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リバースプラン(第二話)
2、優奈
ざらざらとイヤホン型の無線機に雑音が混じり、その雑音の奥に隠れるようにして男の声が響いている。
かつてオフィス街であった場所は、今生きた人間のいない荒れ果てた廃墟と化していた。数年前までは県有数のオフィス地帯として機能していたが、ある日数人のコントローラーが侵生者を引き連れて襲撃し、次々と人々を殺害しては新たな侵生者として加え、襲撃の規模を拡大し、最終的にはオフィス街全体を巻き込む大規模な殺戮・事件になった。
この事件に対し、県警は特務課を始めとする人員を百名以上動員し、民間の侵生者駆除団体である「猟勇会」にも協力の依頼が下り、三十名のハンターが参加したが、最終的に犯人グループ全員を殺害したものの、警察十五名、猟勇会二十名の殉職者を出し、オフィス街自体の制圧も、後から事件に乗じてやってきたコントローラーたちの急襲に遭い、断念して無念の撤退となった。それ以降、この地帯はコントローラーが隠れ住み、大量の侵生者たちが蠢いている県きっての危険地帯へと成り果てた。
猟勇会の新人ハンター、姫川優奈はボルトアクション式のライフル、レミントンを肩に提げ、雑居ビルが立ち並ぶ一角に足を踏み入れ、電柱の影に隠れながら前方を窺った。
オフィス街は危険地帯で、警察すら足を踏み入れないような場所だが、オフィス街の西部に位置する、大規模な冷凍機メーカーが所在する入り口エリアには大量の侵生者がおり、コントローラー能力を得たばかりの未熟者などが死体の調達に現れることがあるため、猟勇会は定期的に侵生者の駆除を行っていた。
すべての死体が侵生者になるわけではないし、どの死体がいつ侵生者として目覚めるか、そのメカニズムは分かっていない。だが、今この世界で死んだ者は、高い確率で侵生者となる。そのため、火葬が非常に有効だとされていて、土葬の習慣のある国でも、火葬を取り入れる動きになってきている。
入り口エリアより奥に足を踏み入れると、能力の高いコントローラーと出くわす可能性が非常に高いため、猟勇会もハンターの立ち入りを制限していた。名だたるハンターたちがオフィス街の深部に挑んでいったが、帰って来た者は誰もいなかった。
雑居ビルが建ち並ぶのは西南のエリアだ。入り口よりは一歩踏み入ったエリアで、普通ならば新人の優奈が派遣されるエリアではないのだが、優奈は初陣で三体の侵生者とそれを操るコントローラーを仕留める大殊勲を上げ、猟勇会でも一目置かれる存在になっていた。そのため、西南エリアに増えつつある侵生者の掃討任務に赴く五人のうちの一人に選ばれた。
「新庄、異常なし」
無線機に若い男の声が入る。先行している新庄からの通信だ。遅れて中年の男のがらがらした声で、「三沢、同じく異常なし」と最後尾を守る三沢からの通信が入る。
優奈は銃を下ろしてボルトレバーを回し、薬室を解放すると、銃弾を次々と詰め込んでいき、ボルトレバーを回して元の位置に戻す。その銃のモンテカルロ型の銃床を肩に押しつけて構えると、周囲を警戒しながら正面に見える周辺で最も高いビルに駆け寄り、入り口を押し開けて中に入る。
「姫川、目的地に潜入開始」
了解、という四人の声が一斉に耳に響く。音に立体感があるようで、不愉快だな、と優奈は思いつつも、銃口を方々に向け、敵襲に警戒しながら一歩一歩足音を殺して進む。右手に事務所が二部屋、正面奥に階段がある。突然奇襲されても厄介なので、一室一室確かめていく。一階のフロアはほとんど物置だったらしく、何かが隠れる隙間もないほど段ボールや書類が山積みになっていた。侵生者はいないと判断して二階へと上がる。
