沈黙するのだった。だが藤倉は自分の失敗から、「道標」はその名の通りのものなので、ある程度の数を集めて道を辿ってからでないと、願いは叶わないのではと推察していた。そのため、アオイと藤倉は「道標」を集めていた。アオイの前にも藤倉に協力していた人間はいたが、今は姿を見せないこと、藤倉が元の姿に戻っていないことなどを考えれば、察せられるだろう。
当初アオイは藤倉に協力する気はさらさらなかった。協力して、藤倉が元の姿に戻ったとて、アオイには何の利益もない。だが、幼少期に昏睡状態に陥って今なお眠り続けている兄が、アオイにはいた。その昏睡の原因となった怪人物が、藤倉が「道標」を巡って争う「ツクヨミ」と呼ばれる人物らしいと分かって、アオイは協力することを決めた。「道標」ならば、兄の昏睡をとけるかもしれないと。
アオイにはどういうわけか、「ツクヨミ」の接近を察知する能力があった。これまで二度遭遇したものの、その能力を駆使してなんとか切り抜けて逃れてきたが、二つ目の「道標」を手に入れたとなれば、相手も本腰を入れてくるだろう。
アオイはディスクを新しい「道標」に入れ替える。
役割を終えた「道標」もただのCDではない以上、使いどころがあるだろうし、もし迂闊に扱って一般人の手に触れて、藤倉のように事故を起こしてもことだ。まあ彼は自分の意思で「道標」に手を出したのだけれど、とアオイは冷ややかにプレイヤーを見つめる。
「あ、なんか僕を馬鹿にしているな。いいのか、君だけでお兄さんを救うことは……」
なんやかんやとうるさいので、アオイは乱暴にディスクトレイを閉めた。「うぐっ」という短い悲鳴が上がって、「舌を噛んだ」と泣き言を言うので、「噛む舌もないでしょ」と感情のこもらない真剣でばっさりと切り捨てる。
「いいから早く『道標』を再生して」
分かっている、と藤倉は真剣な声になる。ディスクの回転する音だけが耳の中で響いている。その音を聴いているといつも、その回転に巻き取られてしまって、自分も回転の渦の中に落ちて終わりのないダンスを踊らされている気がしてくる。
藤倉はこの回転の中でどうしているのだろうと不思議になる。一緒にぐるぐる振り回されている藤倉の姿が想像されるが、その男は顔が空白で、はっきりしているのは声だけだった。
藤倉という存在は今どうなっているのだろう。生物ではない無機物に宿って、声を発し、外のことは知覚できるらしい。痛いとか寒いとか言うときもあるけれど、そうした感覚があるとは考えにくかった。単なる冗談だろうと思う。
ディスクの回転が止まり、藤倉の声が戻ってくる。「読み取り完了だ」
「この『道標』は当たり? 外れ?」
当たりなら藤倉が元の姿に戻れる。外れならば、「道標」は次の「道標」の位置を示す。
「残念ながら外れだ。次の位置を知らせてきた」
アオイはため息を吐く。旅、継続かあ。
「『道標』って一体幾つあるわけ」
「僕にも分からない。その中に当たりが幾つあるのかも」
「気の遠い話で、お気楽なこと」とアオイは悪態をついてコーヒーを喉を鳴らして飲む。
「仕方ないだろう。『道標』の存在は世間から隠されている。然るべき人間が手にしなきゃただのCDだ」
そのただのCDに見えるものを、なぜそうと思わず桐嶋は持っていたのか。「道標」であることも理解しているようだった。だが、「道標」で願いを叶えようとは思っていないようだった。藤倉のようになりたくないからか。彼女は独自に藤倉を調べ、「道標」を知ったのではないか。ならばなぜ、その「道標」を易々と譲った。彼女はこれが自分には役に立たない外れの「道標」だと知っていた?
