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豆腐の角に頭をぶつけて果てろ

 豆腐を投げたら前を歩いていたサラリーマンの後頭部に当たった。
 豆腐は近所のスーパーシブタニで二割引きで売られていた賞味期限間近のもので、冷奴にしようと思って買ったものだ。
 私はスーパーからの帰り道で、誰かと出くわす可能性があるにも関わらずノーメイクで、ダボっとしたトレーナーにスウェットを着て、クロックスを履いていた。もし職場の同僚にでも遭遇すれば、ぎょっとした顔をされるだろう。私の生活圏は職場のオフィスがある場所からも近いので、可能性はある。
 豆腐はサラリーマンの後頭部に当たって、湿った音をたてて弾け飛び、後頭部に張り付いた僅かなもの以外は歩道のアスファルトの上に落ちた。サラリーマンは「うおう」という野太い声を上げて振り返り、彼の横を走って通り抜けようとしている若い黒いパーカーの男の腕を掴むと左足をパーカーの若者の足の間に差し込み、そこを支点にしてぐいと腕と肩を押してのけ反らせ、足を払って腰を浮かせて背中からアスファルトに叩きつけた。柔道家もかくや、という見事な投げ技だった。
 いってえ、と黒パーカーの若者は悲鳴を上げ、私の誕生日に夫が買ってくれたヴィトンのバッグが若者の手から地面に落ち、跳ねて転がった。財布とスマホがバッグから転げ落ち、怒り心頭に発した私は地面に飛び散った豆腐をかき集めて若者の顔に叩きつけ、口の中にねじ込んだ。若者は餌をせがむオットセイのような声を上げて体をびくんびくんと跳ねさせ、豆腐から逃れるために顔を左右に激しく振っていた。
「ひったくりなんです、この人」
 パーカーの若者の顔に絹ごしの豆腐を塗りたくりながら、激しく息を吐いて言うと、サラリーマンも後頭部から豆腐を剥がすと若者の顔に押しつけて、「やはりそういう事情でしたか」と納得したように頷いた。
 しかし私はひったくり、とも声を上げたりしていないのに、なぜサラリーマンは分かったのだろうか。疑問に思ってそのことを質してみると、「実は豆腐を頭にぶつけられるのは今日三回目でして」と照れと疑問が混じった複雑な表情をして、苦笑しながら答えた。
「人生で一回でも豆腐を頭にぶつけられる経験ってレアだと思うんですけど、三回ってウルトラレアを引くような確率じゃないですか」
 私は最近ハマっている可愛いキャラクターが売りのスマホゲームのガチャの排出率を思い浮かべて言った。ちなみに上からウルトラレア、スーパーレア、レアで、ウルトラレアなんか無課金じゃまず出ないし、一万円課金しても出ないこともある。ついこの間三万円溶かしてしまい、夫と激しい口論になったばかりだった。ちなみにウルトラレアは出なかった。
「今日の朝の占いで、ラッキーアイテムが豆腐になってたんですよ。そのせいですかね」
 サラリーマンはずれた眼鏡を直すと、そう言いながらポケットからスマホを出して警察に電話する。五分もすれば到着するそうだ。通行人の人が協力してくれて若者を押さえてくれていた。若者は逃げ出そうともがきながら、口から豆腐を懸命に吐き出し、「くそが、この豆腐ババア」などと悪態を吐いたので、私はまだ二十代だ、と叫んで味噌汁用に買ってあった木綿の豆腐を一丁若者の口に押し込んだ。
「三回とも、何かトラブルで投げた豆腐に当たりましてね。身の丈に合わなそうな女物のバッグを抱えて走ってくる男がいたので、こいつだとぴんときたのです」
 私以外にも殺傷能力など皆無な豆腐を投げようと考えた者がいたことにも驚いたが、あの一瞬でそこまで洞察して振舞えるこのサラリーマンも只者ではないなと思った。しかもあの投げ技。さぞや名のあるSPなどではないだろうか、と思った。SPが名が売れてしまっていていいのかということは置いておいて。
 しかし豆腐とは不思議な食べ物だとは思いませんか、とサラリーマンは豆腐を投げた拍子に転んで道に散らばってしまった私の買い物袋の中身を拾い集める。牛乳はパックの口が切れてしまって中身がこぼれてしまっていた。鶏むね肉は破れたパックから落ちて、アスファルトの上に落ちていると何かの臓物のように見えなくもない。玉ねぎやジャガイモも方々に転がってしまっていて、車に踏まれたり人に蹴とばされたりしていたが、拾える限り拾って集めてくれた。
