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彼女にとって泣くのは最後の抵抗でありそして

余命5日ほどに迫ってきた理香子の胸は青黒く変色していた。彼女には生まれつき免疫異常の宿痾しゅくあ があり、その上彼女は結核を患ったのだった。現代医学の洗礼をあびてもなお、彼女に巣食う結核菌は衰えを知らなかった。みるみるうちに彼女は青ざめていった。咳は日に日にひどくなり、痰には鮮やかな血が混ざるようになって来た。あっという間にこのありさまだった。

理香子は大変やさしい子だった。女の涙は恐ろしいと言うが、それは理香子には絶対に当てはまらぬ妄言だった。彼女は、目に入る物をとりあえず愛した。一度、彼女の担当になった看護師が、結核がうつるのを恐れてか口と鼻をぴっちり片手で覆いながら彼女の点滴の交換をしたことがあった。彼女はそんな看護師でさえも愛した。そして、こんな自分でも嫌な顔をなるべく見せまいと努力する人々の優しさにひとり感激しては、泣くのだった。

病室の窓。

他の患者に感染させぬよう、彼女は陰圧 いんあつの個室に入れられていた。

その窓からは近くの保育園の様子が見えた。幼き命の、単純で美しいダイナミズムを見て、理香子は泣くのであった。

その窓からは秋の空を謳歌 おうかするべく、悠々と羽を伸ばして飛ぶ秋茜 あきあかねの大群が見えた。彼らは喧嘩をする。音もなくぱちぱちと空中でぶつかり合う様子は、当人たちにとっては生きるか死ぬかの必死な争いのはずなのに、見る者をふっと笑わせるような、いとけない哀愁があった。その哀愁に、彼女は涙を流した。

その窓からは隣の建物の様子もよく見えた。建物の壁は黒ずんで汚れていた。ああ、その汚れはいったいどうして、なんの因縁があって、彼女を泣かせるような模様を描いたのだろうか?それは遠くから見ると猿が歯をむき出しにして怒っている顔のように見えるのであった。それは、偶然にも彼女の主治医とそっくりであった。思いがけぬ戯画 カリカチュアとの出会いに、彼女は涙を流しながらふふふと笑った。

もう1週間も経てば、彼女はこの部屋からいなくなるだろう。神経質に密閉された棺桶の中で、誰の顔も見ずに斎場 ゆにわに連れていかれることになる。彼女の部屋は北側であった。もう一度、もう一度でいいから太陽が見たい・・・

部屋の移動はできなかった。誰にも顧みられず、誰にも直視されず、当たり前のものとして毎日多くの人の顔を照らし続ける太陽という偉大な存在の孤独に思いを馳せ、彼女は泣いた。


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