アオイは思考がこんがらがりそうだったので、桐嶋の存在は一旦脇に置いておくことにした。彼女がどのような魂胆があろうとも、物理的に離れてしまえば怖くない。
「次はどこ?」
アオイが訊ねると、藤倉は待ち構えていたように嬉しそうな声をあげる。
「栃木県日光市だ」
夏なのに随分涼しいな、とアオイは外国人の観光客に交じって電車を降りて駅のホームに立って思った。日焼け止め、しっかり塗ることもなかったかな、と腕を擦って出入口の向こうを眺めて、白く眩いほどに陽光が地面に反射しているのを見て、紫外線は暑かろうが涼しかろうが一緒か、とため息を吐く。
東京を出るときに買った麦わら帽子を目深に被って、アオイは改札を抜ける。
「で、日光のどこへ行けばいいの。ガイドブックで見たけど、ここ随分と広いわよ」
駅舎から出ると、右手側に交番が見える。その前に外国人の人だかりができていた。
「このまま西だ。大きな神社。その近くだ」
了解、と人だかりを迂回しようと道路に出たところで、アオイは薄氷を踏んでしまったような寒気を覚えた。この感覚は、と身震いしながら両手で体を抱き締めると、周囲を見回した。
(どこ? それに、こんなに近づかれるまで気づかないなんて)
これまでであれば、視認できない距離であっても感じ取ることができた。恐らく電車を降りたときには察知していたはずだ。それなのに、至近距離に寄られるまで気づかなかった。
あの人だかり、とアオイが忌避感を示したのと同時に、「オー、ジャパニーズガール」と外国人の歓声を浴びてそれが姿を現した。
漆黒の着物を身に纏った人形のような少女、月光のような冷え冷えとした光を瞳に宿した魔物、「ツクヨミ」だった。
「『ツクヨミ』だ! 逃げろ」と耳元で藤倉が叫ぶのと同時に、アオイは駆け出していた。麦わら帽子が脱げて風に飛ばされ、上空へと運ばれていく。アオイはそれを一瞥し、高かったのに、と内心で舌打ちした。
引き返す形で逃れ、駅前のマンションの角を曲がる。その先には鉄橋が伸びていたものの錆がひどくぼろぼろで、手すりも低く、上るのを躊躇ってしまうものだったが、退路を「ツクヨミ」に封じられてしまっているため、やむなくアオイはその鉄橋を駆け上がった。
「ねえ逃げないで、遊びましょうよ」
ツクヨミは下駄を鳴らして追ってくる。アオイはその音がすぐ後ろまで迫っているのを感じていた。足には自信があったアオイだが、人外の存在には通用しないかと臍を嚙む。
「アオイちゃん。遊びましょ」
ツクヨミのくすくす笑う声が響いて、アオイは髪の毛を引っ張られ、バランスを失って後ろに倒れる。三、四段鉄橋の石段を転がり落ちて止まる。体を打ち付けた痛みに顔を歪めるが、目の前に赤い花緒の高足下駄があって、血の気が引いて慌てて立ち上がろうにも、体のあちこちが痛んで機敏な動作がとれない。
(逃げるにも、逃げる隙がないことには)
アオイは立ち上がると同時に思い切りツクヨミの体を両手で突き飛ばした。その体は綿毛のように軽く、まるで自分で跳んだかと思うほどだった。だが落下まで見届けているわけにはいかず、アオイは鉄橋の上へと駆けていく。
(あれくらいじゃ絶対に死なない。早く、早く逃げなくちゃ)
だが逃げるにしても、「道標」から遠ざかることは避けたい。藤倉は西だと言っていた。今反対方向に逃げている。ツクヨミを撒いて、どこかで反転する必要があった。
(どうする。どうする。逃げる。それとも「道標」を目指す?)
