雷火
昨日裏庭の古木に雷が落ちた。
古木は二股に分かれた幹の分かれ目から発火し、瞬く間に枝葉に火が移って、降りしきる雨の中だったのに燃え上がり、篠突く雨になって火を消した頃には、ほとんど燃え落ちていた。
その夜の雷はウチを中心に近所に降り注いだようで、二軒離れたところのサクゾウさんちは納屋が燃えたらしい。ウチは木だったので大騒ぎにはならず、火さえ消えれば家人の誰もが注意を払わなくなった。
僕はなんとなくまだ木の焦げた、粉っぽい灰がかった臭いというか、どことなく死を思わせる臭いに誘われて、翌日大学から帰ってきてから古木の残骸の元に足を運んだ。
二股に分かれていた古木は二本の太い幹が裂けて地に落ち、角をもがれた牡鹿のようだった。黒い炭のようになってしまった木は、雨に濡れて光沢を放ち、黒曜石のようだった。
僕は根元の地面に腰を下ろして、木を見つめた。特にこの木に思い入れがあったわけじゃない。だけど、雷に打たれて死んだのに、誰にも顧みられないんじゃあんまりだと思った。
濡れた地面は冷たくて、ズボンを貫いてパンツにまで湿気が及んでくる。ハンカチでも敷けばよかったか、と苦笑した。
ふと顔を上げた瞬間、木の残骸の上に金色の獣がのっていた。犬のような、狐のような顔だちをしているが、大きさは猫ほどしかない。だが、体つきは猫よりも胴体がすらりと細長かった。目は翡翠色で、光を反射して宝玉のように輝いていた。
なんの動物だろう、と思った。特に危険は感じなかった。どちらかというと動物は苦手な方だったけれど、その金色の獣には引き寄せられるように手を伸ばした。
獣は耳をぴんと立て、前傾姿勢になって、僕があっと思ったときには首を伸ばして僕の指先に噛みついていた。
痛っ、と思わず呻いて手を引っ込めた。人差し指には小さいけれど鋭利な牙が食い込んだ噛み痕が残っていた。
獣は僕の顔を見上げ、シュウと喉を鳴らすと、木から飛び降りて藪の中へ消えて行った。消えて行く途中で一度名残惜しそうに振り返るような仕草を見せたが、それは一瞬のことだった。
僕は唖然としながらも指先を吸って止血をして、絆創膏を探しに家の中へ戻った。
この日は家族皆が出払っていて、家には僕一人だった。みんな夜にならなければ帰って来ない。両親は僕と妹の学費を捻出するのに仕事で忙しかったし、祖父母は公民館の老人講座から講座生で集まっての食事会で帰ってこないし、妹は勉強にバイトに大忙しだ。横浜国立大に行くと言っていたが、本気だろうか。
僕は薬箱から絆創膏を引っ張り出して傷跡に貼ると、リビングに置いておいた鞄の中からノートパソコンを出して画面を立ち上げる。飯森教授の課題が明日までだった。教授は課題や出欠に厳しい人で、一つでも落とすと単位が危ない、という噂があった。
「ごめんください」
やかんを火にかけ、湯を沸かしながら僕は流し台の下の棚からはちみつの瓶を引っ張り出して、スプーンで掬ってマグカップに落とすと、もう一杯掬って口に含んだ。とろりとして香り高い甘さが口の中に広がり、鼻を抜けていく。
「ごめんください」
あ、来客、と思って火を止め、玄関へと走って行く。床板がぎしぎしと軋む。古い家だよな、と思う。この亡霊の叫びみたいな床板の音のせいで、夜中こっそり夜食を調達しようと思ってもバレて怒られる。もう子どもじゃないんだけどな。
玄関を開けると、そこに立っていたのは小柄な女性で、頤の高さで切り揃えられた漆黒の髪が顔を包むように垂れ、白く滑らかな首の先には艶めく鎖骨が覗いていて、その瑞々しさを感じる体を金色の毛皮のコートで包んでいた。コートから覗く手にはシルクの手袋をしていて、たおやかに体に添えられている。
視線を上げると、彼女の翡翠色に輝く瞳とぶつかる。直線的なラインを描く眉が彼女の顔に凛とした風情を添えていた。
「あ、あの、どちらさまですか」
年齢は僕よりも上に見えたが、上と言っても三つか四つくらいだろう。彼女は口角を微かに上げて笑みを形作ると、「落とし物」と言葉を風に乗せるように呟いた。
「落とし物を探していて。ご存じありません?」