二階に上がりかけていたところで、前方から何かを引きずる音が鳴っていたので、優奈は姿勢を低く保ちつつ、銃口を前方に向ける。やがて視界が二階のフロアを捉えると、制服を着た警官が死体であろう男の体を引きずって歩いていた。
おかしい、と優奈は目を凝らす。警察がこのエリアに入るなどという情報は入っていなかった。しかも特務課でない、制服警官が一人でこんなところにいるのは不自然だ。
警官の動きがぴたっと止まり、首をぐるんと優奈の方に巡らせる。慌てて伏せて隠れるが、優奈は確信していた。
間違いない。あの警官も侵生者だ。
恐らく、かつて行われた激戦の際に殉職した警察官だろう。警察も猟勇会も、遺体を回収することが困難で、半数以上の遺体が回収を断念されていた。
胸元には弾痕があり、制服を赤黒く染めている。警官の侵生者はじいっと優奈の方を見ていた。いや、彼らに見るなんて行為は存在しない。コントローラーに操られて、そのように振舞わせられているだけだ。コントローラーは侵生者に見る能力なんてものがないことを知りつつ、自分がする癖のように、首を巡らせて対象者を見ようとする行動をさせることがある。
存在を悟られたか、と優奈は自分の姿がどこからか見られていないかと見回したが、周囲はコンクリートの壁に囲まれており、見られる恐れはない。
警官はぎこちない仕草で首を傾げると、正面に向き直り、再び死体を引きずり始めた。
コントローラーがこのビルの中にいる可能性は高い、と優奈は踏んでいた。コントローラーの能力によっては、遠隔地から操作している可能性も考えられるが、それほど高い能力を持ったコントローラーであれば、この入り口付近で立ち止まってはいないだろう。応援を呼ぶこともない、と判断した優奈は階段を駆け上がり、他に侵生者がいないことを確かめて廊下を走り、警官が消えて行った角に背を着けて息を殺し、銃の引き金に指を沿わせて、角の先へと飛び出した。
するとそこには、道の先に警官がにやにやしながら立っていて、その警官と優奈の間に引きずられていた男の死体が転がっていた。
警官が襲い掛かってこようと動き始めるので、優奈は照準をすかさず警官の脳天に向けて、引き金を引いた。轟音が鳴って銃弾が飛ぶと、それを待っていたかのように引きずられていた男が突如として起き上がり、自身の額で弾丸を受け止めた。男の頭が弾け飛ぶと、制御の利かなくなった侵生者はただの死体に戻り、その場に崩れ落ちる。だが、その向こうから警官の侵生者が猛然と駆けより、男の死体を飛び越えて優奈に迫った。
優奈は舌打ちして次弾を装填し、銃口を警官に向けて引き金を引いた。照準を合わせる余裕のなかった銃弾は警官の右胸を直撃して撃ち抜いたが、痛みを感じない侵生者には意味がなかった。
警官は跳躍して優奈に飛び掛かると、彼女の両手を掴んで押し倒した。倒れた拍子にライフルは落ちて床を滑っていった。優奈の両腕を掴んで押さえつつ、警官は口を開いた。呼吸をすることのない口は、ただの空洞でしかなく、その空洞からは腐敗した死の臭いが漂っていた。
優奈は腕や体を捻って逃れようとするが、警官の腕力が強く、容易に抜け出せない。優奈の首筋に噛みつこうと、警官は口を大きく開いて首を伸ばしてくる。
振り払えない、と悟って、優奈は右手を懸命に引き寄せて、髪の毛に手を伸ばす。そして髪に挿して隠してあったヘアピン状の針を引き抜いて、それを今にも首筋に噛みつきそうだった警官のこめかみに刺す。脳を破壊するには至らなかったが、警官は一瞬動きを止めたので、優奈は警官の体を振りほどいて、素早く立ち上がると腹を蹴り飛ばして転ばせ、身動きがうまく取れなくなったところに後ろから回り込んで、頭を両手で抱えるように掴み、首をへし折った。