「アオイ、後ろだ!」、藤倉の悲鳴混じりの声が上がって、考え込んでいたアオイは虚を突かれ振り返った。
背後にツクヨミが迫っていた。アオイは逃げ切れないことを悟りつつ、拳を大きく水平に薙ぎ払った。ツクヨミはその拳を寸前で体を沈めて避け、腕をかいくぐってくると、アオイの首元を掴んで鉄橋の柵に打ちつけた。凄まじい力だった。錆びた柵がぎしぎしと軋み、背中に食い込む。苦悶の声を漏らそうにも喉を締め上げられていて、声が出せない。
死、の一文字が頭をよぎった。このままでは確実に死ぬ。藤倉は声だけしか出せない。自分を助けてはくれない。自力でツクヨミの手を引きはがして、逃れなければ確実な死が待ち受けている。
アオイは何かないか、と鞄の中に手を突っ込む。ツクヨミはそれを一瞥するとにやりと笑った。何もできやしないでしょう。魔物の目はそう語っていた。
(何もできないかもしれない。でも、だからといって大人しく死んであげるほど、諦めがよくもないのよね)
「アオイ、『道標』を使え!」
奇遇ね、わたしもそれしかないと思っていたの、と考えて鞄の中を探り、「道標」を掴む。
ツクヨミは「道標」を求めながらも「道標」自体には強い拒絶反応を示す。それゆえに「道標」をその身に取り込むことができるプレイヤーの藤倉と、アオイに強い執着を見せていた。
アオイは、幼い頃にツクヨミに会ったことがあった。兄と二人で遭遇したアオイは、ツクヨミに魂の一部を食いちぎられた。それより大きな部分を食いちぎられた兄が昏睡状態であったのに対し、アオイは数日間寝込んだだけで済んだ。そして、目覚めたときにはツクヨミの存在を感じ取る能力に覚醒していた。恐らく、ツクヨミが魂を食いちぎったときにツクヨミの魂とアオイの魂が触れ合ってしまったことで目覚めた力だろうと藤倉は推測していた。
そして恐らく、その魂の共有ゆえにツクヨミはアオイに執着するのではないかと。
「プレイヤーを引き渡す気になった? でもだぁめ。あなたを殺してから奪えばいいだけだもん」
ツクヨミが首を締め上げる力を強める。顔が熱くて、蒸発して爆発しそうだ。アオイは鞄の中から「道標」を引き抜いて、ツクヨミの顔に押し当てる。すると肉が焼け焦げる音がして、ツクヨミの顔から煙が上がった。甲高い絶叫を上げてツクヨミは悶える。アオイの首から手を離し、「道標」を弾き飛ばそうとアオイの手を掴んで捻り上げるが、アオイも意地でも退かないと全力で顔に押し付け続ける。肉が焦げ、火が上がり、絶叫が木霊する足元を、電車が走り抜けていく。
ツクヨミがアオイの腕に爪を立てる。凄まじい力で握りしめられた腕は、爪が刺さって血が零れる。痛みにアオイが顔を歪めた瞬間、ツクヨミは「道標」を振りほどき、後ろに飛びずさった。顔が焼けただれて、皮とともに肉がべろりと剥がれ落ちて鉄橋の上に垂れた。その悍ましさと人の肉の焼ける臭いに、アオイは吐き気を催す。
「早く逃げろ、アオイ!」
藤倉の声に我に返り、アオイは血が流れる右腕を押えながら鉄橋を反対側に降りていく。その先には短いトンネルがあり、くぐると道路に出る。そこへ折よくタクシーが通りがかったので、行き先を告げて乗り込む。振り返ると、トンネルからツクヨミが恨めしそうに覗いていた。
「運転手さん、お願いします」
アオイは鞄の中から応急用の包帯を取り出すと、きつく巻いて包帯を口にくわえ、同じく鞄の中からナイフの鞘を払って、切り離す。包帯は見る間に血に染まったが、何もないよりはまし、とアオイは背もたれに凭れて安堵の息を吐いた。いくらツクヨミが速かろうと、車より速く走ることはできないだろう。
街中は楽しそうな観光客で溢れていた。血みどろの逃走劇を繰り広げているのは自分くらいだろうなとアオイは苦笑して、窓の外を眺めてステーキハウスの前にツクヨミが立っていた気がしてぎょっとしたが、次の瞬間には姿は消えていた。見間違いか、と自嘲気味に笑うと、「油断するな」と藤倉がいつになく真剣な声で言う。
運転手に怪しまれないよう、スマホを出して電話している様子を装い、「まだ追ってくるの」と訊ねる。
「ああ。間違いなく。反撃を受けたことでより執拗になるだろう」
「『道標』を使う手は」
問うまでもないことのようにアオイにも思えたが、僅かな希望を込めて訊ねずにはいられなかった。
「もう通用しないだろう。あれは不意打ちだったからこその一撃だ」