「私が大学生の頃です。夜中にどうしても豆腐が食べたくなったことがありましてね。もうスーパーなど閉まった夜中のことですよ。我慢して翌日の開店まで待てばいいだけなのですが、その時の私は豆腐に飢えた獣でした。何がなんでも食わねばならぬ、と思い詰めた私は、近所にあった生鮮食品を99円で売っているコンビニに駆け込んだのです。するとそこには絹だろうが木綿だろうが、豆腐が売っているじゃありませんか。私は絹ごしの豆腐一つを引っ掴み会計を済ませると、部屋に帰り、醤油も何もかけず、豆腐だけをスプーンで貪り食いました。まるでプリンかヨーグルトでも食べるように。あの時の豆腐の冷たい舌ざわり、滑らかな喉ごしとほのかな甘みを、私は生涯忘れないでしょう」
 はあ、と私は若干引きながら聞いていたが、恩人のことでもあるので、引き攣った笑みで相槌を打った。豆腐に飢えるってなんだ。そんなに豆腐単独で食べたくなることなんてあるのか。しかも醤油もかけなきゃ、味なんかあってないようなものだろうに。豆腐は冷奴か麻婆豆腐に限る。
「だから今日のラッキーアイテムが豆腐だと知ったとき、私は今日何かが必ず起こると確信していたのです。まさか三回も起こるとは思いませんでしたが」
 はは、どーも、すいませんねえ、と頭の後ろを掻きながら、苦笑して頭を下げる。けれど豆腐を二丁だめにしたことで、夕飯のおかずが減った。味噌汁の具には何を入れようか。わかめと、油揚げがあったかな?
 笑いながらどうしようか、と考えていると、「僭越ながら」と言いながらサラリーマンが黒いビジネスバッグを探り、中から絹ごし豆腐のパックを取り出す。しかもウチじゃ絶対買わない一丁250円くらいする高級品だ。しかしなぜビジネスバッグから豆腐が出てくる、と疑問に思いながらも差し出されるので受け取ると、豆腐はなぜだかひんやりとしていた。
「豆腐がないとお困りでしょう。よろしければそちらお召し上がりください」
 豆腐がなくてご飯が食べられないほど困るわけではないが、冷奴を摘まみながらビールをキュッと一杯やりたいところだったので、ありがたく受け取った。今日ぐらいしか冷奴を食べられない。夫が二泊三日で九州出張中の今ぐらいしか。夫は冷奴を出すと手抜きだと怒り出す。そういうメニューなのだから、手抜きでも何でもないと思うのだが、とにかく手が込んでないと怒る。面倒くさい夫なのだ。
 警察はほどなく来て、その場であれこれ聴取を取ると署まで来てくれというので、結局解放されたのは午後七時だった。二時間半も拘束されていたことになるが、若者は常習犯だったらしく、取り調べれば取り調べるほどぼろぼろと余罪が出てきた。
 警察署から出た時には疲労困憊していたのだが、一緒に聴取されていたサラリーマンは溌溂としていた。よろしければお送りしますよ、と申し出てくれたので、買い物袋を提げて帰る気力もなかった私はその好意に甘えてしまった。
「豆腐は何にして食べるおつもりですか」
 暗くなり、街灯がまばらに点いた住宅街の坂をくたびれた足を叱咤して上りながら、「まあ、冷奴に」とぜいぜい息をする合間に答えると、「いいですねえ、冷奴。シンプルなのが一番ですよ」と幾度も頷きながら言って、大丈夫ですか、と訊かれて顔を上げた時には既に手を繋がれていて、引っ張られていた。
「この坂は疲れた足には堪えますねえ」と微笑みながら、サラリーマンは私の手を引いてどんどん進んで行く。どこかの家から、カレーの匂いがする。夫はカレーを作っても手抜きだと怒る。でもシチューを出しても怒らない。使うルーを変えているだけなことに夫は気づかない。自分じゃ料理などまったくしないから。馬鹿馬鹿しい、と思った。
「私は三年前に離婚しましてね。今日豆腐をぶつけられた残りの二人は、別れた妻と娘なんです」
 ええ、と絶句する。何がどうなれば、元妻子たちから豆腐を投げつけられるのだ。
「妻からは、昼食に誘われましてね。商談がすぐ近くだったものですから、立ち寄って昼食が並ぶのを座って待っておりましたら」
 サラリーマンは眼鏡をくいっと上げる。