侵生者は脳を破壊するか、首をへし折って脳と体の連結を無力化することで行動を停止させることができた。人間と違ってそれ以外の部分へのダメージは意味をなさないのが、侵生者の厄介なところだった。
「こちら姫川。侵生者と交戦。排除二。コントローラーが近くにいると思われます」
マイクに向かってしゃべりかけると、すぐに低い男の声で「佐伯了解。応援を要するか」とリーダーの佐伯から返ってくるので、「不要。作戦通り行動されたし」と言って、落ちた銃を拾い、三階の階段へと足をかける。
本来猟勇会の任務は侵生者の駆除であり、コントローラーとの交戦は任務外の仕事になり、警察の特務課に対処を任せるものなのだが、特務課は抱えている事件も多く多忙なので、すぐに人員を派遣できるとは限らない。その場合折角見つけたコントローラーに逃げられる可能性があるので、コントローラーの対処も行っていた。公的にはコントローラーの排除に関しても認められているので、法的な制限などはなく、対処することができた。
今の交戦で潜んでいるコントローラーは少なくとも二体以上の侵生者を操作できることが分かった。コントローラー自身が武器を持っているかは分からないが、三対一になる公算は高い。もっとも、このビルの中の侵生者が先ほどの二体だけだったのなら話は楽なのだが、そうはいかないだろうなと思って優奈はため息を吐く。
三階に上がると、各オフィスを隔てられていた壁が強引に撤去され、一面を見渡せるフロアになっていた。階段正面奥には、黒いパーカーをフードまで被った人物が椅子に座っていた。恐らくコントローラーだろう、と当たりをつけると、その人物が立ち上がってフードをとった。
そこにいたのは、優奈と同じ二十代前半ぐらいの若い女だった。小柄で、明るい茶髪が肩口で揺れ、度のきつそうな黒縁の眼鏡をかけていた。上半身は極彩色の絵が描かれたTシャツに黒いパーカー。下半身はジーンズにスニーカーだった。女の手には特に武器などは見えない。女は世の中のすべてを呪い殺すような深く淀んだ目を優奈に向けていた。激しい敵意が身を刺すのを感じた。
これはちょっとまずったかも、と周囲を目だけで観察する。床には等間隔で、円を描くように死体が転がされていた。目に見える範囲だけでも、十体はある。それがすべて同時に襲い掛かってくることはないだろうと思うが、代わる代わる操作されて、どれが襲い掛かってくるか読めない状況に追い込まれると、かなり厄介だ、と冷や汗をかく。
「ここはあたしの家よ。出て行ってよ」
女は手を掲げようとする。優奈は先手必勝とライフルの照準を女の額に合わせ、引き金を引く。飛んだ銃弾は女を撃ち抜くかと思われたが、背の高い男の侵生者が銃弾の軌道上に割り込み、胸で銃弾を受け止め、よろけたものの踏み止まって立った。
左側に横たわっていた子どもの侵生者がむくりと起き上がり、優奈に向かって行く。
落ち着いて銃口を巡らせ、子どもが接近しきる前に額を撃ち抜き、再び照準を女に向けようとするが、元の場所に女はいなかった。女がいたそばにあったテーブルが倒されており、そこに隠れたか、と優奈は考える。足を踏み出したところで、周囲にいた侵生者たちが一体ずつ時計回りに順番に置き上がった。だが、起き上がっても迫ってくる様子はなく、ただ立ち尽くしてものを映さぬ瞳を優奈に注ぎ続けていた。
向かってこないのが不気味だった。向かってこないならその隙にコントローラーを仕留めるか、侵生者たちの頭を潰して行動不能にしておきたいところだったが、どちらの行動をとるにしても、銃を撃った後の隙を突かれるのが懸念材料だった。コントローラーを仕留めるのが最善手だったが、机の後ろのどこに隠れているか判断できない以上、外す可能性がある。