「落とし物ですか」と僕は頭の後ろを掻いて、彼女の美しい瞳と目を合わせていると骨まで溶かされそうで、視線を背けて「何を落としたんです」と訊いた。
「かんざしを」、と彼女は首を振った。艶やかな光を反射する黒髪がさらさらと揺れた。
かんざしの似合わない髪だな、と思ったが、特に深く追及はせず、「見ていませんねえ」と申し訳なさそうに頭を下げた。
あの、と彼女は引き下がって帰らず、「お庭を見せていただいても?」とシルクの滑るような手触りの手で僕の手にそっと触れると、おもむろに顔を上げてその翡翠色の瞳を濡らして見つめ、形の良い唇を蠢かして囁くように言った。
「え、ええ。構いませんよ」
僕はどぎまぎしながら彼女から離れ、サンダルをつっかけて玄関から出ると、先に立って裏庭の方へ案内した。
彼女は裏庭に立ち入ると真っ直ぐに雷の落ちた古木の元へ向かい、その燃え尽きた体をそっと撫でた。
「ああ、やっぱり。ごめんなさい。わたしのせいね」
彼女は古木に寄り添って、はらはらと白い宝珠のような涙を零すと、頬を古木に寄せて歌を歌った。僕の聴いたこともない歌だった。そもそも日本語ではないようだ。英語でもない。中国とか、アジア圏の歌のようにも思えたけど、僕の言語レベルでは分からなかった。
僕は彼女に近づこうとゆっくりと歩み寄ったが、ふと足元で何かが光っているのが目に入った。しゃがんで拾い上げると、それは金のかんざしだった。滑らかで鋭く、花を鈴なりにしたような飾りがついていて、赤い宝石が散りばめられている。
「あの、これ……」
拾ったかんざしを彼女に差し出すと、彼女は両手で顔を覆って静かに涙を流すと、「ありがとう」と何度も繰り返した。
「大事なものなんですね」
「ええ。亡き夫からもらった、形見の品なんです」
夫、という言葉に少しばかりの落胆を感じながらも、「そうですか」と努めて微笑みを浮かべて頷いてみせた。
彼女はシルクの手袋を外し、手袋を外してなおも陶器のように白く滑らかな指先で涙を拭うと、顔を上げて翡翠色の瞳で僕を見つめ、「心ばかりのお礼ですが」と手の中に収まりそうな小さな巾着袋を差し出す。
僕はそれを受け取ると、見た目に反して僅かな重量感があり、袋の膨らみと同じ大きさの固形物が一つ、という感触で、石などの鉱物かな、と僕は思った。
彼女の目が中を検めるように言っているように思えて、袋の紐を解いて中身を掌の上に転がして出すと、それは太陽の光を受けて七色に輝く石だった。見る角度によってあまりにも目まぐるしく色が変わるので、石の元の色が何なのかさっぱり分からないほどだった。
「それはあなたに幸運を運ぶ石です。肌身離さず、持っていてください」
ええ、と僕は曖昧に頷いて、石を袋の中に戻すと、紐で縛ってズボンのポケットの中に入れた。
「わたしは行かなければなりません。ご縁がありましたら、また」
そう言って彼女はコートの裾をはためかせてひらりと古木の残骸を飛び越えると、藪の中に飛び込み、それっきり出てこなかった。藪の向こうはブロック塀になっており、女性に越えられるような高さではないのだが、藪に入り込んで探してみても、彼女の姿はどこにもなかった。
僕は訝しく思いながらも、彼女がくれた石を肌身離さず持っていた。すると、講義で頭が冴え、クリティカルな発言をして教授の覚えがめでたくなったし、それ以上に嬉しいことに、人生で初めての彼女ができた。
彼女は小柄で黒髪の美しい、どことなく雷の次の日にやってきた女性を思わせたけれども、その人よりも若く、妖艶な美しさというよりは天真爛漫な真珠のような全き美しさをもった女性だった。
彼女と共にする初めての夜、お互い一糸まとわぬ姿になって寄り添ったとき、彼女は執拗に僕の右手の人差し指を口に含み、強く嚙みさえした。最初は愛撫しているのかと思ったけれど、どうにもそうではないような気がしてきた。まるで指に自分の歯型を刻もうとするような執拗さに思えた。
彼女は指から口を離して、体をぐっと反り返らせて伸ばすと、僕の唇に口づけをした。ふっと離れた瞬間、ダウンライトの光が反射して、彼女の瞳が翡翠色に輝いた気がした。
〈了〉