「飛んできた?」
「ええ。飛んでまいりました。炒り豆腐が。私の後頭部に」
 はっはと笑って、おかげで豆腐を食いそびれましたよ、と言って再び高らかに笑った。その笑い声に触発されたのか、どこかの飼い犬が遠吠えを上げた。
「娘さんからは?」
「はい。娘はレストランで働いておりまして。そこで新メニューを出すから、試食してもらないかと言われて向かったのです。炒り豆腐を食いそびれた後に。店に着きますと、すぐに出すからということで、やはり座って待っておりました。私の娘、そそっかしい上におっちょこちょいでしてね。新メニューを運んでいる途中でつまづいて転んだのです。そして」
 私は息を飲み、「頭に飛んできた……?」と続きを引き取る。サラリーマンはにやりと笑んで、「そうなのです」と頷いて一拍置くと、「新メニューの豆腐ソフトが」と言って後頭部に当たったその冷たさを思い出したのか、ぶるっと身震いした。
 豆腐ソフト。と私は思っていたものと違って拍子抜けした。豆腐を練り込んだソフトクリームだろうか。豆腐に味がないのだから、それって美味しいのか、と怪訝に思って首を傾げた。
「そして三度目の正直とばかりに、あなたが豆腐そのものを」
 私は申し訳ない気持ちになって頭を下げるが、サラリーマンはいやいや、と屈託なく笑って、「ここまで来ると爽快ですし、豆腐そのものに当たっておかねばとも思いますね」と快活に言う。
 そうこうする内にマンションの入り口に辿り着いたので、サラリーマンは袋を私に返して「では」と背を向けて立ち去ろうとするので、私は思わず声を上げて引き留めていた。
「あ、あの。お礼もしてませんし。簡単なおもてなししかできませんけど、夕飯でもいかがですか」
 サラリーマンはきょとんとした顔をした後で、顔を綻ばせて、「お気遣い痛み入ります」と頭を下げる。「しかしそこまでご厄介になっては失礼というもの」と言って踵を返そうとする。
「実は今日夫が不在で。一人で夕食をとるのも味気ないなと思っていたんです」
「であればなおのこと。ご主人の不在中に上がり込むわけには」
 サラリーマンはあくまでその場を辞そうとする。私はゲームのガチャで三万円を溶かした時と同じ心境になっていた。意地でもウルトラレアを引く。しかも今回は豆腐を三回もぶつけられたウルトラレアだ。ここまで手が届いているのだから、なにがなんでも引いてやろうと、射幸心を限界まで刺激されていた。
「冷奴なんていかがです?冷たいビールもセットで」
 私はなけなしのへそくりを課金するつもりで切り出す。この切り札が通じなければ、もう私にガチャを引く力はない。
 サラリーマンはううむと唸って腕を組むと、「魅力的な申し出」と「しかしお邪魔しては」とぶつぶつと繰り返しながら、やがて欲望に負けたのか、「目の前に差し出された豆腐を食わぬは男の恥というもの」と決然とした表情で言うと私に向かって深々と頭を下げる。
「ご無礼を承知ながら、ご相伴にあずかりたく」
 やった。引いた。陥落した。ウルトラレア、と心の中でガッツポーズをして、マンションのオートロックを解除し、サラリーマンの手をとって中に引き入れる。
「不躾を承知でもう一つ」とサラリーマンは言い出しにくそうに逡巡した様子を見せながら言うので、「なんですか」とさあらぬ体で首を傾げて見せる。
 サラリーマンは人差し指をぴっと立てて、「薬味はしょうがとねぎでお願いしたい」と恥じ入るように言うので、「お安い御用ですよ」と応えて彼の人差し指をそっと握り、引いて行く。
 三階の部屋の前に辿り着くと、鍵を開け、扉を半身開いてサラリーマンに「どうぞ」と示して先に入らせ、私はその後からするりと入る。玄関は広くないので、礼儀正しいサラリーマンは部屋に上がらずそこで立ち止まり、後から入った私と背中合わせで体が触れる。互いの熱を感じつつ、私は扉の外に顔を出して、左右に視線を配って眺め、人目がないことを確認すると確信に満ちた笑みを浮かべ、ゆっくりと扉を閉じる。
 豆腐が入った買い物袋が、三和土にばさりと落ちる。

〈了〉


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