「こないの? こないなら、こちらからいくわよ」
女の声が机の後ろから響いてくる。それと同時に、二時方向と六時方向にいた侵生者が動き出し、優奈に向かって来る。
優奈は接近を許す前に二時方向からくる男の侵生者の頭を撃ち抜いて無力化し、振り返りながら右足で回し蹴りを放ち、後方から迫っていた老人の侵生者の足を蹴ってへし折る。老人は崩れ落ち、ばたばたともがいていたが、やがて女に見切りをつけられたのか、動かなくなる。そして三時方向と十時方向の侵生者が今度は動き出す。
思っていたより、厄介。と優奈は視線を素早く巡らしつつ、ほぼ同時に殺到する二人の侵生者をどう捌くか思案して、銃床で三時方向の女の顔を殴り、動きを止めると振り返って十時方向の男を蹴り飛ばして、銃弾を装填し、三時方向の女に向ける。すると三時方向の女は脱力し、その隣に立っていた男が向かって来る。
倒される前にコントロールを切り替える戦法できたか、と忌々しそうに歯噛みすると、優奈は素早く照準を隣の男に合わせ、額を撃ち抜く。そして三時方向の女が再び動き出し、七時方向にいた子どもが動き出す。
その二人には構わず、机に向かって走ると、机を薙ぎ払って弾き飛ばす。短い悲鳴を上げて、コントローラーの女が机の影から転がり出る。
優奈がコントローラーの女を殴り飛ばそうと拳を振りかぶったところで、子どもの侵生者が足に飛び掛かってまとわりつく。それに意識が一瞬奪われた瞬間、女の侵生者が振り上げた拳に飛びついて押さえる。
左手に持った銃を振り回して女の頭を殴るが、女の力は些かも弱まらない。左足に飛びついた子どもも、子どもとは思えない力で振り払えない。
コントローラーの女は勝機と考えたか、ポケットからナイフを取り出して鞘を払うと、優奈に対してちらつかせながら近寄ってくる。
「あんた、強いね。それにきれいだ。気に入ったよ。あたしのコレクションにしてあげる」
女は恍惚とした表情をして、優奈を眺め回した。その蛇の舌が這うような下劣さに、優奈は身震いをして、「残念だけど、お断り」と首を振った。
女は気分を害したように顔をしかめると、かさついた唇を舐めた。その唇は土の中で蠢く蚯蚓のようだった。「強がったって、あんたは逆らえないのよ」
女はナイフを突きつけるように前に出して近づいてくる。優奈は子どもが押さえた左足の踏ん張りを確かめ、問題ないと分かると、女に向かってにっこりと笑いかけ、自由な右足を目にも止まらぬ速さで蹴り上げ、女が手に持ったナイフを蹴り飛ばした。
ナイフは回転しながら舞い上がり、天井に突き立った。
そして優奈は左脇で銃床を挟み、引き金に指を当てて女の方に銃口を向ける。
そんなことさせるものですか、と女は子どもを操作して足から離れて銃に飛び掛からせ、揉み合った果てに優奈は何とか銃を撃つものの、銃口は天井の方を向いて硝煙を上げていて、女からは完全に狙いが逸れてしまっていた。
女は勝利を確信してけたたましい笑い声を上げ、子どもの侵生者から長身で筋肉質な男にコントロールを移して、優奈の首を締めさせて殺そうと近寄らせる。男が優奈の首に手を伸ばしたところで、優奈はふっと笑う。
「何がおかしいの……!」
怒りに身を震わせた女が優奈に平手打ちをしようと腕を振りかぶった瞬間、天井から落下したナイフが女の肩に落ち、突き立った。
悲鳴を上げ、痛みに呻くと、女はよろけてへたり込んだ。痛みに集中が乱されコントロールを失った侵生者たちは動きを止める。