じゃあどうするのよ、とアオイは苛立った声を上げて、シートを叩いた。運転手がぎょっとしているのがバックミラー越しに見えた。アオイは声をひそめる。
「打つ手なしってわけ」
「いや」
ツクヨミに見つかった時点で逃げの一手に徹するしかなかったのだ。その中を「道標」を取りに行くことを強行した時点で、攻め手を誤った。逃げて機会を改めて、「道標」を取る。それをツクヨミが安穏として待っていてくれるかは分からないが。
これまでは接近を察知できるというアドバンテージを活かしてうまく回避してくることができた。だが今回はそのアドバンテージがうまく働かない。
「次ツクヨミが現れたら、僕を囮にするんだ」
「なに馬鹿なこと言ってるの。そんなことできるわけないでしょう」
藤倉は押し黙って、アオイが追い打ちをかけるように、「効き目もないだろうし」と言うと、「申し訳ないんだ」と藤倉は堰を切ったように吐き出す。
「いつも命をかけるのは君たちで。僕は守られているだけで何もできない。彼女が死んだときだって、僕はただ見ていたんだ。ツクヨミに縊り殺される彼女の姿をただ見ていたんだ。僕はもう、そんなのは嫌なんだよ」
藤倉は自分と過去のプレイヤーの持ち主である女性とを重ねて見ている、とアオイは思った。それはただの藤倉の感傷であり、そのために身を投げ出すのはエゴ以外の何ものでもなかった。
「あなたを犠牲にしなければ助からないとしても、わたしはそれを選ばない」
「なぜ?」
アオイは息を吸い込んで、ゆっくりと吐きだす。
「わたしの誇りの問題だから」
運転手がクラクションを鳴らした。前方に黒い影が立っている。ツクヨミだった。
「構わない、そのまま轢いて!」
運転手は信じがたいものを見るかのように身を乗り出してきたアオイを眺め、逡巡して結局は直前で急ブレーキを踏んだ。ツクヨミを跳ね飛ばす直前で甲高いブレーキ音を響かせて車が止まり、アオイは運転手に開けさせて後方のドアから転がり出た。
朱塗りの橋が左手に広がっていて、正面に神社へ続くと思しき坂道があった。振り返るとツクヨミはタクシーのボンネットに乗り、フロントガラスを右腕で貫き破って運転手の首を掴み、絞め殺していた。
背後から悲鳴や警察を呼ぶ叫び声が上がり、それが次々と凄惨な断末魔の声に変わるのを耳にしながら、それでもアオイは走った。
「アオイ、後ろから奴は来ていない。今の内だ」
「巻き込んだ。大勢。関係のない人を」
「仕方がなかった。ツクヨミがああなってしまっては、僕らでは止めようがない」
アオイは叫んだ。走りながら。「命を、仕方がないと割り切れって言うの」
「わたしとあなた。それぞれの個人の願いのために、何十人もの人の命を犠牲にしろって」
それを、仕方ないの一言で。アオイは怒りに突き動かされていた。だがそれが誰に向けての怒りなのか、アオイにはうまく説明することができなかった。ツクヨミか。藤倉か。自分自身か。そのどれもであるような気がして、そのどれでもないような気もまたするのだった。
石畳の道を上がり、砂利の坂道を駆け抜けると、左手に長い参道が広がり、その先に社が見えた。
「どこ、『道標』は!」
ここまで来たら、「道標」を手に入れるしかない。そうでなければ、何のために犠牲を強いてきたのか分からなくなる。あわよくば、それが正解の「道標」であることを願うしか。
「境内だ。近いぞ」
境内に足を踏み入れた二人が見たのは、倒れ伏して呻き声を上げる大勢の人々と、首を絞められて体を持ち上げられた若い女性、そしてそれをなすツクヨミの姿だった。
「遅かったのね。あんまり遅いものだから、少し遊んで待ってたのよ」
アオイは歯噛みをして、小声で「道標は?」と訊ねると、藤倉はあの絞め上げられている女性だ、と答え、アオイは憎々し気にツクヨミを睨みつける。
「ああ、その目だわ。アオイちゃん。とてもいい目よ。だからプレゼントしちゃおうかしら」
ツクヨミは女性を下ろし、引きずってアオイの方に近づいて行く。アオイは無駄と分かっていながら先ほど使った「道標」を鞄から取り出して構える。
「やあねえ。そんな物騒な物はしまって頂戴よ」
「なにを考えているの、ツクヨミ」
ツクヨミはにたりと笑って、「私はただ、アオイちゃんと遊びたいだけなのよう」と媚びるような目で見上げた。
「アオイちゃんは『道標』が欲しいんでしょ。だからあげようと思って」
「どんな罠が仕掛けられているの、そこに」