優奈の放った弾丸は天井を撃ち抜き、その衝撃で刺さっていたナイフが抜け、女に刺さったのだった。
振り返りざまに後ろに迫っていた男の腹部を蹴り飛ばして、男はもんどりうって後方に倒れた。そして銃口をコントローラーの女の足に突きつけ、足を撃ち抜く。
女は絶叫し、血が夥しく流れる傷跡を震える手で押さえる。目には涙が浮かんでおり、憎悪に染まった眼差しを向けていた。
「一つ訊きたいんだけど」
銃口を女の額に押し当て、無邪気そうに見える笑みを浮かべて言った。
「あなたは十年前、コントローラーだった?」
女は痛みに堪えて激しく呼吸しながらも、「十年前って言ったら、中学生でしょ。違うわよ」と震えて半分涙声になった声を振り絞って言った。
「そう。じゃあ、竜崎という男を知っている?」
女はふるふると首を振った。「し、知らない。あたしは、他のコントローラーと会ったことなんて」
優奈はさらに目を細めながら、「どうして竜崎がコントローラーだと思ったの」と氷よりも冷ややかな冷徹な声で訊いた。
女は痛みと恐怖に蒼白になりながら、「そ、それは」と口ごもる。優奈は追い打ちをかけるように、「喋った方が身のためよ」と言い捨てた。
女は逡巡したが、やがて観念したように「竜崎はあたしが永劫の樹にいるときに会った」と白状した。
「今はどこにいるの」
「それは知らない。ほ、本当よ。今も永劫の樹にいるんじゃないの。どこにいるのかなんて分からないわよ」
ふうんと優奈は女の表情を眺めて嘘がないことを確かめつつ、「竜崎はどんな侵生者をコントロールしていた?」と訊いた。
女は首を振って、「知らない。噂じゃ、傷一つ負ったことがないほど強力な侵生者らしいけど。あたしも、すぐに樹を抜けたから」と答えて、足の痛みに涙を浮かべて、恐怖にしゃくりあげつつ、「助けて、お願いよ」と上目遣いに優奈を見上げて訴えた。
「どうしようかしら」
優奈は右上方に視線を泳がせ、思案する。そして女はその一瞬の隙をつき、最も優奈の近くにいた子どもの侵生者を操作して飛び掛からせようとするが、それを読んでいた優奈は子どもが接近するよりも早くコントローラーの女の額を撃ち抜く。
額を撃ち抜かれた女は悲鳴を上げることもできず絶命し、後ろにのけ反って倒れ、床に血だまりが広がった。
ふう、とため息を吐くと、優奈は銃を下ろし、「判断としては正しかった。コントローラーを生かして捕えようなんて、こちらも考えてない。あなたが助かるには、わたしを殺すしかなかった」と死んだ女の顔を憐れんで眺め、そして関心を失ったように無表情になって、階上へと上がって行く。
ビルの中には他にはコントローラーはいないようだった。優奈は屋上まで上がると、望遠鏡で周囲を見回す。
「姫川、目的地到達。周囲の観測開始」
「了解。新庄、ポイント四十五の交差点に到着。観測願います」
新庄が通信で告げてきたポイントに望遠鏡を向けると、新庄の向かって右手側に動いている侵生者の一群がいた。数を数えると五体はいた。一人で相手するには些か多い数だ。
「姫川、観測。右五時の方向に数五」
「佐伯了解。新庄は桂木の到着を待って、二人で掃討に当たれ」
了解、と新庄と桂木の声が重なる。
優奈は最後尾を行く三沢の周囲に望遠鏡を向ける。三沢の後方と前方を挟み撃ちにするように六体の侵生者が向かっていた。優奈は慌てて佐伯に応援を頼む。
「佐伯了解。三沢は後方の三体をやれ。俺は前方の三体をやる」
「三沢、了解」
しばらくして、あちこちから発砲音が響いてくる。優奈は新庄たちと三沢たちを観測しつつ、周辺の状況に変化がないか見渡して確認する。侵生者が動いているということは、コントローラーが近くにいる可能性は高い。だが、見る限り該当しそうな人影はない。建物の中になど隠れられてしまっていればお手上げだが、コントローラーも侵生者との距離が近ければ近いほど操作しやすい。侵生者を視認できる距離にはいるはずだと思った。
「新庄、掃討完了。姫川さん、コントローラーは」
「観測できる範囲にはいないわ。引き続き警戒して」
「新庄、了解。……え?」
発砲音が鳴り、新庄が驚愕したような声を上げる。優奈は嫌な予感がして、新庄に呼びかけるものの、発砲音が邪魔をして優奈の声が届かない。
「ちくしょう。桂木さん。なんだよ、こいつ。なんで……」
そこで新庄の声は途切れ、優奈が何度呼びかけても新庄と桂木から返事がくることはなかった。
「姫川。何かが起こっている。こちらは十体以上の侵生者に囲まれている。相当な能力者がいるか、複数人のコントローラーがいるものと考えられる」
佐伯の言葉に慌てて望遠鏡を巡らせると、佐伯の周囲を十体ほどの侵生者が囲み、波状攻撃を仕掛けていた。そのあまりの連携のとれた攻撃に、熟練したハンターの佐伯も思うように反撃ができずにいた。三沢は、とそちらを見てみると、三沢は既に複数体の侵生者に組み付かれ、嬲られて顔が血まみれになっていた。
「佐伯さん、三沢さんが危険です。救出に向かいます」
「だめだ。姫川、お前はすぐに離脱しろ」
そんな馬鹿な、と優奈は絶句する。新庄も桂木も恐らくやられた。その上三沢や佐伯まで見捨てろと言うのか、と優奈は不服そうに「できません」と拒否する。
「いいか、よく聞け、姫川。全滅しては、俺たちは何の情報も持ち帰れなかったことになる。だが、お前が帰還すれば、大勢の侵生者を制御できるだけの能力者が、このエリアにいることを伝えることができる。そうすれば、このエリアの攻め方も変わってくるだろう」
しかし、となおも抗弁しようとする優奈を、佐伯は「馬鹿野郎!」と𠮟りつける。
「俺たちの死を無駄にするなと言ってるんだ。お前は生きて帰れ、姫川!」
優奈は唇を噛み締め、悔しさに床に拳を叩きつけて、「了解」と絞り出したように言って、屋上を放棄してビルを下り始めた。
優奈は有事の際に設定していた帰還路をとって走り抜ける。マイクの向こうからは佐伯が奮戦している発砲音が絶えず響いていた。
やがて発砲音が収まると、優奈は沈痛な面持ちで目を瞑ったが、足は止めなかった。
「こちら佐伯。姫川無事か。こちらは敵を掃討した。これより帰還路へ向かう」
「佐伯さん! 無事でしたか」
優奈は安堵してほっと胸を撫でおろす。
「ああ、何とかな。だが奴ら、尋常じゃないほど統率のとれた動きだった。猟勇会でも警察でも、見たことがないレベルだろう」
「複数人のコントローラーでしょうか」
佐伯はしばし沈黙し、「分からん。そうであってもなくても、相当に強力な能力者だ」と答える。
帰還路の進路方向を望遠鏡で確認しつつ進む。進路上には今のところ侵生者はいないようだった。佐伯も合流すれば、少なくとも二人は脱出できるか、と優奈が考えていた、まさにその時だった。マイクから発砲音が響き、佐伯の苦悶の声がもれる。
「佐伯さん!」と優奈は必死の声で呼びかける。
「ば、ばかな。銃器を操る侵生者だと……」
もう一度発砲音が響いて、そしてマイクの向こうは完全に沈黙した。
優奈は立ち止まって呆然としたが、佐伯の「情報を持ち帰る」という言葉を思い出して再び走り出した。
侵生者は銃器など、高度な操作が必要になる行動は行えない。それがこれまでの常識だった。だが、その常識を覆す強力な能力者が現れているとしたら。それは、とてつもない脅威になる。絶対に持ち帰らねばならない情報だ。
優奈は走り続ける。灰色に煙った空が、今にも雨を降り出しそうにしていた。
〈続く〉