アオイの引き攣った精いっぱいの虚勢の笑みに、ツクヨミはくすくすと笑ってそれを「案外臆病なのね、アオイちゃん」と嘲った。
「でも、そうね。ただであげるのもつまらないわ」
ほら来たぞ、と藤倉が叫ぶ。
「アオイちゃんが願いを叶えるために使うのなら、あげてもいいわ」
「え?」とアオイは虚を突かれる。
「それ、当たりの『道標』なの?」
そうよお、とツクヨミはけたたましい笑い声を上げる。
当たり、なら、『兄の魂を取り戻す』か『藤倉を元に戻す』か。どちらかの願いを叶えることができる。約束を重んじるのなら、『藤倉を元に戻す』べきだ。だが、元の体に戻った藤倉はアオイに協力するだろうか。その保証はない。むしろ長い間忍従を強いられたことを考えれば、「道標」などからは解放されたいだろう。けれど、約束を違えて『兄の魂を取り戻す』ことは信義に反する。引き続き藤倉の願いのため協力すれば、彼は納得してくれるだろう。それに甘えるのをよしとしない自分がいるのも確かだ、とアオイは唇を噛んだ。
「アオイ、これは罠だ」
藤倉は言いながら、だが確信をもててはいないようだった。
「ならどうするの」
藤倉はしばしの沈黙の後で、「すまない。どうすべきか、僕には思いつかない」と悔しそうに言った。
罠かもしれない。だが、願いが確実に叶うなら。その後でツクヨミが自分を八つ裂きにしようと。黙って殺されるよりはましではないか。アオイは一歩前に踏み出した。
「その気になったのね、アオイちゃん」
待つんだアオイ、とイヤホンの向こうで藤倉が叫んでいる。
「本当に願いが叶うんでしょうね」
アオイの睨みつける厳しい視線にぞくぞくしながらツクヨミは「もちろんよお」と答える。
「私は嘘はつかないわ。この女が持っているのは本物。鞄を探ってみなさいよ」
アオイは警戒しながらも女性のショルダーバックを探り、その中にCDがあるのを見つけて取り出す。
「願いを叶えるにはどうしたらいいの」
簡単よお、とツクヨミはにたにたと笑う。
「ディスクの銀盤に向かって願い事を言うだけでいいの。それだけで、どんな願いも叶っちゃうのよお」
やめろ、アオイ。藤倉は賢明に叫び続けるが、アオイの耳にはもう届いていなかった。藤倉の声も、ツクヨミの声も。アオイは目を瞑って意識を集中し、目を開ける。
ディスクを裏返し、虹色に光を反射する銀の盤面を見つめる。兄を取り戻すこと。藤倉を元に戻すこと。そして恐らく、願いを叶えた自分をツクヨミは殺すこと。そのすべてに対しての最適解は、アオイには一つしか思いつかなかった。
顔を上げて、ツクヨミに向かってふっと笑みを零す。
さよなら、ツクヨミ。
声には出さず口の動きだけでそう呟くと、ツクヨミの顔色が変わり、雄叫びを上げながら向かってくる。それにも慌てず急がず落ち着いて、アオイは銀盤に向かって、
「ツクヨミという存在を消滅させること」と告げた。
銀盤が光り輝いて、ツクヨミは断末魔の叫びを上げながら、徐々に溶けるように消えていった。
アオイはツクヨミが消滅するのを確認すると、騒ぎに巻き込まれる前にその場を逃げ出した。来た道を辿って下り、神橋と呼ばれる朱塗りの橋に辿り着くと、拝観券売り場のそばに腰を下ろした。
「考えたな。ツクヨミの消滅とは」
藤倉の称賛する言葉に照れ臭そうに鼻をこすると、「あれしかなかったから」と悔いが残る表情を見せた。
「犠牲になった人たちか」
神橋付近も、警官や救急隊などが入り乱れての大騒ぎになっていた。今その中を突っ切っていくことは上策とは言えないだろうな、と精々目立たないように息を殺して膝を抱えた。
「だが、ああして君が止めなければ、もっと犠牲は増えていた」
「そうかもね」
だが、アオイたちがここにこなければ。もっとうまく立ち回っていれば、犠牲は出さずに済んだのではないかと考えてしまうこともまた事実なのだった。そしてそれは藤倉も理解していた。彼は彼で、慰めしか口にできない自分の無力さに打ちひしがれていた。
「願い事、遠回りしてもいいかな」
「ああ、僕は構わないよ。君は彼女の仇もとってくれた。僕はもう元に戻れなくても、君が願いを叶えられれば――」
アオイは首を強く横に振る。
「あなたは元の体に戻すよ。わたしの、誇りにかけて」
アオイは立ち上がり、群衆の中へと進んで行く。誰も彼女を見咎めない。彼女は無人の荒野を行くがごとく、地獄の坩堝と化した喧騒の中を突き進んでいく。相棒の、藤倉とともに。
〈了〉